【今日の歴史】1836年2月25日の事【米コルト社の創設者】

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サミュエル・コルト
サミュエル・コルト

リボルバー拳銃の特許取得

サミュエル・コルト Samuel Colt
(1814年7月19日-1862年1月10日)

アメリカ合衆国の発明家および工場経営者である。
コルト特許武器製造会社(現在はコルト製造会社)を創設し、リボルバー拳銃を普及させたことで広く知られている。

コルトの発明による産業への貢献は、武器歴史家のジェイムズ・E・サーヴンによって、「アメリカの武器の運命を作り上げた」と表現された。

生い立ち
サミュエル・コルトの父親クリストファー・コルトはコネチカット州の農夫であったが、転職して実業界に入り家族ごとハートフォードに転居した。

母親のサラ・コールドウェルはコルトが7歳になる前に亡くなっている。

コルト家は8人兄弟で、男が5人、女が3人だったが、姉妹のうち2人は子供の間に死に、もう一人は後に自殺した。

コルトの父親はコルトが11歳の時に再婚し、その時から継母のオリーブ・サージェントに育てられた。

コルトは若い時期に乗馬用拳銃を手に入れており、それに魅惑されたことが生涯の職業に導くことになった

コルトは11歳でグラストンベリーの農場に年季奉公に出され、そこで雑用をしながら学校に通った。

グラストンベリーでは、聖書の勉強の代わりに読んだ科学系の事典「知識の大要」に影響された。
この事典にはロバート・フルトン火薬に関する記事が載っており、アイディアを与えた。

コルトはたまたま雑用で買い物に行っている時に二重銃身のライフルの成功について軍人の話を漏れ聞き、さらに5,6度続けて発射できる銃の可能性についても聞いたと伝えられている。

「知識の大要」には、フルトンや他の数人の発明家がそれまで不可能と思われていたことを成し遂げていることを知り、自分でも発明家になって「不可能な」銃を創ることに決めた。

1829年、コルトはマサチューセッツ州ウェアにあった父親の繊維工場で働き始め、そこで工具や素材および工場労働者の専門技能に触れた。
コルトは事典で得たアイディアと技術知識を使って、自家製の電気式火薬電池を作り、ウェア湖で爆発させた。

1832年、父親の指示で海の交易を覚えるために船に乗った。
ボストンから船出したコルトはカルカッタへ宣教のために向かう宣教師に仕えた。

コルトのリボルバー拳銃の概念は航海の間に船の動輪を観察したことから生まれたと後に語った。

「動輪がどっちの方向に回転しようとそれぞれのスポークが常にクラッチとかみ合うように直線になることを見つけ、リボルバーの考えがまとまった 」。

1832年にアメリカに戻ると、父親の工場でまた働き始めた。

クリストファー・コルトは2丁の拳銃の製造にのみ必要な資金を提供した。息子のアイディアが愚かなものと信じていたので、賃金の安い機械工のみを雇った。

そうしてできた拳銃の品質はお粗末であり、1丁は弾丸を発射すると爆発し、もう一丁は弾が全く出てこなかった。

またこの同じ時期に、コルトは工場の化学者から亜酸化窒素(笑気)について学んだ。

間もなく移動実験室を持ってアメリカやカナダを回り、笑気ガスの実演で生活資金を稼いだ。
また、ボルチモア出身の銃鍛冶を使って銃造りの手配もした。

1832年18歳でコルトはリボルバーの特許を申請し「雛形を持って戻る」と宣言した。

銃の製作
1835年、コルトはE・H・コリアー(フリントロック式銃を改良して特許を取ったボストン市民)の足跡を辿ってイギリスに渡り、最初の特許(第6909号)を取得した。

コルトは次にフランスに渡ってその発明の販売促進を行った。

2007年発行「時の魂」によれば、コルトはアメリカ合衆国とフランスの間に起こりつつあった紛争に気付いていた。
コルトの大望は祖国に仕えることであり、船で戻ることにしたが、その帰路でイギリスが中に入って調停したことを知った。

