【今日の歴史】1643年1月4日の事【イケメンなオカルト学者】

【今日の歴史】1643年1月4日の事【イケメンなオカルト学者】
ニュートン力学を確立した、アイザック・ニュートン
ニュートン力学を確立した、アイザック・ニュートン

アイザック・ニュートン生誕日

アイザック・ニュートン(Isaac Newton, ユリウス暦: 1642年12月25日 – 1727年3月20日、現在の1643年1月4日 – 1727年3月31日)は、イングランドの哲学者、自然哲学者、数学者。神学者。

ニュートン力学を確立し、古典力学や近代物理学の祖となった。
古典力学は自然科学・工学・技術の分野の基礎となるものであり、近代科学文明の成立に影響を与えた。

生涯
アイザック・ニュートンは旧暦の1642年のクリスマスにイングランドの東海岸に位置するリンカーンシャー州の小都市グランサムから南方に10kmほど離れた一寒村ウールスソープ=バイ=カールスターワース において、同名のアイザック・ニュートンを父として、ハナ・アスキューを母として生まれたが、生まれた時父親はすでに他界していた。
未熟児として生まれたといい、産婆は「この子は長生きすまい」と言ったという。

なお、アイザックという名は、旧約聖書 の創世記に登場する太祖の一人イサクに由来する。

実母はアイザックが3歳の時に近隣の牧師のバーナバス・スミスと再婚してアイザックの元を離れ、アイザックは祖母に養育されることになった。

アイザックはものごころのつかない年齢で両親の愛を知らない子となった。

母親が再婚した理由のひとつは息子の養育費を得ることもあった。
母親はスミスとの間に3人の子を産むことになる。

息子アイザックは母のこの選択に反発、「放火して家ごと焼き殺す」などと殺害する旨を明かして恫喝。(この一時の激情に駆られた発言を悔いて、後年は実母と付かず離れずの関係を保ち面倒を見た。)

母親は息子アイザックの才能に気付いていなかったが、親類がそれに気がついてくれたこともあり、1655年に彼はグランサムのグラマースクールに入学することになった。

学校は自宅から7マイルも離れていたので、母の知り会いの薬剤師のクラーク家に下宿した。ニュートンはこの家庭で、薬学関係の蔵書に出会い、それに興味を持つようになった。

また、クラーク家の養女ストーリーとは親友となった(ニュートンはこのストーリーと18歳で婚約することになり、後に至るまで親密な交際と金銭的な援助を続けることになる。だが、ニュートンは法的には結婚はせず、終生独身のままであった)。

グラマースクール時代も、ニュートンは自省的な生活を送り、薬草の収集、水車、日時計、水時計の製作などを行っていた。
また、体が小さく内向的で目立たぬ子だったため、友人たちのからかいの的であったが、あるとき自分をいじめた少年と喧嘩をして勝ったことをきっかけに、自分に対する自信をもつようになったとされる。

学校に通うようになって2年がたち14歳になった時に、母の再婚相手が死去し、母は再婚相手との間にできた3人の子供とともにウールスソープの家へと戻ってきた。
母は、(亡くなった元の夫が遺した)農園を営むことを考え、父親のようにアイザックが農業(百姓)を行うことを期待し、その仕事を手伝ってもらおうとグランサム・スクールを退学させた。

母親は勉学よりは農業のほうが大切と考えていたらしい。

ところがニュートンは農作業をほったらかしたまま、(前の下宿先の)クラーク家に行っては化学書を読んだり水車づくりに熱中した。

そのため、母は彼が百姓向きではないと思い、将来のことを親類や友人等に相談し、ケンブリッジのトリニティカレッジで学ばせるほうがよいという助言を聞き入れた
そして、ニュートンは2年後には学校へと復学することになり、そこでトリニティカレッジの受験の準備として聖書、算術、ラテン語、古代史、初等幾何などを学んだ。

トリニティ・カレッジ
トリニティ・カレッジ

1661年に叔父であるウィリアム・アスキューが学んでいたケンブリッジ大学トリニティ・カレッジに入学した。

入学当初は「sub-sizar サブサイザー」として仮に、1か月後に「sizar サイザー」として正式に受け入れられた。
これは講師の小間使いとして食事を運んだり使い走りをするかわりに授業料や食費を免除される、という身分であった。
大多数の学生は「commoner コモナー」という自費で学費を払う者たちだったので、自分がサイザーという身分であったことや、自分の家柄のこともあり、同級生と打ち解けなかったという。

