【今日の歴史】1963年11月22日金曜日の事【ケネディ暗殺】

アメリカでは50年後には国家機密情報も公開される・・・ってことになってるのだが、やはり公開されなかった。
アメリカでは50年後には国家機密情報も公開される・・・ってことになってるのだが、やはり公開されなかった。

ケネディ大統領暗殺事件

あまり関わりたく無いので詳しくは書かないが、陰謀は↓の方に有ります。

ケネディ大統領暗殺事件(John F. Kennedy assassination)とは、1963年11月22日金曜日、現地時間12:30にテキサス州ダラスで第35代アメリカ合衆国大統領ジョン・F・ケネディが市内をパレード中に銃撃され死亡した事件である。

犯人とされたリー・ハーヴェイ・オズワルドが2日後に警察署管内でジャック・ルビーに撃たれて殺され、しかも大統領が後方から撃たれたとする公式見解に反して前方から撃たれたとする異説も出て、白昼に多くの人々が見ている前で起こった衝撃的な事件発生と犯人が殺害される意外な展開、そしてその後に暗殺の動機も背後関係も分からず多くの謎を残したまま捜査が終了し、陰謀説も多い事件として半世紀が過ぎた現在でも論議を呼ぶ事件である。

概要
テキサス遊説の背景

ケネディ大統領が1963年11月下旬にテキサス州を遊説することにしたのは以下の三つの理由からであった。

1、翌1964年11月の大統領選挙に向けて民主党選挙戦資金の寄付を求めるため。

2、その大統領選挙での再選へ向けての選挙活動の開始。南部諸州は以前は民主党の金城湯池と言われて牙城であったが、前年とこの年の夏にアフリカ系住民に対する人種差別について強硬な姿勢を取ったケネディに対する反感が渦巻き、翌年の大統領選挙で共和党から立候補が確実視されていた超保守派のゴールドウォーターに南部諸州を全て勝たれるとの予想が秋頃から民主党にはあった。そこで南部の中で唯一民主党が勝利する可能性があるのがテキサス州であった。選挙人数も南部で最大の州であり、ジョンソン副大統領の地元でもあり、最初のテコ入れをテキサス州にして、最低でもテキサスだけは確保するつもりであった。

3、前回1960年の大統領選挙では、ジョンソンの地元であるのにケネディ-ジョンソン組がテキサス州では辛うじて勝っただけで(ダラスでは共和党に敗北した)、しかもテキサス州の民主党が保守的なコナリー知事とヤーボロー上院議員(ケネディと親しい関係)が対立していて、このテキサスの民主党有力メンバーとの関係を修復させる狙いもあった。

行程はサンアントニオからヒューストンを経てフォートワースからダラス、最後はオースチンに行き、そしてオースティン郊外のジョンソン牧場で副大統領夫妻と週末を過ごす予定であった。
11月22日の朝にフォートワースでの朝食会に出席して、終了後飛行機で大統領夫妻はダラスに向かった。

現地時間11:40にダラス・ラブフィールド空港に到着した。

その後は「ダラス・トレードセンター」で昼食会が予定されてスピーチを行うために、自動車パレードはダラス・ラブフィールド空港からダラス市内を通って、ディーリー・プラザを含むダウンタウンを通過することが計画されていた。

防弾カバー使用拒否
透明な防弾カバーをかぶせたリンカーン・コンチネンタルのオープントップ・リムジンに乗るケネディ(1963年6月27日、アイルランド訪問時) ケネディ大統領夫妻とコナリー知事夫妻らがラブフィールド空港から乗車した車は、1961年式のリンカーン・コンチネンタルをオープントップに改造したパレード専用のリムジンであった。

当初、所轄のダラス市警察本部とシークレット・サービス(大統領付き護衛隊)は、狙撃や投石などに対する保安面の見地から、無防備なオープントップでのパレードではなく、透明な防弾カバーをオープントップにかぶせた上でパレードを行うよう主張した(なおこの様な防弾カバーは、これまでに数回利用されていた)。

実際に前月には、市を訪れた国連大使が暴漢に殴られたり、11月22日のダラス・モーニング・ニューズ紙上に、反ケネディ派による、ケネディ大統領を「お尋ね者」とする黒枠付きの全面広告が掲載されるなど、反ケネディ派による襲撃が懸念されたにもかかわらず、翌年に再選に向けた選挙を控え、国民に対して「親しみやすいイメージ」と「毅然としたイメージ」をアピールしたいと願っていたケネディ大統領とその側近は、ダラス市警察本部とシークレットサービスによる防弾カバー使用の主張を退けた。

国民に対するイメージ戦略を過度に重視したあまり、保安面を軽視することとなったケネディ大統領とその側近によるオープントップ・リムジンの防弾カバーの使用拒否が、その後のケネディ大統領の命運を大きく左右することとなった。

C123輸送機によりワシントンから運ばれたパレードに使用されるリムジンにバブルトップと呼ばれる防弾ガラスの屋根をつけるかどうかは、その日の天気次第とされていた。
当日のダラスの天気予報は終日雨の予報であったが到着の1時間前から天候は回復し、空は晴れあがり結局リムジンにバブルトップが付けられることはなかった。

市内パレード
暗殺事件現場のディーリー・プラザ。パレードの方向は黒の矢印、赤い四角が犯人がいたとされる教科書倉庫ビル、赤いバツ印2か所が狙撃された地点 リンカーン・コンチネンタルには最後列右側にケネディ大統領、左側に妻のジャクリーン・ケネディ、その前列の右側にテキサス州知事ジョン・コナリー、左側にその妻アイダネル(通称ネリー)・コナリー、その前の運転席(左側)にホワイトハウスシークレット・サービスのビル・グリアー、その助手席(右側)に同じシークレット・サービスのロイ・ケラーマンであった。

ラブフィールド空港からのパレードには合計12台の車が参加して、車列の先頭が先導する白バイで次にシークレット・サービスだけが乗った車で、その次が大統領夫妻が乗ったリンカーン・コンチネンタル、その後ろに再びシークレット・サービスが乗った車、そしてその次ににジョンソン副大統領とレディバード夫人が乗った車を中心にパレードの車列は 11:50 にラブフィールド空港を出発し、ダラス市内を 10マイル (16キロ) 前後のスピードを保ったまま「ダラス・トレードセンター」に向かってゆっくりと進んだ。
ダラスの至る所、ルートに沿ってケネディに批判的ないくつかの団体がプラカードを掲示しビラを配布した。
手製の抗議サインは車列の見物人達によって高く掲げられた。
しかし車列は、ケネディが数人の修道女および数人の児童と握手するために二度止まる以外はほとんど何事もなくその全ルートを通過した。
大通りに入ったリムジンの前に一人の男性が走り寄ったが、シークレット・サービスによって地面へ押し倒され車列から遠ざけられた。
しかし全体としては歓迎ムードで、後にコナリー知事は「心からの温かさ、理解、敬意を示す大変な数の市民が繰り出していた。大統領もジャクリーン夫人も心から喜んでいる様子であった。」と語っている。