祖国に仕えたいというコルトの大望はそれを現す前に潰えてしまった。

コルトがニュージャージー州パターソンで武器を造るきっかけとなったのはこの出来事の時だと考えられている。

コルトは家に戻ると直ぐにワシントンD.C.に急行し、1836年2月25日に後に第X9430号とされた「リボルバー拳銃」で特許を取得した。

この器械と1839年8月29日付け特許第1304号は、コルトのパターソン・ピストルと名付け、回転式後装填折り返し引き金武器の基本原理を保護した。

コルト・パターソン・モデル
コルト・パターソン・モデル

コルトは1836年4月にニューヨーク州とニュージャージー州の投資を集めて株式会社を設立
投資家の政治的なコネを使ってその会社は3月5日にニュージャージー州議会の認可を得た。

社名は「コルト特許武器製造会社」とした。

コルトは、銃が売れるごとに自分の特許権に応じて特許使用権料を受け取ることとし、もし会社が解散した場合は、特許権が自分に戻されるという契約にした。

この最初の「実使用リボルバーと連続発射火器」は、パーカッション式の技術を集約することで可能となった。

これは後に工業文化の生産に繋がり、軍事工学の発展に計り知れない貢献を果たした。

また、皮肉なことに後に革新的な改良を行った銃の名前が「ピースメーカー」だった。

ピースメーカーモデル
ピースメーカーモデル

コルトは、自分の設計したものがE・H・コリアーの回転式フリントロック銃の単なる実用化であったので、リボルバーを発明したとは言わなかった。

E・H・コリアーの発明はイギリスで特許を取得しており、そこでは大きな評価があった。

コルトにとって幸運なことに、ダーリング兄弟(類似の請求を行ったライバル発明家)に2ヶ月近く先行して特許を確保できていた。

コルトは互換性のある部品の製作に大きな貢献を果たした。

当時の銃は手作りで高価だった。

しかし、幾つかの部品は既に機械で作られていたので、コルトは全ての部品を機械で作ることと、部品に互換性を持たせることが、彼の目標の製造ラインであった。

父親に宛てた手紙でコルトは、

「最初の作業者は最も重要な部品の2,3を受け持ち、確認して次の者に渡す。次の者は部品を組み立てさらに次の者に渡す…。と、同じように繰り返して最後に完成品を仕上げる。」

と書いた。

初期の問題と失敗
コルトはこの互換性を得るために新しい機械の予算を会社の所有者に掛け合ったが、説得するのに難渋したので、路上での興行に戻った。

雑貨屋で人々に銃を実演するのはうまく行かず、従兄弟から借金をしてワシントンD.C.に行きアンドリュー・ジャクソン大統領に掛け合った

ジャクソンはコルトの銃を認め、ジャクソンが認めたという文書を書いてもらった。

この承認を得て、コルトはアメリカ合衆国議会を通じて軍隊での実演の機会を得たが、あまり評価されなかった。

しかし、サウスカロライナ州が50挺ないし75挺を買うという約束をしたが、製造が遅れ失敗した。

コルトがリボルバーを売るときに何度も直面した問題は、1808年州兵法の規定を変えることが出来なかったことだった。

州兵法の下で購入される武器はアメリカ合衆国で現に使われているものに限られていた。

州兵はアメリカ国軍に使われていない武器を購入する予算を付けることが公式には許されていなかった。

マーティン・ヴァン・ビューレンが大統領になると、続いて起こった経済危機で会社は破産した。

しかし会社はフロリダで起こったセミノール戦争で救われた。
この時、初めてリボルバー拳銃リボルバー・マスケット銃両方共に販売できた。

フロリダの兵士は新しい武器を愛用したが、また一つ問題が持ち上がった。

通常とは異なる撃鉄内蔵型の設計があり、当時の常識を60年ぐらい先行していた。

当時としては撃鉄を外付けした銃に慣れた兵士に訓練するのが難しく、多くの好奇心の強い兵士がロックを取ってしまった

このことは部品の破損につながり、弾詰まりを起こした。

コルトは直ぐに設計をやり直し、撃鉄を外付けにした

1843年、州兵法やその他多くの障害を経験し、フロリダに販売した拳銃の支払いも無くなり、パターソンの工場は閉鎖された。

しかし、コルトは製造を諦めるつもりはなかった。

二人のサム
資金集めの為、水中電気起爆装置の売込みをやっている時にサミュエル・モールス(後にモールス電信機を発明)と出会った。

2人は友人となり、政府からの出資を働きかけた

コルトの考案した耐水性ケーブルモールスの考えていた湖や川あるいは湾を通す電信線に有効と分かり、特に大西洋を渡す新しい海底ケーブルを敷設するときには共同した。

1841年も終わり近いころに、イギリスとの関係が緊張していたこともあり、議会からの予算を得てコルトはアメリカ政府に水中電気起爆装置を売り込み始めた。

1842年、1隻の船を破壊することに成功したので海軍とジョン・タイラー大統領の満足を得ることができた
しかし、個人的にコルトを嫌っていたマサチューセッツ州選出のジョン・クィンシー・アダムズ下院議員がその計画を止めさせてしまった