当時、大学での講義のカリキュラム編成は、スコラ哲学に基づいて行われており、つまり主としてアリストテレスの学説に基づいていたが、ニュートンは当時としては比較的新しい数学書・自然哲学書のほうを好み、デカルトガリレオコペルニクスケプラーといった自然哲学者の著書を好んで学んだ。

例えば、数学分野では、エウクレイデスの『原論』、デカルトの『幾何学』ラテン語版第二版、ウィリアム・オートレッドのClavis Mathematicae(『数学の鍵』)、ジョン・ウォリスの『無限算術』などであり、自然哲学分野ではケプラーのDioptrice(『屈折光学』)、ウォルター・チャールトン (Walter Charleton) の原子論哲学の入門書などを読んだのである。

ここでニュートンは良き師に巡り会うことになった。

アイザック・バローである。

ケンブリッジにおいて1663年に開設されたルーカス数学講座の初代教授に就任したバローはニュートンの才能を高く評価し、多大な庇護を与えた。
バローは時間、空間の絶対性を重要視するプラトン主義を奉じた数学者であり、ニュートンの思想にも大きな影響を与えた。

バローのおかげもあり1664年にニュートンは「スカラー」(奨学金が支給される学生)にしてもらうことができ、さらに翌年には学位を授与されることになる。

彼との出会いによってニュートンの才能は開花し、1665年万有引力、二項定理を発見、さらに微分および微分積分学へと発展することになった。

ニュートンの三大業績は全て25歳ころまでになされたものである。

また、ニュートンがこうした成果を得るのに有利に働くことになる、もうひとつの出来事があった。

一人でじっくりと思索をめぐらす時間を得たのである。

学位を取得した頃、ロンドンではペストが大流行しており(ペストは以前14世紀にヨーロッパの人口の1/3以上を死亡させたほどの恐ろしい病気だった。ニュートンが学生の時のそれは数度目の襲来であった)、この影響でケンブリッジ大学も閉鎖されることになり、1665年から1666年にかけて2度、ニュートンはカレッジで彼がしなければならなかった雑事から解放され、故郷のウールスソープへと戻り、カレッジですでに得ていた着想について自由に思考する時間を得た。

また1664年、つまりペストで疎開する前に奨学生の試験に合格して奨学金を得ていたことも、故郷で落ち着いてじっくりと思索するのに役立った。

こうしてニュートンは「Method of Fluxions( 流率法)」と彼が呼ぶもの(=将来「微分積分学」と呼ばれることになる分野)や、プリズムでの分光の実験(光学)、万有引力の着想などに没頭することができたのである。
結局、このわずか1年半ほどの期間にニュートンの主要な業績の発見および証明がなされているので、この期間のことは「驚異の諸年」とも、「創造的休暇」とも呼ばれている。

万有引力の法則に関して、古い伝記などでは「リンゴの木からリンゴが落ちるのを見て万有引力を思いついた」とするものが多かったが、基本的にウールスソープ滞在当時の文書記録や物証があるわけではなく、はるか後に(ロバート・フックと、万有引力に関して先取権争いのいざこざも生じた後に)そうだった、とニュートンが知人や親類などに語った話などがもとになって流布した話にすぎない。

つまり利害関係者当人が語る話やその伝聞の類にすぎず、内容に関しては真偽が不明である。

ニュートンが万有引力の法則を思いついたきっかけが一体何だったか、という点については、現代ではニュートン自身の主張や伝説は脇に置いておいて様々な検証・推察がなされていて、いくつかの説がある。

ひとつは友人のロバート・フックがきっかけになっている、とする説であり、他には、それ以前にも、この時代のイギリスの自然哲学者たちが影響を受けたケプラーの説(ケプラーの法則)を受けている、とする分析もある。

物が落ちる現象、つまり物体が地球に引きつけられる現象であれば、以前から誰もが知っていて、それに関する説は古代ギリシアのアリストテレスも自説を唱えていた。
この時代のイギリスでは(ニュートンに限らず)同時代の自然哲学者たち幾人もが、先人のケプラーやガリレオの説にヒントを得て、それを一般化・改良しようと試行錯誤を始めていたらしい。

1665年にカレッジを卒業し、バチェラー(Bachelor of Arts; 学士)の学位を得た。

1667年にペストがおさまると、ケンブリッジ大学に戻り、その年の10月、同大学でフェロー職を務めていた2名が階段から落ちたうえに他の1名が発狂し、欠員が計3つ生じたため、ニュートンはフェローになることができ、研究費を支給されるようになった。