ネリー夫人は大統領の方を振り返り「これでもうダラスがあなたを歓迎していないって、おっしゃらないでしょうね。」と言うと大統領は「もちろん。考えていませんとも。」と答えている。

12:30にケネディのリムジンはテキサス教科書倉庫ビルの正面にゆっくり接近した。

次にリムジンはゆっくりと120度方向を変え、教科書倉庫の直接前からわずか20メートル離れた位置にあった。

狙撃

教科書倉庫のビル
教科書倉庫のビル

後方の車からリムジンに飛び移る護衛官のクリント・ヒル リンカーン・コンチネンタルが教科書倉庫ビルの前を通過した時、およそ 6〜9 秒の間にケネディは狙撃された。

狙撃の間リムジンの時速は 9マイル(14キロ)から 13マイル(21キロ)であった。

ウォーレン委員会はその後、三発の銃弾の内一発は車列を外れ、一発がケネディに命中貫通してその後コナリーを傷つけ、最後の一発がケネディの頭部に致命傷を与えたと結論を下した。
ほぼ全ての者がケネディに少なくとも二発の銃弾が命中し、頭部への銃弾で死亡したことを認めている。

大統領に当たった第一発目の発射後、群衆から様々な反応が起こった。

多くの者は後に爆竹かバックファイアが鳴ったと思ったと証言している。

リムジンに乗っていた大統領夫妻や知事夫妻は一斉に右方向を向き、大統領は喉を押さえるように両腕を胸に当てて頭を下向きにして、一瞬何が起こったのか判らず大統領の顔を覗き込むジャクリーン夫人にもたれかかった。

その前列では撃たれたコナリー知事が「ノー、ノー、ノー!大変だ、皆殺しにされるぞ!」と叫び、それによってドライバーのビル・グリアーは状況を知った。

狙撃の最中にグリアーは素早く振り向き、叫んでいる知事と大統領を確認し、再び前方を見た。

その時に一瞬彼はブレーキを踏んでおり、再び後方を振り向くとケネディが頭部に致命傷を負う瞬間を実際に目の前で目撃することとなった。

大統領に当たった第二発目がケネディの右側頭部を貫通すると、彼はわずかに前傾し、彼の頭部右側の傷が頭蓋を開き、右肩は前方にねじれ僅かに上向きになり、その後座席後方のクッションに垂直にぶつかり、すぐに妻のいた左側に崩れ落ちた。

一発目の直後に後続の車を降りて駆け寄った護衛官のクリント・ヒルが後方のトランクに飛び乗る直前のことであった。そしてクリント・ヒルはトランク上へ這い出たジャクリーン夫人を座席に戻し、パークランド・メモリアル病院へ向かうよう指示した。


テキサス教科書倉庫ビルの前は広場で通称ディーリー・プラザと呼ばれている。

この大統領が狙撃されてすぐにリンカーン・コンチネンタルが猛スピードで走っていくところを目撃して現場はパニックに陥り、パレードを見に来ていた市民が一斉にディーリー・プラザをかけ抜けていた。

地元ダラス警察の白バイ隊員がバイクを置いてその場で拳銃を取り出して構えたが、何がどうなったのか分からず警察官もパニックになっていた。

沿道の負傷者
ジェームズ・ターグ(James Tague/暗殺を目撃した観衆の一人)は、ケネディが銃撃された位置から前方およそ80メートルの地点に立っていたが、発射弾の破片によると思われる傷を右の頬に受けた。

大統領の被弾
大統領が最初の弾を受けた時は喉に手を当てようと両腕の肘が上に向かっている。

背中の上部から喉仏に貫通したと見られているが、この1発だけの被弾であれば致命傷に至らなかったとも言われている。

二発目が大統領の右側頭部を貫き、大統領の頭部はひどく破壊され、これが致命傷になった。
また、被弾した際に大統領の身体が一瞬後方に動いて、その致命的な射撃は前方から行われたようにも見えることから、ザプルーダーフィルムでの映像はオズワルド以外の狙撃者の存在について様々な議論を生んだ。
ただフィルムの駒番号313は血しぶきなど飛沫は前方に飛び散っている。
直後にジャクリーン夫人が動転して後方に目を移し、オープンカーの後方部分に這い出て、シークレットサービスのクリント・ヒルにすぐ引き戻されている映像が独立した複数の映像から確認できる。
病院到着後に彼女は大統領の頭部の骨片を医師に渡している。

夫人の証言
ジャクリーン夫人は後にウオーレン委員会での証言で「銃撃は2発しかなかったと記憶している」「1発目が当たった時、彼がちょっと訝しげな表情を顔に浮かべていて片手が上がっていた」「2発目で吹き飛ばされた彼の頭蓋骨を押さえようと彼の髪をしっかり押さえて、彼の頭を膝に載せて車内で伏せていた」と述べて、後方に這い出したことは「そのことは全く覚えていない」と説明している。

記録された暗殺(ザプルーダー・フィルム)
パレード車列が通過する地点は重要なものと考えられなかったため、ラジオおよびテレビは空港での中継はしたが、パレードは中継しなかった。
目的地のダラス・トレードセンターの昼食会の会場にテレビカメラを置き昼食会を中継する予定であった。
後にKBOX-AMはその日のニュースの抜粋で銃撃の音をLPレコードで放送したが、それはオリジナルの録音ではなかった。

車列の後方の車に乗車したメディアを除いて、ほとんどの報道機関はトレードセンターでケネディの到着を待っていた。

しかしながら、ディリー・プラザでの暗殺現場はサイレントの 8ミリフィルムに 26.6 秒間記録されていた。

アマチュアカメラマンのエイブラハム・ザプルーダーが撮った物である為、後にザプルーダー・フィルムの別名で呼ばれるようになった。
486 コマのこのフィルムが多くの研究に用いられたのは、暗殺の直接の資料になるからである。
ザプルーダー・フィルムは映画『JFK』(オリバー・ストーン監督)やYOU TUBEなどで最近は容易に見ることができる。

FBIはザプルーダーが使っていた8ミリカメラが毎秒18.3コマで動いていたことから、暗殺時の大統領のリムジンの速度は11.2マイル(18キロ)の時速であったと推測した。
そしてザプルーダーフィルム全486コマから各コマの番号を確定して、大統領が頭部に致命傷を負った弾を被弾したコマを駒番号313と指定した。

