【今日の歴史】1732年2月22日の事【合衆国建国の父】

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初代アメリカ合衆国大統領、ジョージ・ワシントン。
初代アメリカ合衆国大統領、ジョージ・ワシントン。

ジョージ・ワシントン生誕日

ジョージ・ワシントン(George Washington、1732年2月22日 – 1799年12月14日)は、アメリカ合衆国の軍人、政治家、黒人奴隷農場主であり、同国の初代大統領である。

死去した現在もアメリカ合衆国陸軍大元帥の階級にいる。

妻であるマーサ・ワシントンは貞淑で公式の儀式をきちんと行って先例を開いたため、初代ファーストレディと見られている。

生い立ち
ジョージ・ワシントンは、1732年2月22日、バージニア植民地ウェストモアランド郡コロニアル・ビーチ南部に位置するポープズ・クリーク・プランテーションにおいて誕生する。

彼の誕生日は1731年2月11日(ユリウス暦)1732年2月22日(グレゴリオ暦)となっているが、グレゴリオ暦の方が有名である。

日付が1年以上食い違っているように見えるが、これは、当時イギリスでは3月25日が年初日とされていたためで、生年そのものは1732年である。

ワシントンの一家は、バージニア州で黒人奴隷プランテーションを経営し、後には鉱山開発も手掛けた。

ワシントン家はバージニアでの指導層とまでは行かず、中流の郷士であった。

彼の両親、オーガスティン・ワシントンとその2番目の妻メアリー・ボールは、イギリス出の家柄であった。

ワシントンは幼年期の多くをスタッフォード郡のフレデリックスバーグに近いフェリー・ファームで過ごした

父のオーガスティンはジョージ・ワシントンが11歳の時に死に、14歳年長の長兄ローレンスが父親代わりを務めた

ローレンスの義父ウィリアム・フェアファックスワシントンの人格形成に影響を与えた。

ローレンスが父の遺産の大半を相続し、その農園をマウントバーノンと名付けた。
ワシントンはフェリー・ファームを相続した。

青年期は測量を学び、生まれ育ったバージニアの地形について知悉(ちしつ)するようになった。

1748年には農園主としての経歴を積み始め、またブルーリッジ山脈の西側の土地の測量にも請われて参加した。

1749年、フェアファックスの後押しもあって、新しく作られたカルピーパ郡の測量士として始めて公的な役職に就いた

この仕事で得た収入でシェナンドー渓谷に新しく農園を購入したが、これがその後のバージニア西部における資産拡張の始まりとなった。

この頃ローレンスの影響で西部の土地を開発することを目的として作られたオハイオ会社に興味を持った。

また、バージニアの副総督(実質的な統括者)ロバート・ディンウィディとも知り合った

ワシントンは身長が6フィート2インチ (188 cm) あり(推定、資料により異なる)、よく目立った。

1751年に結核を患っていたローレンスが転地療養のためにバルバドスに渡った時、ワシントンも同行した。
天然痘にかかるが無事に回復した。

病気のあとは顔にあばたとして残ったが、これで免疫となったことはその生涯で経験した環境を考えれば重要なことであった。

1752年2月4日にバージニア州のフレデリックスバーグ・ロッジNo.4(Fredericksburgh (Fredericksburg) Lodge No.4)でフリーメイソンに加わった。

国立大聖堂にあるジョージ・ワシントン像の後ろのメイソン定規とコンパス。
国立大聖堂にあるジョージ・ワシントン像の後ろのメイソン定規とコンパス。

また、フリーメイソンの殿堂として建てられたジョージ・ワシントン・メソニック・ナショナルメモリアルにはワシントンの名が刻まれている。

同年7月にローレンスが死去。

彼は最初、ローレンスのマウントバーノンの農園を借り、最終的には相続した。

ローレンスはバージニアの民兵隊長を務めており、その死後は4つの地区に分けてそれぞれ隊長が配されることになった。

ワシントンはディンウィディの指名でその1つを継承し、少佐となった 。
地区隊長としてのワシントンは割り当てられた宿舎に入り、民兵の訓練を行った。

1753年12月、ディンウィディはフランスの軍事力やその考え方を探る目的でワシントンを、現在のペンシルベニア州ウォーターフォードにあったル・ビューフ砦に派遣し、伝言を伝えさせた