その年に『無限級数の解析 (De Analysi per Aequationes Numeri Terminorum Infinitas)』を書いた(刊行1671年)。また論文『流率の級数について(De methodis serierum et fluxionum)』を発表した。

この数学的研究について解説すると、ニュートンとライプニッツはそれぞれ独立に、異なった視点から微分積分法を発見した。

後々、優先権をめぐって熾烈な争いが展開されることになる。

ニュートンの発表はライプニッツより遅いのだが、ライプニッツより早く発見していた、と主張した。
ニュートンは病的に猜疑心が強い性格で、ライプニッツが盗んだとの主張を続けて、結局25年の長きにわたり法廷闘争を行うことになる。

1669年にケンブリッジ大学のルーカス教授職に就いた。
これは師バローがニュートンの才能を認めて自分のポストを弟子に譲ろうと打診したものであり、ニュートンは一度断ったが、結局その申し出を受け入れることにした。
ルーカス教授としての役割は、幾何学、算術、天文学、光学、地理学のいずれかの講義を毎学期わずか10回ほど持つことと、週に2回学生との会合に出るだけでよいというものであった。

ニュートンは自分が開拓した光学について講義したが、内容が斬新すぎ理解しがたかったらしく、学生がひとりも講義に現れず出席者が無いということもしばしばだった。

ルーカス教授時代に、彼の二大著書となる『光学 (Opticks)』の執筆(刊行は1704年)および『自然哲学の数学的諸原理』の執筆・刊行(1687年刊)、および聖書研究や錬金術の実験などに没頭し、また哲学者でもあったので、自然学に対する情熱と同じくらいの情熱、あるいはそれ以上の情熱を神学に注いだ。

ニュートンの死後残された蔵書1624冊のうち、数学・自然学・天文学関連の本は259冊で16%であるのに対して、神学・哲学関連は518冊で32%である。

ニュートンが哲学者として、聖書研究や錬金術研究も重視し、熱心に研究を行い努力していたという事実については、後の時代に登場することになる科学者たちが、自分たちの気に入る英雄像を作るために、事実をゆがめて書いたり、自分たちに都合の悪い事実を無視するかたちで科学史を書くということが繰り返されたので、やがて忘れられてしまうことになった。

20世紀になり、ケインズなどが歴史的資料の収集・再検証が行い、ようやくそうした科学史の嘘、科学者らによる嘘が明らかになったものである。

自然哲学の数学的諸原理』を刊行(1687年)してまもなくのこと、王位に就いたジェームズ2世がケンブリッジ大学に対して干渉してくるという出来事があったが、その際行われた1686年の法廷審理に大学側の全権代表グループの一員として参加し、毅然と干渉をはねのける発言をした。

それから2年後の1688年には、大学から選出された庶民院議員(下院議員)になることになった。
だが、議員としてはほとんど発言をしなかったとされ、議会での唯一の発言は「議長、窓を閉めて下さい」だったという。

やがて教え子のモンタギューが世渡りのうまさを発揮して財務大臣になり、1696年4月にはニュートンに王立造幣局監事のポストを紹介してくれ、1699年には王立造幣局長官に昇格することになった。

モンタギューとしては働きづめであった師に少しばかり研究から離れて時間的、体力的に余裕のある地位と職に就かせたつもりだったが、アイザックは就任早々通貨偽造人の逮捕を皮切りに片っ端から汚職を洗い出し、処罰する方針を打ち出した。

元大学教授にしては鮮やかな手並みで、部下の捜査員に変装用の服を与えるなどし、偽金製造シンジケートの親分シャローナーを捕らえて裁判にかけ、大逆罪を適用して死刑にした。

在職中は偽金造りが激減した。

一方、銀貨の金貨に対する相対的価値の設定において市場の銀の金に対する相対価値を見誤り、普通の銀よりも低く設定したため銀貨が溶かされ金貨と交換されるという現象を引き起こしており、これは図らずもイギリスが事実上の金本位制に移行する原因となった。

ニュートンは造幣局勤務時代には給料と特別手当で2000ポンドを超える年収を得て、かなり裕福になった。
そして、個人で1720年までに南海会社株に1万ポンドの投資も行った。
つまりイギリス史上もっとも悪名高い投機ブーム(South Sea Bubble 南海泡沫事件)にニュートンも乗ろうとし、ブームの期間中株を持ち続けた末に結局ニュートンは大損をしたとされる。