そして大統領が1発目の銃弾を受けたのが駒番号210から224の間と確定した。1発目は道路標識に遮られて、被弾した瞬間の大統領の様子は写っていない。
大統領の顔が再び写っていたのは駒番号225で明らかに撃たれている様子であったため、それ以前に撃たれたと見られている。そしてコナリー知事が被弾したのは駒番号240であることが分かった。

これは事件直後にFBIが3発撃ち込まれて、1発目が大統領へ、2発目が知事へ、3発目が再び大統領へ当たったという報告と矛盾することとなった。

オズワルドが撃ったとされるライフル銃で連射した場合、「好機をとらえた二発の命中弾」の最低限の時間は2.3秒でザプルーダーフィルムで42コマが必要であった。

ここに当初考えられた単独の狙撃犯ではなく、別に狙撃犯がいたのではと考えられることとなった。
しかしそうはならなかった。

ザプルーダー・フィルムには幾つかの版があり、損傷によりフィルムの数コマが欠落したものもある。

暗殺を現場で目撃し記録した者は、ザプルーダーだけではなかった。

いずれも、ザプルーダーのフィルムに比べて遠くからではあるが、狙撃の瞬間をフィルムに撮影した者は他に3人いることが知られている。その他にも、暗殺時刻あたりで現場やその周辺をフィルム撮影した者は、ディーリー・プラザに多数いたことが知られているほか、暗殺時ケネディの車列が通行していたエルム通りの南側で、身元不明の青い服を着た女性がフィルム撮影を行っていたことが分かっている。

写真(静止画)撮影も多くの人々によって行われている。事件発生時、ディーリー・プラザには32人ものプロ、アマの写真家がいた。その中でプロの写真家は、アイク・アルトジェンというダラスのAP通信のジャーナリスト唯一人であった。アルトジェンが撮影した写真は、この暗殺事件を撮影した写真の中でも最も有名なものの一つである。

その他の目撃者
ディーリープラザでの目撃者で、直接ライフル銃を構えて撃っている姿を見た人として、ハワード・ブレナンがいる。
彼はちょうどヒューストン通りからエルム通りに入る角の壁の上に腰掛けていたが、1発目の音はオートバイのものだと思い、2発目の音は花火のような音に聞こえて上を見上げた時に、教科書倉庫ビルの6階窓から「ある種の高性能ライフル」を構え「左の窓の下枠に体をあずけ、銃を右肩にあてて、左手で銃を支えながら、最後の一弾を発射しました」とウォーレン委員会に証言している。

彼の場所から教科書倉庫ビル6階までは直線でわずか35mの距離であった。
彼はその直後に警察官に通報して、警官が教科書倉庫ビルに入ると同時に、ブレナンが見たライフルで撃った男の人相や風体が警察無線で市内のパトカーに伝わった。

またこの教科書倉庫ビルでオズワルドの仕事仲間が5階でパレードを見ていた時に、上の階からライフルのボルト(遊底)が引かれ、また押し込まれる音を聞き、また空薬莢が床に落ちる音も聞いている。
翌年ウォーレン委員会が直接現場で実験したところ上の階でのライフル銃の操作の音も薬莢が床にゴツンと落ちる音も驚くほど聞こえることが分かった。

大統領が撃たれた所から前方にある草の生えた丘の上(グラシー・ノール、grassy knoll)から発砲があったとする複数の証言がある。
ジーン・ヒル(Jean Hill)はグラシー・ノールから銃声がしたとウォーレン委員会において証言し、後に男が銃撃したと述べている。
また狙撃時にパレードの前方にあったトリプル・アンダーパスの陸橋にいたサム・ホランド(Sam Holland)はアーケードの背後(behind the arcade)の木立から煙が上がったと証言し、同じ場所にいたオースティン・ミラー(Austin Miller)も煙かスチームを見たと証言した。この他にダラス市警の制服警官ジョー・スミス(Joe Marshall Smith)はグラシー・ノールでシークレットサービス(当日は配置されていなかった)を名乗る私服の男を見たと証言した。
ウオーレン委員会では、この場所で結局物的証拠が全く見つからず、また当時この場所で数人の見物人が立っているので誰にも見つからずにライフル銃を発射できたとは想像できないとして重要視しなかった。

メアリー・モーマンが撮影した画像 メアリー・モーマンは、頭部に致命傷を受けた直後(約0.17秒後)の大統領と背後のグラシー・ノールをポラロイド写真機で撮影した。

その際、暗殺犯とその発砲の瞬間が撮影されたとする説がある。

研究家ゲーリー・マック(Gary Mack)は「モーマン写真」を拡大すると「バッジを付けた人物と煙かマズルフラッシュ(発射炎)のような像」が確認できることを発見した。

この説は1988年にEngland’s Central Independent Televisionが製作したTVドキュメンタリー「The Men Who Killed Kennedy」でも紹介されたが、この像は人間ではないとする説もある。

ゴードン・アーノルドの証言やロスコー・ホワイトと結びつける主張もある。

ティピット巡査の死とオズワルドの逮捕
ダラス市警察とFBIは現場で、付近のビルを直ちに出入口を閉鎖して不審尋問を始めた。
銃声がした方角からテキサス州立公立学校教科書倉庫ビルに第一の容疑がかかり、数人の警官がすぐにビル内に捜索に入った。
ダラス市警察のマーチン・ベーカー警察官はオートバイで伴走中に狙撃されるとすぐにオートバイを止めてビル内に入り2階の従業員食堂でコーラをラッパ飲みしていた男を見つけて、横にいたビルの支配人に聞くと「この男はうちの従業員でリー・ハーヴェイ・オズワルドです」と支配人は答えた。

警官はそのまま上の階に上がっていった。

警官たちは、まさかテキサス教科書倉庫ビルの従業員が犯人であるとは思わなかった。

当然外部から入り込んだ人間の犯行という考えがあった。
この時狙撃からほぼ3分が経過していた。そして6階の部屋(段ボール箱が山積みされた倉庫)からライフル銃1丁と弾丸の薬莢3個を発見して、また、窓の手前に段ボール箱を積んでその上にライフル銃を安定させた跡があった。

すぐに従業員の点検が行われて、1人だけ姿が消えていることが判明した。

つい先ほど食堂にいたリー・ハーヴェイ・オズワルドが何故か居なくなっていた。

オズワルドのその後の足どりは、12:33に警官が居たビルの出入口をすり抜けて、歩いて近くのバス停に行き、12:40にバスに乗ったが大統領暗殺事件の混乱でバスが進まず、12:44にすぐに降りて12:48にタクシーに乗り、下宿先の自宅に帰ったのが午後1:00頃で、下宿の管理人ロバーツ夫人はオズワルドが息を切らして帰ってきたことを見ている。