この伝言はフランスによるオハイオでの開発を止めるように要求したものであり、当然のように無視され、その後アメリカにおける2強国の対立が世界的な紛争に繋がる引き金ともなった。

この時作成したワシントンの報告書は大西洋の両側で読まれることになった。

晩年
1797年3月大統領職を辞任した後、ワシントンは解放感を抱いてマウントバーノンに帰った。

その年は多くの時間を農園で過ごし、2,250平方フィート(75フィートx30フィート、200m2)の蒸留所を造った

これは新しい共和国でも最大級のものであった。
中には5基の銅製蒸留器、1基のボイラー、50個の麦芽桶があり、その農園の中でも農業による収益性のない場所に造られていた。

2年後には生産量が最大となり、7,500ドル相当のコーンウィスキーとライウィスキー11,000ガロン(42キロリットル)とフルーツブランディを生産した。

1798年にフランスとの戦争の脅威にさらされていたアメリカ陸軍の中将として最高司令官に再び指名された。

ワシントンの任命は戦争が切迫していたフランスに対する警告であった。
しかしながら、同年内に彼は急性喉頭炎に罹患したため、現役勤務することはできなかった。

1799年12月12日、ワシントンは馬に乗って、雪と後にはあられと凍えるような雨の中を数時間見回り過ごした。

その夜は濡れた衣服を着替えもせずに食卓に座った。

翌朝目覚めると悪寒と熱があった。
化膿性扁桃腺炎という咽喉感染症にかかったのである。

これが急性の喉頭炎と肺炎に変わり容態が急変したワシントンは12月14日、自宅で67歳で死去

最期まで付き添ったのは親友の一人ジェイムズ・クレイク医師と個人的な秘書トビアス・リアだった。

リアの日記にはワシントンの最後の言葉が「それはいい」だったと記した。

妻のマーサはプライバシーの保護のために夫と交わした手紙を焼いたが、3通のみが残されることになった。

現代の医者はワシントンが連鎖球菌による喉の伝染病あるいは、瀉血による大量失血のショックと脱水症の合併症で死んだのではないかと考える。

彼はマウントバーノンの家族墓地に埋葬された。

ワシントンの死後、マウントバーノンは甥でアメリカ合衆国最高裁判所判事であるブッシュロッド・ワシントンが継いだ

独立戦争時の同僚であり下院議員のヘンリー・ライトホース・ハリー・リーはワシントンを「戦争中の、平和のうちの、そして彼の同胞の心の中で一番の市民である」として称賛した。

ワシントンの死後、アメリカ陸軍はその名を「退役」名簿に載せた。

生涯陸軍元帥の地位にあったドワイト・D・アイゼンハワー(ただし、大統領在任中は軍籍を離脱)を除きジョージ・ワシントンは大統領退任後に軍務に再就役した唯一の大統領である。

アメリカ合衆国の誕生200周年となる1976年に、アメリカ陸軍はワシントンを総軍元帥に昇進させ、アメリカ合衆国で序列最上位の陸軍士官であると公表した。

豆知識
アメリカ合衆国建国の父として、首都や州名などにその名を残しているアメリカ合衆国憲法下で最初のアメリカ大統領

ラシュモア山国立記念公園(左から)ジョージ・ワシントン, トーマス・ジェファーソン, セオドア・ルーズベルト, エイブラハム・リンカーン
ラシュモア山国立記念公園(左から)ジョージ・ワシントン, トーマス・ジェファーソン, セオドア・ルーズベルト, エイブラハム・リンカーン

首都ワシントンD.C.とホワイトハウスでの政務を行うことのなかった唯一のアメリカ大統領でもある。

農園経営の傍ら、土地投機事業にも熱心であったとされる
これが、植民地人の西部進出を制限する英本国の政策と対立したため、反英感情を高め、ひいては独立戦争の遠因になったという見方もある

司教のウィリアム・ミードはワシントンが飲酒やダンス、観劇、狩猟といったものに反対する敬虔な人物であるとしたが、ワシントンの養子パーク・カーティスの著書にはワシントンがダンスや狩猟を行ったという著述がある。
その上酒好きで、他の政治家仲間と独自の酒を造っていた。

