【今日の歴史】1757年1月5日の事【暗殺未遂事件】

【今日の歴史】1757年1月5日の事【暗殺未遂事件】

ルイ15世がヴェルサイユ宮殿から出たとき、一人の男が駆け寄って横腹を切りつけた。
ルイ15世がヴェルサイユ宮殿から出たとき、一人の男が駆け寄って横腹を切りつけた。

ルイ15世の暗殺未遂事件

ロベール=フランソワ・ダミアンがフランス王ルイ15世を襲った事件。

ロベール=フランソワ・ダミアン(Robert-François Damiens、1715年1月9日 – 1757年3月27日)は、フランス王ルイ15世暗殺未遂の罪によって八つ裂きの刑になった人物である。

ダミアンはアラスの近くの村で1715年に生まれ、若いときに軍に入隊した。
軍を辞めたダミアンはパリのイエズス会の召使いになって、働いていたが金を持ち逃げした。
ダミアンはジャンセニスムに共感していたらしく、クレメンス11世によるジャンセニスムと痙攣派(ジャンセニスムの一派)への抑圧に反感を抱き、国王を暗殺することで事態を改善しようと考えたが、結局殺さずとも怯えさせるだけでいいと結論付けた。

1757年1月5日に、ルイ15世が馬車に乗ろうとしたところをナイフで刺した。

寒い時期で厚着をしていたこともあり、ルイ15世はかすり傷で済んだ。
ダミアンは逃げることなくその場で逮捕され、共犯者の名前を白状させるために拷問にかけられた。
しかし、彼は共犯者も後ろ盾も全くない単独犯だったが、拷問にかけられた苦し紛れに適当な名前を答えた。

3月27日、死刑執行人シャルル=アンリ・サンソンニコラ=シャルル・ガブリエル・サンソンにより、フランスで最も重い刑罰である八つ裂きの刑により死刑になった。

まず罪を犯した右腕を罰するために右腕を焼かれ、ペンチで体の肉を引きちぎられ、傷口に沸騰した油や溶けた鉛を注ぎ込まれたあと、手足に切れ込みを入れて八つ裂きにされて絶命し、胴体は焼かれた。
処刑を目撃した人物は、彼を、イングランドにおいて同様の罪で処刑されたガイ・フォークスになぞらえた。

八つ裂きの刑
八つ裂きの刑

処刑後、ダミアンの家は完全に破壊され更地になり、兄弟と姉妹は改名を強要され、父と妻と娘はフランスから追放された。

抜粋:http://ul.lc/59yh(wikipedia)より

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〈図説〉公開処刑の歴史/ナイジェル・カウソーン
残酷美術史 西洋世界の裏面をよみとく/池上英洋

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