その後、コルトは耐水性電信ケーブルの製造に集中した。
この事業はモールスの発明で活気付くと信じていた。

コルトはケーブルで1マイル当たり50ドルを売り上げた。
このケーブルをもっと広い市場に出すために電信会社への売り込みも始めた。

そうして、資金を増やしていった。

リボルバーの復活
1847年の米墨戦争でコルトはアメリカ合衆国政府およびサム・ウォーカー大尉テキサスレンジャーズから1,000挺のリボルバーの注文を受けた。

ウォーカーは以前にコルトが生産したリボルバーを手に入れていた。

この注文でコルトはその事業を再度立ち上げることができた。
この時には工場や雛形も無かったので、既に銃を造る事業を始めていたイーライ・ホイットニー・ジュニアの助けを借りた。

そうして、コルトとウォーカー大尉は新しい改良型のモデルを作り上げた。

ホイットニーが最初の1,000挺と追加注文のあった1,000挺を生産し、コルトは1挺につき10ドルの利益を取った。

後にハートフォードでコルト火器製造会社を作った。

コルトの回転銃尾拳銃は大変な人気を呼び、「コルト」という言葉が時にはリボルバーを指す一般名詞になった。

ゴールドラッシュと西部への拡大によってコルトの事業は活況を呈し、ハートフォードの工場は絶え間ない拡張を強いられた。

コルトはその特許権について初期の頃は利益を挙げられなかったので権利期間の延長が認められた

あとは誰かがその特許権に抵触するのを待って訴訟を起こした。

訴訟にも勝ってライバル会社が製造した拳銃の特許権料を受け取り、その会社が製造を中止するように追い込んだ。

実質的な独占を果たし、国際的緊張関係のために需要が高いヨーロッパにも売り込んだ。

それぞれの国で他の国がコルトの拳銃を装備していると言えば、遅れることを恐れる多くの国々から、大口の注文を得ることができた。

その後
コルトはコネチカット川のほとりに広大な土地を買い、さらに大きな工場(コルト・アーモリー)、アームズミア(「武器の野」)と名付けたマナー・ハウスおよび作業員の宿舎を建てた。

従業員には1日10時間労働を定め、工場の中に洗濯場を設け、昼食休憩は1時間を義務付け、さらに従業員がゲームや新聞および議論を楽しむクラブ、チャーター・オーク・ホールを建てた。

こうしてコルトは従業員の福利厚生に関しては先見的な雇用主となった。

コルトは事業で大きな成功を収めていた。

1856年6月5日、コルトはハートフォードから直ぐ川下に住んでいたウィリアム・ジャービス牧師の娘、エリザベス・ジャービスと結婚した。

南北戦争ではコルトは莫大な利益を上げ、これを社会還元すべくコルトは私費を投じて、1861年に1000挺の自社製リボルビングライフルを政府へ提供。

これを装備する「コカチネット第一コルトリボルビングライフル連隊」を組織して、自らも大佐の階級を得て戦場へ立つつもりであったが、その矢先に通風、炎症性リューマチ動脈炎の併合症にかかって1862年1月10日に死亡した。

コルトが病死したとき、彼の資産は1,500万ドルあると見積もられた。
これを妻と息子に遺し、工場の責任者は義弟のリチャード・ジャービスに任せた。

コルト社パイソンとSW社のM586
コルト社パイソンとSW社のM586

豆知識
海外ドラマ「スーパーナチュラル」では、サミュエル・コルトは「何でも殺せる」リボルバーを造った人で、その銃は地獄の門を塞ぐ「悪魔の鍵」となっている。

スーパーナチュラルのコルト
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抜粋:http://ul.lc/5dm1(wikipedia)より

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