ローマ皇帝ネロ
ネロ・クラウディウス・カエサル・アウグストゥス・ゲルマニクス
(Nero Claudius Caesar Augustus Germanicus)
生まれた時の名前は
ルキウス・ドミティウス・アヘノバルブス
Lucius Domitius Ahenobarbus
(37年12月15日~68年6月9日)
(以下「ネロ」の名称で記す)
ネロが皇帝につくまで
父グナエウスが40年に死去。
41年にカリグラが帝位に就く。
父グナエウスの遺産はカリグラに没収され、ネロは叔母のもとで育てられた。
その3年後カリグラ暗殺により、伯父のクラウディウスが擁立され第4代ローマ皇帝となると、彼によって小アグリッピナ(ネロの母親)はローマに戻る事を許された。
現皇帝クラウディウスには皇后メッサリナと後継者のブリタンニクスがいたが、48年にメッサリナが重婚及び反逆罪に問われると、その後妻として小アグリッピナがクラウディウスの皇妃の座に納まった。
母の計略により、ネロはクラウディウスの継子から養子となる。
この時点で名前がネロ・クラウディウス・カエサル・ドルーススとなった。
皇帝クラウディウスの側近パッラスや母の采配により、クラウディウスの娘オクタヴィアとの婚姻が成立。
正後継者ブリタンニクスは徐々に疎外され、ネロの存在が際立つようになる。
そして年少のブリタンニクスよりも後継者に相応しいとさえ見られるようになり、ブリタンニクスの先に王位につける確約を得た。
54年にクラウディウスが死ぬと、ネロが皇帝に即位した。
ネロの最初の妻オクタウィア
クラウディア・オクタウィア
Claudia Octavia
(40年 – 62年6月9日)
ローマ皇帝クラウディウスと3番目の妻メッサリナの娘で
ブリタンニクスの姉。
ネロの義理の妹であり最初の妻にあたる。
通常単にオクタウィアと呼ばれる。
略歴
当初はクラウディウスによって、小ユリアの孫にあたるルキウス・ユニウス・シラヌスと婚約していた。
しかしメッサリナの死後、クラウディウスが小アグリッピナとの関係を深めると、婚約者シラヌスとその妹との間に近親相姦の嫌疑がかけられ、婚約は破棄された。
(自らの子ネロを帝位に就けるべく、ネロとオクタウィアの結婚をアグリッピナが望んだためと言われている。)
49年にクラウディウスとアグリッピナが結婚すると、同じ年にオクタウィアもネロと婚約した。
その後、50年2月25日にネロはクラウディウスと養子縁組を行い、皇帝の後妻の連れ子から皇帝の養子へとその立場を変える。
(ここからおかしい事に・・・)
53年にオクタウィアは12歳でネロと正式に結婚し、同日、元婚約者シラヌスは自殺する。
54年に父クラウディウスが死ぬと、夫ネロが皇帝となる。
(暴君ネロの誕生)
翌55年には弟ブリタンニクスが、ネロにより晩餐の最中に暗殺されている。
ネロは女奴隷であるアクテを実質上側室とするなど、性的に放縦な傾向を示していたが、オクタウィアは貞淑な妻として夫に尽くしていたといわれる。
その後、ネロが友人オトの妻であったポッパエア・サビナに心を惹かれるようになると、58年にオトはルシタニア総督を命じられ、ローマから引き離された。
ネロはポッパエアとの結婚を望んだが、ネロの母アグリッピナは野心の強い女との結婚には反対し、高貴な血を引くオクタウィアとの離婚を許さなかった。
しかし59年、母アグリッピナがネロによって殺害される。
さらに、離婚に反対していた親衛隊長官ブッルスが62年に死去、セネカが同じ年に失脚すると、オクタウィアは不妊を理由に離婚された。
さらにネロはアニケティアという者とオクタウィアが不倫関係にあったとでっち上げた上で、オクタウィアを姦通罪によってティレニア海の孤島パンダテリア島(現在のヴェントテーネ島)に幽閉した。
