【今日の歴史】1918年7月12日の事【河内沈没】

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戦艦「河内」(1913年5月23日大阪にて)出典:wikimedia
戦艦「河内」
(1913年5月23日大阪にて)
出典:wikimedia

 「河内」徳山湾で爆発事故により沈没

河内(かわち)
大日本帝国海軍河内型戦艦1番艦
艦名2代目で「河内国」による
日露戦争直後明治40年度の計画により
建造された戦艦2隻のうちの1隻で、
計画時の名称伊号戦艦(伊號戦艦)

概要
1909年(明治42年)4月1日横須賀海軍工廠にて午前8時20分にキールが据え付けられ、起工した。

翌1910年(明治43年)10月15日午後2時8分進水
進水式には明治天皇が臨席した。

1912年(明治45年)3月31日竣工、引き渡された。

河内建造の予算明治44年度までで、竣工はその期限ぎりぎりだったことになる。

同型艦「摂津」との識別点として「河内」の艦首は直線型艦首であり、一方「摂津」のそれはクリッパー型だった。

これは識別を明確にすると同時に、艦隊旗艦の任務が多くなるであろう「河内」の艦容の威厳を保つためと思われる。

また主機であるカーチス式タービンは川崎造船所で製造された。

竣工翌日の4月1日に第一艦隊に編入、整備や補給をした後の4月22日に作業地へ向け出港した。

1914年(大正3年)8月日本がドイツに宣戦布告第一次世界大戦に参戦すると「河内」も同年8月から9月にかけて東シナ海や黄海の警備に従事した。

1918年(大正7年)7月12日、徳山湾に停泊中の「河内」は15時51分1番砲塔(舷側)から発火15時54分大爆発を起こして前部マスト倒壊、右舷舷側に大破口ができるなどし、船体は右に120度傾斜して転覆、水深約12mの海底に着底した。
この事故により約600名が殉職した。

同年9月21日除籍

その後現場で解体された。

日本海軍の戦艦「河内」が徳山湾で爆発事故により沈没
日本海軍の戦艦「河内」が徳山湾で爆発事故により沈没
出典:トドの夢のホームページ

スペック
常備排水量
20,823 英トン

全長 160.32m
全幅 25.68m
吃水 8.23 m
機関 2軸タービン16缶 30,399shp
燃料 石炭 2.300t 重油 400t.
速力 21.024ノット

兵装
50口径毘式30cm連装砲2基4門

45口径毘式30cm連装砲4基8門
45口径四一式15cm単装砲10門
40口径四一式12cm単装砲8門
40口径四一式8cm単装砲8門 四一式短8cm砲8門
45cm水中発射管5門

豆知識
30センチ砲連装6基12門砲力は強力に見えるが実際は主砲を亀甲型に配置したため、右、又は左舷に砲を撃つとき反対舷の砲が使用できず前を向いて撃つときとおなじ砲力となってしまった。

その上、中央の砲が45口径前後が50口径射撃指揮に問題がでるものであった。

抜粋:http://ul.lc/4sbx (wikipedia)より

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