大統領の権威が下がるということで、握手をほとんどしなかった

ワシントンはその人生を通して歯の問題に悩まされ続けた
22歳の時に最初の永久歯を失い、大統領に就任するまでにその残りはわずか1本になっていた。
ジョン・アダムスによれば、ワシントンはブラジルナッツを歯で割って食べていたのが原因だというが、最近の歴史家の間では、天然痘やマラリアなどの治療に用いられた酸化水銀が原因で彼は歯を失ったのではないかと考えられている。
ワシントンは多くの総義歯を所有していたが、そのうちの4セットはジョン・グリーンウッドによって作成された。

一般的にワシントンの総義歯は木製だったと信じられているが、実際はそうではなかった
彼が大統領になるころには、総義歯はカバや象の牙を削って作られ、金のばねでおさえられていた。
カバの牙でできたプレートに本当の人の歯と、一部馬やロバの歯なども混ぜ埋め込んで作った。

ジョージ・ワシントンの義歯
ジョージ・ワシントンの義歯

歯の問題によってワシントンは恒常的に痛みを覚えていたため、アヘンチンキ(アヘンの鎮痛剤)を使用していた。
こういった彼の苦痛は現在の1ドル札も含め、就任中に描かれた多くの肖像画に現れている。
そのためワシントンは大統領後期、演説を嫌がった

アメリカ合衆国の首都ワシントンD.C.(コロンビア特別区)は彼にちなんで命名された。
コロンビア特別区は1790年の議会での議決により建設されたが、新首都となる地帯は湿地であり、19世紀まで大部分は湿地のままであった。
首都はアメリカ合衆国憲法が記述される間、南部の賛成票を得るため妥協案として、北部の大都市ではなく、南部の土地に恒久的な首都として建設されることになった。

アメリカ合衆国の太平洋側北西部に位置するワシントン州も彼にちなみ命名された。
同州は大統領の名を付けた唯一の州である。

アメリカ海軍には彼に敬意を表しその名を付けた艦艇が多数存在する。
ワシントンという名の艦艇は歴代に10隻存在し、ジョージ・ワシントンという名の艦艇は歴代に4隻存在する。

ワシントンは、その肖像を1ドル紙幣および25セントコインに使用されている。

1ドル紙幣、25セントコイン(クォーター)のワシントン。
1ドル紙幣、25セントコイン(クォーター)のワシントン。

ワシントンDCのジョージ・ワシントン大学も彼にちなんで命名された。

ダンス愛好家であり、室内装飾のプロでもあった。

1860年、江戸幕府の使節が咸臨丸で訪米した。
使節のメンバーはワシントンの子孫の近況を知りたいと思ったが、案内人には「よくわからない」と返されたという。
ワシントンに直系の子孫はいない

1796年にリバティ・ホール・アカデミー(現在ワシントン・アンド・リー大学)へ当時私立の教育機関に対する寄付としては最高の$50,000を寄付した。

「桜の樹」の伝説
ワシントンを崇拝する動きが、伝記での逸話の創造につながった。

子供のとき桜の木を切ったことを父親に正直に話したら、かえって褒められたという挿話(ワシントンの斧 – George Washington’s axe)が流布しているが、これはワシントンの死後にマウントバーノン教区のパーソン(牧師)、メーソン・ロック・ウィームズが子供向けに書いた『逸話で綴るワシントンの生涯』の中で、「嘘をついてはいけない」という教訓のために書いた作り話であるとも言われているが真偽は明らかでない。

通説では、ワシントンが子供のころ、つまり1745年前後にはアメリカ大陸には桜の木はなかったとされている。

この話は初版から第四版まで掲載されず、1806年の第五版から掲載された。

ウィームズはまた、ワシントンがバレーフォージの近くの森で祈りを続けたという話も作り上げた。
ウィームズの経歴も「マウントバーノン教区」なるものは存在せず、事実であったかどうか疑わしい。