ここからすぐに着替えて再び出て、1:30頃にテキサス劇場という映画館に入っている。
この間の1:20にダラス市警に男性の声でパトカーの警官が撃たれて死んでいるというパトカーの無線通信を使った緊急連絡が入り、出動した警察官がダラス市警察のJ・D・ティピット巡査(en:J. D. Tippit)の死体を確認している。

ほどなく映画館の切符売りの女性から切符も買わずに館内に入った不審な男がいるとの緊急連絡が入り、警官隊が映画館を包囲して中に入り、照明を明るくして座席に座っている客を1人1人調べ始めると、突然殴りかかってきた男がいて格闘の末取り押さえた。

こうして1:40にオズワルドは逮捕された。

ケネディ狙撃の70分後に現場近くの劇場での逮捕であった。J・D・ティピット巡査はオズワルドの逃走でダラス市警から緊急に各警察官にオズワルドの手配が行われた時、オズワルドによく似た男を見かけて、パトカーを下りて訊問しょうとして撃たれ3発の銃弾を浴びて即死であった。
これを直接目撃したのが、ヘレン・マーカスという女性で、その日夜遅くにダラス警察本部でオズワルドと面通して確認している。この他に6人の目撃者がオズワルドを確認している。

リー・ハーヴェイ・オズワルドの訊問はこの22日深更までほとんど休みなしで続けられ、この日の午後6:30頃にダラス市警のJ・D・ティピット巡査を殺害した容疑で告発され、その夜遅く午後11:30頃に大統領暗殺容疑で告発された。

しかしオズワルドはケネディ大統領もティピット巡査もどちらも頑強に否定した。

ジョンソン副大統領の昇格とワシントンへの帰途
ケネディ暗殺事件直後、エアフォースワン内部で臨時の就任宣誓を行う副大統領リンドン・ジョンソン リンドン・B・ジョンソン副大統領はケネディが乗ったリムジンの2台後の車に乗っていたが難を逃れ、パークランド病院で大統領の死に接して、シークレットサービスの警護を受けながら急遽ラブ・フィールド空港のエアフォース・ワンに向かった。

機内に入ってすぐに大統領専用電話を使って、アイゼンハワーとトルーマンの両元大統領に事態の説明をして全面的協力を求めた。そしてワシントンにいる閣僚4名[81]と大統領補佐官らに職場を離れないことを伝えた。

ジャクリーン夫人らが遺体とともに戻ってきた後に、機内でアメリカ合衆国大統領の就任宣誓を行った。

ジョンソンとジャクリーン夫人らを乗せたエアフォース・ワンは、ジョンソンの大統領就任宣誓が終わった後にダラスを飛び立ち、史上初めて2人の大統領を乗せてワシントンD.C.郊外のアンドルーズ空軍基地に着陸した。ケネデイ大統領の遺体の入った棺は、空港の荷物搬送機で降ろされ、ジャクリーンと迎えに来てすぐに機内に入ったロバート・ケネディらもケネディの棺とともに同じ搬送機で降りて、ベセスダ海軍病院に搬送された。

ジョンソン新大統領は、その後、タラップを利用して降り、その場で新大統領としてのコメントを発表して「今は全ての人々にとって悲しみの時である。我々は計り知れない損失を受けた。私にとって、これは深い個人的な悲劇である。ケネディ夫人とそのご家族の悲しみを全世界が分かち合うものと思う。私は全力をつくす。神のご加護を」と述べた。

ダラスからアンドルーズ空軍基地にケネディの遺体が戻り、空港でコメントを発表したジョンソン新大統領の強いテキサス訛りのある英語と、ケネディの小気味のよいボストン英語の対比に、アメリカ国民は、大統領交代を実感したという。

ネット上にはこういう写真もある。
ネット上にはこういう写真もある。

暗殺事件の反応
ケネディ暗殺のニュースは全米に衝撃を与えた。まずラジオから、そしてテレビから。ニューヨークを始めとして多くの都市で男女が公然と泣き、多くの人々が最初はカーラジオでの速報に耳を傾け、テレビ報道を見るためにデパートに群れをなし、祈りを捧げる者達もいた。

ニュースを聞いた者は衝動に駆られたように家族や知人に電話をかけた。この日午後にはニューヨークで数十万台の電話がいっせいに使用中止となった。いくつかの地区での交通は、ケネディの死に関するニュースが車から車へと伝えられ、停止することとなった。アメリカ合衆国やカナダの学校では、学生を下校させた。

ニューヨークのコンサートホールではジョージ・セルがニューヨーク・フィルを指揮していたが途中で演奏中止となった。ブロードウェイでは全ての劇場が公演中止となり、夜の社交行事は中止となった。

NBC・CBS・ABCの三大ネットワーク[94]は国葬が終わる25日まで全ての定時番組とCMの放送を取りやめて特番だけになった。ワシントンポスト紙のジェームズ・レストン記者は翌日の朝刊記事で詩を掲載してその最初の一行が「今宵アメリカは泣く」であった。

また、「テキサス州およびテキサス人」に対する怒りの声も聞かれた。

暗殺直後、ソ連が「我々が手を下したのではない」と表明を行っていることからみても、その衝撃は大きなものであった。アメリカのみならず世界中がショックを受けた(小説『オデッサ・ファイル』の冒頭でも描写されている)。

日本でも、折しも当日実施されていた通信衛星による初の日米間の衛星中継(当時は宇宙中継と呼ばれた)テレビ伝送実験において即座に事件の詳細が伝えられ、視聴者に大きな衝撃を与えた。伝えたのは毎日放送北米支局の前田治郎記者。
第一声は「日米宇宙中継という輝かしい試みの電波に乗せて、悲しいニュースをお伝えしなければならない事を残念に思います。アメリカ合衆国第35代ジョン・F・ケネディ大統領は11月22日テキサス州ダラスで暗殺されました。」だった。

オズワルド殺害とジャック・ルビー

リー・ハーヴェイ・オズワルド
リー・ハーヴェイ・オズワルド

ケネディ大統領暗殺犯とされたリー・ハーヴェイ・オズワルドは、事件の2日後の11月24日午前11:21にダラス市警察本部から郡拘置所に移送される際に、警察本部の地下通路で、ダラス市内のナイトクラブ経営者でマフィアと(そして、ダラス市警察の幹部の多くとも)関係が深いジャック・ルビー(本名:ジャック・ルーベンシュタイン)によって射殺された。

なお、この現場はアメリカ中にテレビで生中継されており、数百万のアメリカ人が映像でこの瞬間をリアルタイムに見た。

ルビーがオズワルドを射殺した理由は「夫が暗殺され悲しんでいるジャクリーン夫人とその子供のため」、「悲しみに暮れるケネディの妻・ジャクリーンが法廷に立つ事を防ぐ為」という不可解な理由であったが、ウォーレン委員会どころかマスコミさえもが、その不可解さを取り上げることはなかった。