研究としては、造幣局に勤めてからは錬金術に没頭した。

(現代の科学者が“科学的”と呼ぶ類の研究は行っていない。そうした類の業績が発表されたのは1696年の入局までの53年間である。)

晩年、『二つの聖句の著しい変造に関する歴史的記述』を著すことになるものの、イギリス国教会の教義とは異なるため、弾圧を恐れ、生前には発表しなかった(1754年刊)。ニュートンの考えの概略は「三位一体の教義はアタナシウスが聖書にもちこんだのだから誤りだ」というものである。

1705年に、アン女王からナイトの称号を授けられた。

授与の会場はトリニティ・カレッジで、自然哲学の業績に対するものであった。
自然哲学(自然科学)の業績でナイトの称号が贈られたのは、ニュートンが最初である。

アイザック・ニュートンの墓
アイザック・ニュートンの墓

授与から20年ほど後の1727年に死去し、ウェストミンスター寺院に葬られた。

遺言状は残しておらず、遺品は甥や姪に分配され、所有していた農園はそれの法定相続人の農夫に受け継がれ、ニュートンの自宅はウェストミンスター公立図書館になった。

万有引力の法則と、運動方程式について述べ、古典数学を完成させ、古典力学(ニュートン力学)を創始。
これによって天体の運動を解明した。
またゴットフリート・ライプニッツとは独立に微積分法(流率法)を発明した。
光学において光のスペクトル分析などの業績も残した。
ニュートン式反射望遠鏡の製作でも有名である。

1672年に王立協会のために作った6インチの反射望遠鏡のレプリカ
1672年に王立協会のために作った6インチの反射望遠鏡のレプリカ

ニュートンは、地球と天体の運動を初めて実験的に示し、太陽系の構造について言及した。
また、ケプラーの惑星運動法則を力学的に解明した一人であり、天体の軌道が楕円、双曲線、放物線に分かれることを示した。
また光の粒子説を唱え、白色光がプリズム混合色であるとして色とスペクトルの関係について唱えた。

虹の色数を7色だとしたのも彼である。

他にも、ニュートンの冷却の法則、二項定理の証明、運動量および角運動量の保存の法則の端緒をつけ、空気中での音速や恒星の起源などについて言及した(なお現在の視座では多くが不正確なものであり、正しく完成させたのは後世の学者たちである)。

アイザック・ニュートンのオカルト研究

科学者という用語や概念が登場してからは、「ニュートンは科学者」とも評されるようになり、自然科学者らによってニュートンの自然科学関連の業績ばかりが恣意的に抽出され、他の活動は無視・隠蔽する形でニュートン像が伝えられてきた(→ホイッグ史観)。だが実際には、ニュートンは現在ではオカルト研究に分類される分野の著作も多く著しており、年代学・錬金術・聖書解釈(特に黙示録)についても熱心に研究していたのである。

ニュートン自身は、現代人が言うところの”科学的”研究の成果よりも、むしろ古代の神秘的な英知の再発見のほうが重要だと考えていた
これをふまえると、世界を機械論的に考察することを「ニュートン的世界観」と表現することには語弊がある、と指摘する人もいる。

たとえば、1942年にニュートンの錬金術研究書を購入し、検討した経済学者のケインズは、「ニュートンは理性の時代の最初の人ではなく、最後の魔術師だ」と発言した。

ニュートンの世界観・謙虚さを表す言葉に、「私は時折、普通よりはすべすべした小石や奇麗な貝殻を見つけて子供のように夢中になってきたけれど、私の目の前には依然として真理の大海が発見されずに横たわっていた。」と晩年にいい残している。

アイザック・ニュートンのオカルト研究の大部分は、錬金術の研究であった。

ニュートンはあらゆる形の自然科学・物質科学に興味を抱いており、彼のよく知られる科学への貢献はここから生まれた。
ニュートンの時代においては化学は生まれたばかりの分野で、したがって実験研究は難解な言葉と曖昧な専門用語からなる、どちらかといえば錬金術やオカルティズムに近かった

ラヴォアジエの先駆的な研究のもと化学量論の実験が行われるようになり、分析化学が用語体系とともに現在知られている近代化学の形を取っていくのは、ニュートンの死後数十年後のことである。

