ザ・ビートルズが初来日
1966年6月29日に訪日
公演は6月30日および7月1日・2日。
7月3日に離日。
会場は東京都千代田区の日本武道館大ホール
地方公演は行っていない。
司会を務めたのはE・H・エリック。
前座として尾藤イサオ、内田裕也、望月浩、桜井五郎、
ジャッキー吉川とブルーコメッツ、ブルージーンズ、
ザ・ドリフターズ(6月30日・7月1日のみ)
が舞台に上がった。
時代背景
歓待の一方で、日本武道館という場所でポップ・ミュージックを演奏する事について批判する者が存在した。
街宣車や「Beatles Go Home」と書かれた横断幕の前で街頭演説をする者が現れ、さらに実際にビートルズ側に対して脅迫する者もいた。
この為、警視庁は大規模な警備体制を採り、会場内においても1万人の観客に対して3千人の警官を配備し監視を行った。
またビートルズ自身も行動が著しく制限され、分刻みのスケジュール厳守および外出の禁止などの措置がとられた。
当日(マイク・スタンドの不備などの問題は生じたが)コンサート自体は事故や暴動などの問題は生じなかった。
むしろ厳重な警備もあって(観客は立ち上がったり近づいたりする事が許されていなかった)会場が静かだったため、メンバーは最初のステージで自分達の音楽が合っていない事に気づいてショックを受け、次のステージまでに慌てて直さなければならなかった。
今にしてみると、ただ単に誤解なのだが。。。
日本公演で演奏された曲
1.ロック・アンド・ロール・ミュージック
2.シーズ・ア・ウーマン
3.恋をするなら
4.デイ・トリッパー
5.ベイビーズ・イン・ブラック
6.アイ・フィール・ファイン
7.イエスタディ
8.彼氏になりたい
9.ひとりぼっちのあいつ
10.ペイパーバック・ライター
11.アイム・ダウン
名称由来
「BEATLES」という名称は、ジョンとスチュアート・サトクリフが考えた造語である。
ジョンの発言によれば、この名前を提案したのは1960年の4月で、バディ・ホリーのバンド名である「バディ・ホリー&ザ・クリケッツ」のクリケッツにあやかり、同じ昆虫で、同じように2つの意味を含んでいる言葉としてビートルズを『乱暴者』から思いついた。
しかし、バンド名を「ビートルズ」とした頃、クラブ出演の仕事を依頼してきたブライアン・キャスにその名前を嫌われ、出演条件として改名を提案され「ロング・ジョン&ピーシズ・オブ・シルヴァー」という名前が提示された。
話し合いの上、お互い譲り合う形で『ロング・ジョン&シルヴァー・ビートルズ』と名乗る事になったが、その後ロング・ジョンがとれて「シルヴァー・ビートルズ」と名乗る様になった。
ただし同年8月から行われた最初のハンブルク巡業で出演したクラブ「カイザー・ケラー」の広告に出演者として記載された時点で「The Beatles」となっている。
豆知識
前座バンドについては後にポールが
「ハロー・ビートルズ、ウェルカム・ビートルズ、といった歌が聴こえて来た。音楽性は高く評価出来ないがそういう歓待は嬉しかった」
と発言している。
このとき歌われた楽曲「ウェルカム・ビートルズ」は1966年9月10日発売のジャッキー吉川とブルーコメッツのアルバム『青い瞳/青い渚 ブルー・コメッツ・オリジナル・ヒット集』に収録されている。
ドリフの注目が上がった日
ザ・ドリフターズはビートルズ日本公演の前座を務めた。
僅か1分15秒の出演時間ではあったが、前座用のステージが別に作られていたにもかかわらず、ドリフターズだけは勝手にビートルズと同じステージで演奏してしまった(ただし、加藤のドラムセットはリンゴのものとは隔離されていた)。
これをきっかけに、ドリフが注目されるようになる。
なお、加藤茶は、ビートルズの前座はしたものの、警備が厳しくビートルズのメンバーには会えなかったと語っているが、いかりやは自著で(ドリフ側が)舞台から退場するときにすれ違ったと記している。
その際、ポールのベースがいかりやのベースにぶつかり、傷跡は付かなかったものの激昂。
何も言うことができずにいたが、後に「傷跡が付いて欲しかった」と話した。
当時のメンバーは、いかりや長介、荒井注、 高木ブー、 仲本工事、加藤茶。
後に、荒井注の脱退で志村けんが加入する事となる。
抜粋:http://tiny.cc/eucyzx(wikipedia)より
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