ジャック・ルビー(本名:ジャック・ルーベンシュタイン)。
ジャック・ルビー(本名:ジャック・ルーベンシュタイン)。

また、事件後にルビーがオズワルドと複数の人物を介して知人の関係であった上、なぜか暗殺事件発生直後からオズワルドの行動を常に追いかけていたことが複数の人物から証言があったし、この事件と何の関係もなく、かつ警察関係者でもマスコミ関係者でもないルビーがなぜやすやすと警察署内に入りこめたのか、についてウォーレン委員会は、ダラス市警察本部の事前警戒の不備を厳しく批判するだけで、その理由については最終的に満足な説明はしていない。

ただルビーの犯行が計画されたものでないことは明らかになっている。

もともと24日10時にオズワルドを移送する予定(前日に報道陣に説明はしていた)であったのが取り調べが長引き11時20分に延びたのだが、この日ルビーは10時に起き、すぐに自宅にダンサーからギャラの支払いを請求する電話が来て急ぎ郵便局で25ドルの送金をするために11時過ぎに車で郵便局に着き、11:17に送金を終えて外へ出るとすぐ近くの警察署でオズワルド移送の動きがあるのを見て、車に愛犬を置いたまま警察署の地下通路を通って入って行った。

郵便局を出てわずか4分後の犯行であった。

もしオズワルドの移送が予定通り10時であったら、或いはもう少し2~3分早く移送していたら11:21の犯行は無かったことになり、彼の衝動的な行動であったことは疑う余地はない。

なお、ルビーは死刑判決を受け再審を待っている間に精神的に不安定になり「何者かに癌細胞を注射された」「ワシントンの刑務所に移送してくれたら本当のことをすべて話す」など不可解な言動が見受けられたという。

4年後の1967年、肺癌による肺塞栓症により獄中で死亡した。

国葬
ワシントンD.C.で行われた葬儀 ベセスダ海軍病院での検死後にケネディの遺体はマホガニー製の棺に移されて、11月23日午前4時24分にホワイトハウスに無言の帰宅をしてイーストルームに安置された。
23日午前10時にイーストルームでケネディ家及び親しい友人のみの密葬が行われ、翌24日午後、犯人とされたオズワルドが撃たれたという情報が入った直後に国旗に覆われたケネディの棺は国会議事堂まで運ばれた。
議事堂の円形大広間(ロタンダ)に棺が安置され、国会議員らによる追悼式が行われて、マンスフィールド民主党上院院内総務の追悼の辞、ジョンソン大統領からの献花、そしてジャクリーン夫人と娘キャロラインが棺の前に膝まずき、棺を覆う国旗にキスをした。

式が終わってからは一般の弔問となり、昼夜に渡っておよそ250,000人の人が弔問に訪れた。
ケネディの弔問をするため10時間もの間、凍り付くほどの気温の中で行列に並び、その行列は40ブロック先にまで及んだ。

この弔問は翌25日の葬儀の直前午前9時まで続いた

ケネディの追悼行事は直ちに世界中で行われ、各国の米国大使館には多くの人々が弔問に訪れた。合衆国政府はケネディの国葬の日、11月25日(月)を全国民が喪に服す日とすることを宣言した。

葬儀は、25日午前10時20分にホワイトハウスから国会議事堂に車で向かい、10時40分に円形大広間でジャクリーン、ロバート、エドワードの3人が棺に祈りを捧げてから始まった。

ホワイトハウスには世界各国から指導者が訪れていた。フランスからドゴール大統領とクーヴ・ド・ミュルヴィル外相、イギリスからエリザベス女王夫君のエジンバラ公とヒューム首相とウイルソン労働党党首、西独からエアハルト首相とブラント市長、日本から池田勇人首相と大平外相、韓国から朴正煕大統領、ソ連からミコヤン第一副首相など、92か国から首脳・政府高官等220人が国葬に参加していた。

これらの要人がホワイトハウスに参集している頃に、10時55分頃に葬送の列が議事堂からホワイトハウスに向かうペンシルベニア通りを行進して、11時30分すぎにホワイトハウスに到着すると、すぐにジャクリーン、ロバート、エドワードらが車から降りて、棺が砲車に載せられ葬送のドラムの音とともに進んでいく中で、その後についてホワイトハウスからセント・マシューズ教会まで歩いて行った。
外国の首脳もホワイトハウスからその後を追って歩いて行進した。

これはジャクリーン夫人の希望であった。

ホワイトハウスからの葬列は、スコットランドのバグパイプ隊がアイルランドの曲を奏でる中を、まず海軍が先導して、カトリック司祭が2名、その後ろから6頭の馬に引かれて大統領の棺を載せた砲車、大統領旗を持った旗手、誰も騎乗しない馬、その後をジャクリーンとロバートとエドワードの3人が先頭で歩き、その後を米国政府首脳(その中にはジョンソン新大統領も)、そして各国首脳が距離にしておよそ2キロの行程を歩き、セント・マシューズ教会にほぼ12時頃に到着した。

セント・マシューズ大聖堂での告別式ではクッシング枢機卿が司り、テノール歌手ルイジ・ベナが「アベマリア」を歌った。
告別式が終わり、セント・マシューズ教会の階段下で葬列が出発する際に、ケネディ大統領の長男であった当時3歳のジョン・フィッツジェラルド・ケネディ・ジュニアが目前で砲車に載せられて曵かれゆく父の棺に対し挙手の敬礼をした。

やがて13時15分に棺は埋葬のために葬送のドラムの音とともにアーリントン国立墓地に向かって出発した。参列者は今度は車に乗って墓地に向かった。

14時30分には墓地予定地に到着。

墓地では永遠の炎にジャクリーン、ロバート、エドワードが松明で点火し、棺を覆っていた国旗がジャクリーンに手渡されて葬儀は15時に静かに終わった。

ケネディー家系図一部
ケネディー家系図一部

ケネディの葬儀は日本ではNHKで26日午前7時-8時 (JST) に衛星中継でダイジェスト版が放送され、ビデオリサーチ・関東地区調べで38.5%の視聴率を記録した。

政府による公式調査
ケネディ大統領暗殺の翌日11月23日にFBIのフーバー長官からジョンソン新大統領に事件の報告が行われ、オズワルドの単独犯行の可能性が強いことが伝えられたが、11月25日にジョンソンはフーバー長官に改めて大統領暗殺事件の全容についての公式報告を求めた。
これはこの時点でFBIからの詳細な公式報告を受けてそのまま国民に公表することで事件の調査を終了するつもりであった。

ところがテキサス州の司法長官がケネディとオズワルドの死をめぐる事実関係を糾明する査問会議を行うことを発表し、翌26日に合衆国上院が調査特別委員会を設置することを発表し、そして翌27日には合衆国下院が独自に特別委員会の設置を発表した。