ニュートンの錬金術に関する著書の多くは研究所の火災によって焼失しており、錬金術師としての業績は現在知られているものより大きいとも考えられる

錬金術への転向のため、ニュートンは錬金術を研究している間神経衰弱に罹っていたと考える者もいるが、実際は化学物質(水銀・鉛など)による中毒症状であったとする向きもある。

ニュートンの著書によれば、彼の錬金術師としての主要な目的はまず賢者の石(卑金属を金に変えると信じられていた物質)の発見であり、その次にエリクシルの発見であったと考えられる。

ニュートンの時代、錬金術の実験の一部は禁止されていた。

これは悪徳医師が非現実的な実験結果をもとに裕福なパトロンから金をだまし取るのを防ぐため、などの理由があった。

イギリス王家も、賢者の石が発見された場合に起こりうる金の価値の暴落を恐れており、錬金術への罰則は厳しかった。

不許可の錬金術研究への罰としては、装飾された絞首台での絞首刑などが執行された。

こうした事情のため、また科学者仲間への情報漏洩を恐れてニュートンは錬金術に関する著書をあえて出版しなかった。
またニュートンは、ロバート・フックの例もあるように批判に敏感であり、また1693年以前微分積分学の体系的な情報を出し渋ったことでも有名である。

ニュートンは生来の完全主義者で、未完成に見える資料を出版することを拒んだ。

その証拠に、ニュートンは1666年に微分積分を着想して以来、1704年に発表するまで本人の弁で38年もの間を開けており、忌まわしいニュートン・ライプニッツ論争の原因ともなった。

1936年、ニュートンの未発表の著作が9代目ポーツマス卿のジェラルド・ワロップ(ニュートンの大叔母から文書を受け継いだ)の代理としてサザビーズの競売にかけられた。

この文書は「ポーツマス文書(Portsmouth Papers)」として知られ、329冊のニュートンの草稿からなり、通常は錬金術に分類される内容が三分の一を占めていた。
ニュートンの死に際して、これらの資料は「公表されるべきではない」と考えられ、1936年のセンセーショナルな再登場まで死蔵されていたのである。

このオークションで、これらの文書の多くが経済学者のケインズによって落札された。
彼は生涯を通じてニュートンの錬金術書を収集していた。
ケインズのコレクションの多くは、後に奇書収集家のアブラハム・ヤフダの手に渡った。彼自身もニュートン草稿の熱心なコレクターであった。

ケインズヤフダが集めた文書の多くは、現在エルサレムのイスラエル国立図書館に所蔵されている。

イスラエル国立図書館
イスラエル国立図書館

近年、ニュートンの錬金術に関する断片的な著作を収集・整理・複写してオンラインで自由に閲覧できるようにするプロジェクトがいくつか開始された。

主要なものに、アメリカ国立科学協会の支援を受けたアイザック・ニュートン化学プロジェクト(The Chymistry of Isaac Newton Project)、イギリス芸術人文科学研究会議の支援を受けたニュートン・プロジェクト(The Newton Project)がある。

さらに、イスラエル国立図書館はニュートン文書の高精細スキャン画像を多数公開している。

賢者の石
1963年のオークションで売却された資料には、ニュートンが賢者の石の獲得・開発に興味を示していたことを示唆しているものがある。

これが最も目立っているのが「アルテフィウスの秘本(Artephius his secret Book)」と題した文書で、サブタイトルは「アルテフィウスの書の証人、ジョン・ポンタナスの書簡」とある。

資料に登場するニコラ・フラメルは、しばしば賢者の石の発見・初期のタロット・ヒエログリフなどと関連して語られる、ミステリアスで重要な人物である。
アルテフィウスと彼の秘本もまた、17世紀の錬金術師の関心の対象であった。

他にも、ニュートンのコレクションには「アノ・ドミニのエドワルドゥス・ジェネロサス・アンギリクス・イノミナトゥスによる「繁栄の秘宝」要約 1562年 」という28ページの論文があり、賢者の石・生物の石もしくは天使の石・未来の石もしくはモーゼの魔法の石・野菜の石もしくは成長する石について書かれており、錬金術の詩も含まれている。

聖書研究
1704年に書いた草稿で、ニュートンは聖書から科学的情報をくみ取ろうとしているが、ここでニュートンは世界は少なくとも2060年までは滅びないと予測した。