6月9日、オクタウィアは縄で縛り上げられ、手足の血管を切り開かれて自殺(実質の処刑)させられた。
また、ポッパエアへ見せるためにオクタウィアの首は切断され、ローマへ運ばれた。
オクタウィアはローマ市民から愛されたが、夫からはあまり愛されなかったといわれている。
なお、オクタウィアの死から6年後の同日にネロも自殺した。
ネロの死について(因果応報)
68年3月、ガリア・ルグドゥネンシスの属州総督ガイウス・ユリウス・ウィンデクスによる反乱が勃発。
属州総督のガルバ、オトがこれに同調した。
ウィンディクスの反乱は高地ゲルマニア軍により4月には鎮圧される。
ガルバは元老院から「国家の敵」決議を受け逃亡。
しかしその後、穀物の価格が高騰しているローマで、エジプトからの穀物輸送船が食料ではなく宮廷格闘士用の闘技場の砂を運搬してきたという事件が報じられ、ネロは市民の反感を買った。
元首の支持率低下を機にネロと対立していた元老院は、ネロを「国家の敵」としガルバを皇帝に擁立する。
(国家の敵=最強の法だな。。。)
ネロは逃亡しローマ郊外の解放奴隷パオラの別荘に隠れたが、騎馬兵が近づく音が聞こえるに及び、自らの喉を剣で貫き自殺した。
その際自分では死にきれず奴隷に切らせたという。
この日は奇しくも、オクタウィアが処刑された日であった。
(だから、オクタウィア魔女説が…w)
ネロの自殺後、その墓にはローマ市民から花や供物が絶えなかったという。
Σ(‘◇’*)エェッ意外!?
ネロの死後皇帝となったガルバはネロ派の軍や都市と敵対し粛清した。
しかしガルバから離反し皇帝になったオトはネロ派の復職を認めた。
(ガルパとオトって、反乱軍の…。でも、オトは国家の敵になってないし、かなりの切れ者だったのかも?)
ネロの銅像やドムス・アウレアの建設再開を許可し、ネロを裏切った護衛隊長ティゲリヌスを処刑し、民衆の人気を買った。
オトの次の皇帝ウィテリウスはネロの慰霊祭を催して民衆を喜ばせた。
(結果、いつの時代も民衆が一番強いって事!でいい?)
豆知識
真偽ははっきりしないが、死ぬ直前に言ったとされる
「何と惜しい芸術家が、私の死によって失われることか」
という言葉は有名。
更にネロが自刃した直後に現れた追っ手の百人隊長が、すでに死んだ(と思われた)ネロに危害を加えるのは流石に人の道に反するので、遺体を丁重に扱うためにマントを掛けようとした。
すると突如ネロが目を見開き
「遅かったな。しかし、大儀である」
と言い残し、目を見開いたまま絶命した。
百人隊長はその死に様に恐怖したという。
ネロの最期に関してはスエトニウスの伝記『皇帝伝』に詳しいが、あまりにドラマチックな内容の為、作家スエトニウスの創作という説が強い。
獣の数字666=ネロ説
この数字の意味については、古来より様々に解釈されてきた。
『新約聖書』の『ヨハネの黙示録』に獣の数字「666」について記述がある。
この数字は「皇帝ネロ」を指すとされるもので、自由主義神学の高等批評による聖書学で最も支持されている説である 。
つまり、皇帝ネロ (Nero Caesar) のギリシア語表記 (Νέρων Καίσαρ, Nerōn Kaisar) をヘブライ文字に置き換え (נרון קסר, Nrwn Ksr)、これをゲマトリア(カバラ的な数値化)したその和が666になるというものである。
この一説は直前の皇帝崇拝らしき記述とも意味的に整合するとしている。
詳しく知りたい方は→獣の数字(wikipedia)
抜粋
http://tiny.cc/hni6yx(wikipedia)
http://tiny.cc/uri6yx(wikipedia)
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