大統領の衝撃的な暗殺、犯人とされた被疑者を警察署内で殺されるという異常な展開、そして動機も背後関係も一切謎のままとされて、事件があったテキサス州は連邦に対する強い州権意識から、そして議会は三権分立の立場から独自に調査に入る構えを示した。
これに対してジョンソンは11月29日に暗殺事件の調査を大統領直属の委員会を設置して早急に行い、国民の間に広がる疑惑や不安を払拭することを決めた。これで上下両院の独自調査は結局延期されて、テキサス州の調査も大統領直属の委員会に資料を提出することとなった。
そしてこの調査委員会の委員長に起用されたのが当時の連邦最高裁判所長官アール・ウォーレンであった。

この委員会はウォーレン委員会と呼ばれ、1963年12月5日にスタートして、翌1964年9月24日に調査報告をジョンソン大統領に提出した。

この調査報告をウォーレン報告と言われている。

委員会の構成メンバーは最高裁判所長官(ウォーレン)、上下両院の与野党議員(リチャード・ラッセル、ジョン・クーパー、ヘイル・ボッグズ、ジェラルド・フォード)、前CIA長官(アレン・ダレス)、民間人(ジョン・マックロイ)の7名であった。

FBI は捜査を行った最初の機関だった。

暗殺のわずか17日後、1963年12月9日にFBIの報告書はウォーレン委員会に提出された。

FBIは三発だけが暗殺時に発射されたと報告して、一発目はケネディ大統領に命中し、二発目がコナリー知事に命中、三発目が大統領の頭部に命中し彼に致命傷を与えた。

そして三発ともリー・ハーヴェイ・オズワルドが発射したと報告した。

FBIは総計で25,000回の面接、約2,300項目と25,400頁にわたる報告書を委員会に提出した。
シークレットサービスについては1,550回の面接、約800項目と4,600頁にわたる報告書を委員会に提出している。

委員会はこの後に独自調査として延べ552人の証人喚問を行い(委員が出席して行う証人尋問は94名)、この中には、ジャクリーン夫人、コナリー知事夫妻、オズワルドの母マルガリート、そして妻マリーナも喚問している。やがて1964年9月に全文約296,000語、全888ページに全26巻の膨大な関連資料が付いた報告書がまとめられた。

ウォーレン報告とは
9か月の調査後、1964年9月27日にウォーレン委員会報告書が公表された。

委員会はリー・ハーヴェイ・オズワルドの単独犯行と結論付け、いかなる個人、団体、国家の共謀を示す証拠は発見できなかったとした。

委員会の結論の骨子は ケネディ大統領暗殺犯はオズワルドただ一人である。

オズワルドはまた、ダラス市警のチピット巡査をも殺害した。

そのオズワルドはジャック・ルビーに単独で殺害された。

この暗殺事件に絡む陰謀は内外を問わず一切なかった。

大統領を撃った全ての銃弾はテキサス教科書倉庫ビル6階の窓から発射された。

大統領に向かって発射された銃弾は合計3発である。

1発は大統領の背中から胸へ抜け、前方に座っていたコナリー知事の胸、手首、左の太ももを傷つけた。

もう1発は大統領の頭部に命中してこれが致命傷となった。

あとの1発は命中しなかった。

オズワルドの単独犯行?
オズワルドの単独犯行説はローン・ガンマン・セオリーと呼ばれる。

二つの公式調査が、ディーリー・プラザのテキサス教科書倉庫従業員リー・ハーヴェイ・オズワルドが暗殺者だったと結論を下した。
一つの調査(ウォーレン委員会)はオズワルドが単独で行動したと結論を下し、1976年に別の調査(下院暗殺調査委員会)が開始されて2年後に発表された調査結果ではオズワルドには少なくとも一人の協力者がいたと結論を下した。

三発の銃弾
委員会は暗殺時に三つの弾丸が発射され、二発の弾丸がケネディ大統領とコナリー知事を命中した。
その弾丸は全てリー・ハーヴェイ・オズワルドがパレード車列の後方にあったテキサス教科書倉庫から発射した物として結論を下した。

委員会の判断はケネディ大統領の上背部に命中した弾丸は、首の正面近くを貫通し、コナリー知事を負傷させたと思われる。
一発は車列から外れたと考えられる(三発の内の何射目かは特定できない)。
そして最後の弾丸は大統領の頭部に命中し致命傷となった。
委員会は教科書倉庫の6階で3つの薬莢が発見されたことに注目していた。
ライフル銃は近くに隠されていたことが判明した。ケネディとコナリーは別々の弾丸で傷つけられたのではなく、両者とも同じ弾丸で傷ついたとするのが適当だと提示した。
弾丸はほとんど形状を保ったまま担架(stretcher)から発見されたとされる。

この説はシングル・バレット・セオリーとして知られるようになった。

銃弾の入口とされるコナリー知事の背部(右半身)の傷は、出口とされる胸部(右半身)の傷より小さかった。銃弾の入口とされる右手首(甲側)の傷は出口(掌側)よりも大きかった。

この問題について、胸部を貫通した銃弾が回転し、前後逆に手首に侵入したとする「回転説(Tumbling Theory)」がある。

その後の調査
1976年に、下院で60年代のケネディ兄弟とキング牧師らの相次いだ暗殺事件について真相解明のための特別委員会下院暗殺調査委員会が設置されて2年間(1976年ー78年)の調査が行われた。

このケネディ暗殺から13年後の調査によると、暗殺前後の数分間、ダラス警察の白バイ警官のマクレーン(H・B・McLain)の無線は「送信」状態にされ、警察無線の通信指令席でレコーダー(プラスチックベルト)に記録されたとされる。

下院暗殺調査委員会は、この口述録音機用録音テープの証拠の研究から、銃声は4発であるとして、狙撃者はオズワルド以外にもう一人いた可能性が高いと結論した。

このテープはアメリカ国立公文書記録管理局に保管されているが、証拠能力には議論がある。
下院暗殺調査委員会は音声記録の証拠認定を後に取り消している。

ウォーレン報告の評価
この報告書が出てから9年後の1973年1月にジョンソン前大統領が世を去ったが、亡くなる前に「自分はオズワルドが引き金を引いたことまでは承服できる。だが委員会が暗殺事件を徹底的に掘り下げたかどうかは確信がない。私のカンだが、オズワルドは失敗に終わったキューバ侵攻作戦への復讐を狙うキューバ人と関連があったのではないか」と語っている。

また、1975年4月25日の夕方のCBSイブニングニュースでウォルター・クロンカイトは、ジョンソンがケネディ暗殺がオズワルドの単独犯行だとは一度も考えたことがないとそれよりも6年前の1969年にインタビューで述べていたことを明らかにした。