奴隷制
ワシントンはその人生の大半典型的なバージニアの黒人奴隷所有者としてそのプランテーションを経営した。

1760年代、たばこを諦め(格式はあったが利益は出ていなかった)、小麦の栽培に転じ、小麦粉の製粉・衣類の製織およびブランディの醸造と多角化した。

その死のときまでにマウントバーノンには317人の奴隷がいた

アメリカ独立戦争の前に、奴隷制について道徳的な留保を表明することはなかったが、1778年までに黒人奴隷の家族を壊すことを望まなかったので奴隷の同意なしに売買することをやめた

1778年、戦争のまっただなかであったが、マウントバーノンの管理人に宛てて手紙を書き、大量の(また徐々に年取りつつあった)奴隷を使っていくことはもはや経済的に非効率なので、奴隷を売り「黒人とは縁を切り」たいと言った。

しかし法律的には「妻の財産の奴隷」を売ることができず、その奴隷たちが自分の奴隷たちと結婚していたので、その家庭を壊さずに売り払うことはできなかった

戦後、個人的にはしばしば奴隷制度を嫌悪すると言っていた。

ただし私人として疑念を表してはいたものの、それを公の場で批判することはなかった。

実際に大統領としてのワシントンはフィラデルフィアの官邸に9人の家付き奴隷を連れてきていた。

ペンシルベニア州の法律では、州内に居住した奴隷は6か月後に合法的に自由になるとされていた。

ワシントンはマウントバーノンとフィラデルフィアの間で家付き奴隷を入れ替え、彼らに自由を与えないようにした

彼の採ったこの考え方は奴隷や大衆からは見えないようにされており、事実違法でもあった。

ワシントンは奴隷を解放したことでは唯一の著名な建国の父であった。

しかし、生きている間は解放せず、妻が死んだ時に自分の奴隷を解放するよう遺言を残した。

その地所であるマウントバーノンにいた奴隷全部がワシントンの財産ではなかったことを理解するのは重要である。

妻のマーサは多数の奴隷を所有しており、妻の領地からマウントバーノンに移ってきた奴隷を一方的に解放することができるとは思っていなかった。

彼の行動はラファイエットとの親密な付き合いで影響されていた。
マーサはその人生の後半に権利を得た奴隷を解放することはできた。

ワシントンは表立って奴隷制に反対を表明しなかったが、歴史家のドロシー・トゥーヒッグは、既に神経質で対立的な問題になっていたことで誕生間もない共和国を2つに割る危険を望まなかったからだと主張した。

インディアン
ワシントンは黒人を奴隷として所有していたのと同様に、アメリカ先住民族であるインディアンを人間扱いしていなかった

彼が名を上げた「フレンチ・インディアン戦争」では、イギリス植民地軍は多数のインディアン部族と同盟を組み、フランス軍と戦わせ、フランス側についたインディアン部族と殺し合いをさせた

ワシントンはインディアンを「猛獣 (beasts of prey)」と呼んで、大統領に就任するとこれを植民の障害としてのみとらえ、「ニューイングランド一帯のインディアン部族を絶滅させるように」と閣僚に命じた。

ワシントンはのちに、合衆国によるインディアン民族に対する民族浄化について、次のようにその考えを述べている。

「インディアンの諸国を相手とする、我々のやり方の基本は“正義”であったし、それはこれからもそうでなければならない。」

1970年、インディアン権利団体「アメリカインディアン運動 (AIM)」は、スー族のブラックヒルズ一帯の占有権を認めた条約の確認を合衆国に求め、ワシントンらの「顔」の彫られたラシュモア山頂上で長期占拠抗議を行った。

この際、スー族運動家のラッセル・ミーンズらインディアンたちは、ジョージ・ワシントンの「顔」に小便をかけてみせた。

AIMのスポークスマンでもあるミーンズはジョージ・ワシントンについて、次のように述べている。

「合衆国がイギリスから独立した理由について、うんざりするほどのプロパガンダが語られている。しかし、実際のところは、大奴隷所有者であり最大地主であるジョージ・ワシントンは、アメリカインディアンと同盟を組んだイギリスのオリジナルの条約を、西半球で守る必要がないように、イギリスとの関係を断ったのである。そして合衆国は西半球を侵略し、土地を奪ったのだ。」

抜粋:http://ul.lc/5dbg(wikipedia)より

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