ニュートンはこの予言に関して「この指摘は、終末がいつ来るか断言するものではない。空想家による性急な当て推量と、それが外れることによって神聖な予言に疑惑が湧くことを防ぐためのものである」と言っている。

ソロモン宮殿
ニュートンは、ソロモン宮殿(ソロモン王が築いた、エルサレム神殿の原型)に関して広範な研究と著述を行っており、彼の洞察は「古代王国年代記」にまとめられている。

ニュートンの一次ソースは旧約聖書の列王記で、みずからヘブライ語からの翻訳を行っている。

ソロモン宮殿
ソロモン宮殿

ロンドンで1728年に発表された 旧約聖書に加え、ニュートンは様々な古今の資料を参照した。
古代の資料には神聖な知識がこめられており、また宮殿の各所に見られる均衡それ自体も神聖であると考えていた。
このためニュートンはギリシャ・ヘレニズム建築に加え、ウィトルウィウスなど古代ローマの資料をも調査し、神秘的な知識を求めた

このような考え方は“prisca sapientia”(神聖な知識)と呼ばれ、ニュートンの時代の学者には一般的な考え方であった。

ニュートンが使用した近い時代の資料としては、ファン・バウティスタ・ヴィラルパンドが数十年前ほどに発表した『エゼキエル書研究』がある。

この中でヴィラルパンドはエゼキエル書の視点について書いており、ソロモン宮殿の解釈と精密な再現も含まれている。
当時ヴィラルパンドの研究はヨーロッパ中の興味の的となり、後世の建築家や学者に大きなインパクトを与えた。

聖書の研究家としては、ニュートンはまず黄金比円錐曲線正投影図などの調和に基づくソロモン宮殿の神聖幾何学に興味を示し、またソロモン宮殿の特性と均整にはさらなる隠された意味があると考えた。

ニュートンは、ソロモン宮殿がソロモン王の特別な眼と聖なる助けによってデザインされたと信じ、宮殿をかたちづくる幾何学は単に数学上の青写真というだけでなく、時間軸をたどるヘブライの歴史の年代記を表しているとした。

ニュートンが宮殿について書いた章を、本に書かれた歴史の流れに直接関係しないにもかかわらず「The Chronology of Ancient Kingdoms(古代王国年代記)」に加えたのはこういった理由からである。

ニュートンは、古代の哲学者・学者・聖書の人物の著書に聖なる知識が込められているのと同様に、建築の中にもそれが込められていると考えた。
これらの人物は、複雑な暗号と象徴的・数学的な言葉を隠しており、解読すれば自然の運行に関する秘められた知識を解き明かすことができると信じたのである。

1675年、ニュートンは『マナ――錬金術的性質についての論考』の複製に注釈をつけた。この匿名の論文は学者仲間のエゼキエル・フォクスクラフト(Ezekiel Foxcroft)から譲られたものである。ニュートンは、自身のソロモン宮殿研究の理論を反映した注釈をつけている。

この理論的かつ実際的な哲学は、自然の書物の中だけではなく、創世記・ヨブ記・詩篇・イザヤ書などの聖なる書物にも見受けられる。
この哲学の知の中で、神はソロモンをこの世で最も偉大な哲学者として作り給うた。

ニュートンの時代、ヨーロッパではソロモン宮殿への関心が高まっていた。ヴィラルパンドの発表の成果もあったが、精密な版画や模型が流行し、様々なギャラリーで公に目にすることができたためでもあった。

1628年ユダ・レオン・テンプロはエルサレム神殿とその周辺の模型を作り、好評を博した。

その後1692年ごろゲルハルト・スコットはクリスティアン・ハイッリッヒ・ポステルの作曲したオペラのハンブルクでの上演のために細密模型を作った。
この、高さ13フィート(約3.96メートル)幅80フィート(約24.38メートル)の巨大模型1725年に売却され、1723年にはすでにロンドンで呼び物として展示されていた。

さらにその後1729年から1730年までロイヤル・エクスチェンジ(ロンドンの王立取引所)に展示され、半クラウンで観覧可能であった。
ニュートンの宮殿に関するもっとも包括的な研究成果は「古代王国年代記」にみられるが、これは彼の死後1728年に公表されたもので、宮殿への関心をさらに高めることとなった。