また、最初にCIAを疑ったロバート・ケネディだが、50年後の2013年1月に息子のロバート・ケネディ・ジュニアがテレビでのインタビューで、父親がウオーレン委員会の答申を全く受け入れていなかったことを明らかにした。

陰謀論
オズワルドによる単独の犯行であったとする政府の公式説明に納得せず、何らかの陰謀があったと主張するものも多い。

2003年の世論調査では、70%の人々がケネディ暗殺は単独犯ではなく複数犯による犯行であったと考えている。実行犯についてもオズワルド以外に狙撃したものがいたとする説もある。

証拠物件の公開が政府によって不自然にも制限されたり、大規模な証拠隠滅が行われたと主張するものもいる。リー・ハーヴェイ・オズワルドがダラス市警察本部でジャック・ルビーに射殺され、さらにジャック・ルビーが服役中に病死したのは口封じのためであるとする意見もある。

陸井三郎は目撃証言者12人が変死または怪死していると主張している。

今日までに下記のような仮説、陰謀説が提示されている。

マフィア壊滅作戦に反発したサム・ジアンカーナを中心としたマフィア主犯説

「マフィア主犯説」は、かつてジアンカーナらがケネディ本人や父のジョセフ・ケネディ・シニアによる依頼を受けて、大統領選挙におけるケネディ陣営の資金集めや不正を手伝ったにもかかわらず、その後ケネディがフーヴァーやロバートの忠告を受けてジアンカーナや共通の友人であるフランク・シナトラらとの関係を突然断った上に、ケネディ政権がロバートを中心にしてマフィアに対する壊滅作戦を進めたことを「裏切り」と受け取ったジアンカーナらを中心としたマフィアが、「裏切り」への報復と壊滅作戦の停止を目論んで行ったとするものである。

なお実際に、ケネディによる一方的な関係断絶に対しシナトラは激怒し、ジアンカーナや、ルビーやオズワルドとの面識もあったテキサス州を縄張りとするマフィアのカルロス・マルセロらは、マフィア壊滅作戦を進めるケネディの暗殺をほのめかすような発言を繰り返していたことが、FBIの盗聴により明らかになっている。

軍産複合体の意を受けた政府主犯説

「軍産複合体の意を受けた政府主犯説」は、「ケネディの南ベトナムからのアメリカ軍による軍事顧問団の縮小計画と、その後に予想された軍事顧問団の完全撤収が『軍産複合体の利益を損ねる』と恐れた政府の中の一部勢力が、大統領の警備を弱体化して犯行に及んだ」とするものである。

ケネディはその大統領就任中に、ベトナム戦争からの早期撤退を計画した(ドキュメンタリー映画「フォッグ・オブ・ウォー マクナマラ元米国防長官の告白」、当時のマクナマラ国防長官の証言を参照)。ケネディはテレビインタビューに答えて言った、「(南ベトナム)政府がたいへんな努力をして支持されない限り、ベトナムで勝とうとは思わない。

最終判断として、ベトナム戦争はベトナム人の戦争であり、勝つのも負けるのも彼らである。」 。

しかし、撤退計画はケネディ暗殺によって頓挫し、後任のジョンソン大統領によってベトナム戦争への介入は逆に押し進められて、ベトナム戦争は泥沼化した。

ケネディの急進的なベトナム戦争撤退の方針が産軍複合体の利害と対立して、ケネディ暗殺につながったという一説がある。映画「JFK」はこの可能性を追及して話題となった。

その他

上記の2つの説以外にも、 ニキータ・フルシチョフの命を受けた KGB 主犯説暗殺されそうになったことに激怒したフィデル・カストロ主犯説
ピッグス湾事件の失敗を恨む亡命キューバ人主犯説
解任されたことを根に持った元 CIA 長官アレン・ダレス主犯説
FBI 長官ジョン・エドガー・フーヴァー主犯説
大統領の座を狙った副大統領ジョンソン主犯説
大統領選挙で敗れたニクソン主犯説
などがある。

なお、1963年当時7月1日より1964年の財政年度が始まっていたが、重要な13の予算法案のうち9つが議会を通過せず、議会の議事妨害(フィリバスター)によってケネディ政権は行き詰まっていた。
それゆえ、1964年の再選は絶望的とする見方も存在した。

クレイ・ショー裁判
ケネディ暗殺事件が法廷上で検討された唯一の例がクレイ・ショー裁判であった。

ニューオリンズのジム・ギャリソン検事は、1967年3月2日、ニューオリンズの実業家クレイ・ショー(Clay Shaw)を大統領暗殺に関わる陰謀罪で逮捕した。
ギャリソンはクレイ・ショーがCIA経由でケネディ暗殺事件に関わっており、事件はCIA、軍部、国家の関与するクーデターであると主張した。
裁判はギャリソンが敗北するが、後に、CIAがウォーレン委員会の批判者たちへ圧力をかけたこと、クレイ・ショーが実際にCIAのために働いていたことが公的に示された。
1991年に公開された映画「JFK」はクレイ・ショー裁判をモデルにした作品である。

陰謀論者が問題視する政府の公式説明
ザプルーダー・フィルムでは、大統領の頭部が弾丸の衝撃により破壊された直後に大統領の上半身は後方に動いている。また、脳の一部が後方にも飛んでいる。

この映像について、その致命的な射撃は前方から行われたようにも見えることから、前方にも射撃手がいたとする議論がある。
海兵隊時代のオズワルドは、特級射手 (expert)、一級射手 (sharpshooter) 、二級射手 (marksman)の資格について、1956年12月に一級射手の資格に必要な得点をクリアしており、射撃の技量が高かったとされているが、1959年5月には二級射手の資格に必要な得点はクリアしているものの一級射手の資格に必要な得点はクリアしていない。

教科書ビルの窓の外には常緑樹が茂っており、木の葉が邪魔して狙いにくい。さらに、政府側報告(ウォーレン委員会)によるオズワルドが使用したボルトアクション方式のカルカノ銃では 5-6 秒程度の間に三発発射し二発を命中させるのは非常に困難であり、事件後から現在に至るまで行われた検証実験で成功した例は皆無である。また、通常は一発目、二発目、三発目と順を追うごとに照準に狂いが生じるものだが、致命傷を与えた最も正確な射撃は3発目とされている(ザプルーダー・フィルムの分析から発射した時間は 5-6 秒より長いとする説もある)。

陰謀論者が問題視する「魔法の弾丸」
(大統領頸部への1銃弾を考慮すると、)大統領とその同乗者の他の被弾箇所(約5箇所)が政府見解である1発の銃弾で説明できるか(いわゆる「魔法の銃弾」の謎。アメリカのケーブルTV番組ディスカバリーチャンネルによる再現実験では、ザプルーダフィルム223コマ目における位置を再現しカルカノ銃を使用した銃創は、一直線の弾道とほぼ一致したとしている)。