ニュートンの予言
ニュートンは、自身を聖書の記述を解釈する使命のため神に選ばれた人々のひとりだと考えていた。

ニュートンは聖書の予言的解釈を強く信じており、プロテスタントのイングランドでの多くの同時代人と同様、ジョセフ・ミードの教えと研究に親近感と賞賛を抱いていた。

さらに、ニュートンはいわゆるバイブル・コード(聖書に隠されているされる暗号)の調査と解釈に生涯の多くを捧げた。

ニュートンはヨハネの黙示録の解釈に重点を置き、黙示録に多くの書き込みを行い、自分なりの解釈を詳説した草稿を残している。
予言者という言葉の本来の意味とは裏腹に、ニュートンはすでに存在する聖典から予言を読み取ろうとした。

彼に言わせれば「ほとんど理解されていない」解釈よりも自分の解釈のほうが記録を直接に示すことができると考えたのだ。

ニュートンの死から27年後1754年、彼の論文の「聖書にまつわる2つの堕落についての歴史的事実」が公表されることとなった。
ニュートンはこの中では予言について語っていないが、ニュートンが聖書の膾炙した誤解と考えた箇所がよく分かる内容となっている。

ニュートンはこれらの研究では、いわゆる「科学的」なアプローチはとっていないものの、確かな根拠による研究成果として記している。

2060年
2003年の2月から3月にかけて、多くのメディアが確かにニュートンによって書かれた無名・未発表の文書に注目した。

この文書で、ニュートンは少なくとも2060年までは世界は滅びないと予測していたのである。
このニュースは広く関心を集め、イギリスのデイリー・テレグラフ紙、カナダのナショナル・ポスト紙、イスラエルのマーリヴ紙、イェディオト・アハロノト紙など大新聞の一面を飾り、ネイチャー誌などの科学雑誌でも特集が組まれた。

その翌週、テレビやインターネットではさらに大きくこれを取り上げ、しまいには2060年の予言や、ニュートンの知られざる思想や研究を取り上げるドキュメンタリー映像も制作された。
科学的合理性の権化といった一般的なニュートン像と、不合理な「世界の終わり」の予言の対比はそれ自体が避けがたくセンセーショナルな話題となった。

この予言について詳述している2つの文書は、現在エルサレムのイスラエル国立図書館に保管されている。

アイザック・ニュートン「卿」(Sir Isaac Newton)と記してあることなどから、どちらもニュートンの晩年(1705年以降)に書かれたと考えられている。

これらの文章は出版する意図を持って書かれたものではないようで、ニュートンはこの中で人気取りのために黙示録の日を推測するものに対する個人的な強い嫌悪を表明している。

また、ニュートンはこれらの文書の中で具体的な終末の日の日付を書いていない

ニュートンの予測を理解するためには明らかな反三位一体論、教皇への宗教的視点など彼の神学上の信念を踏まえなければならない。
このどちらもニュートンの計算にとって必須の要素であり、2060年という期間に密接に関係しているのである。

最初の資料はヤウダ・コレクションの一部で、手紙の紙片である。この裏にニュートンはダニエル書に関して以下のように走り書きしている。

予言1.予言における「2300日」は雄ヤギから角が生えた日以前から数えはじめるものではない。

2 これらの日(those day、原文ママ)はローマによる紀元70年のエルサレム征服・神殿破壊以前から数えはじめるものではない。

3 一時(いっとき)と幾時と半時(The time times & half a time)は教皇が支配権を確立する800年以前から数えるものではない。

4 これはグレゴリウス7世の治世の後、1084年以降から数えるものではない。

5 1290日は842年以前から数えはじめるものではない。

6 これはグレゴリウス7世の治世の後、1084年以降から数えるものではない。

7 1290日と1335日の違い(原文ではdeffence、differenceのことだと思われる)は7週間に収まる。

したがって、2300年間の終わりは2132年以前でもなければ、2370年以降でもない

一時と幾時と半時の終わりは2060年以前でもなければ2344年以降でもない

1290日の始まり(終わりの間違いか)は2090年以前でもなければ1374年(おそらく2374年の間違い)以降でもない。

2060年予測に関する二つ目の資料はフォリオ判の以下のような記述である。

「一時と幾時と半時」は、太古の暦法に合わせて一年を12か月・1か月を30日とすれば、3年半、すなわち42か月もしくは1260日間である。そして短命の獣の年月を長命の王国の年月に置き換える。1260日間を三人の王の征服からはじまると計算すると、2060年に終わることになる。これ以降に世界の終わりが訪れるのかもしれないが、これより早く終わる理由は私には見あたらない。この指摘は、終末がいつ来るか断言するものではない。空想家による性急な当て推量と、それが外れることによって神聖な予言に疑惑が湧くことを防ぐためのものである。キリストは夜盗のように(訳注 ひっそりと姿を隠して)やって来るのであり、我々は神の胸中にある来訪の時期を知るべくもないのである。

明らかに、ニュートンの数学的な終末予測は聖書の解釈のみに拠るものではなく、彼個人の神学的視点を通した特有の年代解釈にも基づいている。

ニュートンは2060年以降の出来事について、地球とそこに住む生物の消滅といった風に明言はしておらず、どちらかといえば神聖なる霊感を受けた平和な時代への移行とともに、世界が新しいものに置き換えられると信じていた。

キリスト教やイスラム神学では、このような概念はイエスの再臨や神の王国の樹立として見受けられる。

別の草稿では、ニュートンは黙示録21章と22章について以下のような解釈を書いている。

新しい天と新しい地。新しいエルサレムが夫のために着飾られた花嫁のごとく天から降臨する。結婚の晩餐会。神は人々を思い煩って涙を涸らし、泉を贈り、小さき者どもを作り、完了する。新しいエルサレムの栄光と喜びは、金と宝石によって示され、神と子羊(神の子羊=キリストの称号のひとつ)の栄光に照らされ、生命の樹が茂る楽園の川に潤される。この街の中で、世界の王はみずからと民と聖人の栄光をもたらし、永久に統治する。

ニュートンの年代学
ニュートンは年代学に関しても広く著書を残している。

1728年の『古代王国年代記』は、およそ8万7千語の構成で様々な古代王国の興亡について詳説している。

ニュートンみずから出版のための校正を行い、大半は校正済みであったが、結局『古代王国年代記』が出版されたのは彼の死後であった。

このような事情から、この本はニュートンが校正済みの最後の著書のひとつとして数えられる。

1701年前後にも、ニュートンは『君主制の原型』と題する30ページの未発表書簡を執筆しており、この中では古代全体から数人の王の興りを取り上げ、ノアの人物像までさかのぼって検討している。

ニュートンの年代記はヨーロッパ中心主義で、原初の記録としてギリシャ・アナトリア・エジプト・レバントを取り上げている。

ニュートンの記述の多くは正しい歴史上の知識に基づいていない

ニュートンはいくつかの先史時代の出来事を聖書の記述から取り上げており、歴史上の最古の記録を紀元前1125年としている。
ニュートンはここでアスワンからヘリオポリスまでの上エジプトの支配者としてメフレス(Mephres)を取り上げている。
だが、現在知られる紀元前1125年のファラオはラムセス9世である。

ニュートンの提示した年代には現代から見れば不正確なものがあるとはいっても、現代の科学的な考古学はニュートンの時代には存在しなかったのである。

実際のところ、ニュートンが算定した年代は、大部分はヘロドトス・プリニウス・プルタルコス・ホメロスなど様々な古代の歴史家・作家・詩人の著書に基づいており、原典からして二次ソースや年代が不確かな口承記録に基づいていることが多いのである。

ニュートンの年代学の方法は様々な原典から歴史上の情報を集め、当時の理解・基準・手に入る史料をもとに年代を割り出して整理する、というものであった。

アトランティス
『古代王国年代記』にはアトランティスについて述べている節がいくつか見られる。

まず「Short Chronical」の章で、ホメロスの『オデュッセイア』においてオデュッセウスがオギュギア島に漂着したのを紀元前896年としている部分である。

ギリシャ神話において、オギュギア島はアトラース(アトランティスの語源でもある)の娘カリュプソーの故郷である。
オギュギア島とアトランティスは位置的に繋がりがあり、同じ島のことを指しているのではないかとする学者もいるが、ニュートンも同様に考えていたとも思われる

ニュートンはオギュギア島の候補としてカディス(Cadis)カレス(Cales)を挙げているが、特に理由は挙げていない。

また同資料の中でニュートンは、古代の史料に拠ればアトランティスはヨーロッパ・アフリカ・アジア全域と同じくらい広大であったが海に沈んだと書いている。

抜粋
http://ul.lc/59wp(wikipedia)
http://ul.lc/59wq(wikipedia)より

アイザック・ニュートン―すべてを変えた科学者
光学 (岩波文庫 青 904-1)
科学とオカルト (講談社学術文庫)
Newton (ニュートン) 2015年 02月号 [雑誌]ww

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