オズワルドの両手からは硝煙反応が出たが、頬からは硝煙反応が出なかった(通常ライフルを使用すると手だけではなく顔や上半身全体に硝煙が付着する)。

凶器とされたライフルからは、当初の検査では指紋、掌紋は発見されなかった。

オズワルド殺害の翌日(11月25日)に掌紋が発見された。

暗殺直後オズワルドは逃げもせずビル内の食堂でコーラを飲んでくつろぐなどした。

狙撃地点とされる部屋から食堂へ向かう階段には女性が2人いたが、その女性はオズワルドは通っていないと証言した。

食堂のオズワルドを警官が1度やり過ごしている。

教科書ビルから撃たれたとした警官が包囲に10分もかかったのに対し、その後オズワルドを逮捕するまでの経緯は不自然なまでに鮮やかだった。

オズワルドがダラス市警察本部内で殺害されるという異常な事態が起きている。

証拠物件の公開が政府によって、2029年(下院暗殺調査委員会)もしくは2039年まで不自然にも制限されている。

資料はアメリカ公文書図書館に保管されているが公開されるのは2039年とされている。
しかし、現在でも資料の多くが紛失しているため、2039年に公開されても完全に真実が明らかになるかどうかは未知数である。

その他の指摘された問題点
事件当日、ダラス市長の指示で急にパレードのコースが変更された。
また、慣例からすれば歴代大統領は直線コースをパレードしていたが、ケネディはわざわざ車の速度を落とさなければならない迂回ルートを走らされ、そこで銃撃された。

なお、このときのダラス市長アール・カベルはピッグス湾事件で更迭された CIA 副長官チャールズ・カベルの弟であった(いわゆる「パレードルート変更の謎」説)。

この説について、パレード後の予定地であったトレードマート (Dallas Trade Mart、2100 North Stemmons Freeway Dallas, TX 75207) に向かうには、迂回ルートのエルム通り (ELM STREET) を通過してステモンスフリーウェー (North Stemmons Freeway) に入る必要があった。
直線コースのメイン通り(MAIN STREET)からは入れないとする反証がある。
ただし、トレードマートへは、フリーウェイを利用せずともリバーフロント・ブールバードからマーケットセンター・ブールバードを通って向かう事ができる)。

事件当日のダラスは快晴だったにもかかわらず、ザプルーダー・フィルムに黒いこうもり傘をさした人物が映っている。
この人物は通称アンブレラマン (The umbrella man) と呼ばれ、映画『JFK』にも登場する。
アンブレラマンを暗殺グループの一員とする説もある。
なお、自分がアンブレラ・マンであると主張する人物、ルイス・ウイット (Louis Witt) はケネディ暗殺下院特別調査委員会 (1978年) において証言をおこなっている。

本来なら大統領の近辺にいなければならないシークレットサービスが後ろへ退くように命令された(大統領狙撃時に車に飛び乗ったクリント・ヒルによると車両間隔は 5ft≒1.5m 。
大統領のリムジンには2人のシークレットサービスが同乗していた(ロイ・ケラーマン、ビル・グリアー)。
後続車と白バイ警官はリムジンを追い、クリント・ヒルら4人のシークレットサービスは後続車のサイドステップに立っていた)。

傷口が変造されていた。

検視の医者は弾丸の検視の専門医ではなかった。
このためか、ケネディが背中の古傷のせいで猫背気味であることが失念され、命中時の入射角の判定に誤りが生じたと言われる。
発見された銃弾は本物か。
銃弾(証拠物件399、コナリー知事の担架(stretcher)から発見された)は、垂直方向(銃弾の進行方向)には変形せず、水平方向には圧縮されたように変形していた。
弾頭部分は損傷していなかった。

ケネディの死が確認され、大統領専用機エアフォース・ワンの機内でリンドン・B・ジョンソン副大統領が大統領宣誓を行ったが、機内でジョンソンに対し、ウインクするアルバート・トマス下院議員の姿が写真に残されている。
トマスはジョンソンの旧知の友人であり、トマスに対してジョンソンは笑いかけているようにも見える。

暗殺事件発生当時、閣僚の大半は外遊しており、また、ケネディ死亡の公式発表から、ジョンソンの宣誓式までの数十分間、いわゆる「権力の空白」時間が流れている。

もっと正確に言えばケネディが撃たれて即死に近い状態であったことを考えると12:30から14:38まで権力の空白が生じたことになる。

オズワルドが狙ったのは実際には同乗していたコナリーでケネディは巻き添えになったという説もある。

2013年11月21日に放送された『BS世界のドキュメンタリー』では、専門家たちによりケネディ暗殺の状況を再現する実験が行われた。
この中では、ケネディの首を貫いた弾丸がコナリーの背中と右手を貫いてもほぼ変形しない状態に保たれること、オズワルドが単独でケネディとコナリーを銃撃することは可能だったことが実験によって立証されたとする。
ケネディに致命傷を負わせた弾丸は、背後からの銃撃によるものだったことも専門家の調査によって立証されたとしている。

未公表のドキュメント
暗殺の瞬間をザプルーダーよりも間近でフィルム撮影していたと思われる身元不明の女性がおり、研究家により、バブーシュカ・レディーと呼ばれている。

他のフィルムや写真には、メアリー・モーマンとジーン・ヒルの右後方で、彼女がフィルム撮影をしている姿がはっきりと映っている。
この女性の身許は特定されておらず、フィルムも確認されていない。
1970年、ビバリー・オリバー(Beverly Oliver)は自分がバブーシュカ・レディーであると主張している。

暗殺当日に撮影されたそれまで未公開だったカラーフィルムが、テキサス市のSixth Floor Museumによって新たに2007年2月20日に公開された。
フィルムは実際の暗殺の90秒ほど前に、ジョージ・ジェフリーズ (George Jefferies) によって現場から数ブロック離れた地点で撮影されたものである。

ロバート・ケネディ暗殺事件
ジョン・ケネディが暗殺された5年後の1968年、実弟であるロバート・ケネディも暗殺された。

ロバートはカリフォルニア州で行われた民主党大統領予備選に圧勝し、同6月5日に同州ロサンゼルスのアンバサダーホテルで予備選勝利宣言を行ったが、その直後にサーハン・サーハンによって銃撃を受け倒れ、右脳を損傷し意識不明の重体となった。この模様は当時テレビが実況中継している最中に起こり、床に倒れたロバートの傷ついた姿は4時間後には衛星中継で日本にも送られた。そして意識を回復することなく翌6月6日没した。

ケネディ家の家系図=2013年7月25日現在
ケネディ家の家系図=2013年7月25日現在

抜粋:http://ul.lc/56zn(wikipedia)より

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