【今日の歴史】1954年1月10日の事【未知と無知の恐怖】

【今日の歴史】1954年1月10日の事【未知と無知の恐怖】
デ・ハビランド DH.106 コメット Mk.I
デ・ハビランド DH.106 コメット Mk.I

英国海外航空781便墜落事故

英国海外航空781便墜落事故は、世界最初の実用的ジェット旅客機であるイギリスのデハビランド コメットに発生した、技術上の欠陥による航空事故のひとつである。
これは後のコメット連続墜落事故と言われる事故の1つとなる。

概要
1954年1月10日、英国海外航空(現在のブリティッシュ・エアウェイズ)所属のコメット3号機 “ヨーク・ピーター”は781便として、シンガポールからロンドンへ向けて飛行していた。

経由地であるローマのチャンピーノ空港を世界時9時34分(現地時間10時34分)に離陸した。同便には乗員6名(操縦乗員と客室乗務員3名ずつ)と乗客29名(うち子供10人)が搭乗していた。

またヨーク・ピーター1952年5月世界最初の定期ジェット旅客機として就航した輝かしい機体であった。

世界時9時50分ごろに管制塔へ定期通信を入れた後、781便の11分前にローマを離陸して付近を飛行していた同僚の “アーゴノート” 機531便と気象条件の情報交換のため無線通信をしていた。

世界時9時52分ごろ、781便のアラン・ギブソン機長(当時31歳)のメッセージが、”George How Jig, did you get my…”(531便、そちらに私の・・・)と言ったところで途切れてしまった。

この時781便は地中海のエルバ島上空26,500フィート (8,077 m) を巡航していたが、この瞬間にヨークピーターの前側胴体天井外壁に設置されていたADF(自動方向探知器)アンテナの穴のフレームから亀裂が爆発的に広がり、破壊が胴体後部、機首、主翼の順に起きたため、あっという間に空中分解してバラバラになった。
残骸が炎や煙に包まれて海上に落下していった。

この時、爆発を目撃したエルバ島の漁師たちが船で現場へ急行したが、生存者を見つけることはできなかった。

この事故で35名全員が死亡した(そのうち遺体が回収されたのは15名)。
この事故の犠牲者の中には、オーストラリア出身のBBCとABCの記者チェスター・ウィルモットも含まれていた。

現在、エルバ島には事故の犠牲者の慰霊塔が立てられている。

なお、この事故でコメットは一時的に飛行停止になったが、問題個所とされた部分を改修した後に飛行は再開された。
しかし再開直後の4月に同型のコメットが墜落する事故が発生し、耐空証明が取り消され、再び飛行停止措置が取られた。

コメット連続墜落事故
世界最初のジェット旅客機であるイギリスのデ・ハビランド社製「コメット」Mk.Iに連続して発生した、構造上の欠陥による航空事故(空中爆発)の総称である。

事故原因の調査過程で、最先端の航空機であったコメット機に内在した、当時の航空工学および金属工学の分野で未知の領域にあった重大な欠陥が解明された。

この事故を契機に、故障の拡大を食い止めるフェイルセーフ思想が発展普及し、その後の航空機の安全性を著しく向上させ、かつ航空事故の科学的検証手法の雛形が構築された。

航空分野に限らず、技術欠陥の防止や事故検証のあり方において、多くの貴重な教訓を残した重要な歴史的事件とされる。

デ・ハビランド コメット
デ・ハビランド コメットは、1944年にジェットエンジン搭載の小型郵便輸送機として開発計画が立案された。
実際の開発は1946年に着手、その過程で当初計画から大きく飛躍した全金属製の4発ジェット旅客機となり、試作初号機は1949年7月初飛行した。

デ・ハビランド「コメット」初飛行
デ・ハビランド「コメット」初飛行

量産型コメットは1951年1月から英国海外航空に順次納入開始され、運行実施のために長期の準備期間を採ったうえで、1952年5月2日史上初の実用ジェット旅客機として、英国海外航空のロンドン-ヨハネスブルグ便に就航した。

所要時間は従前のレシプロ旅客機に比較して半減され、ジェット旅客機の優位性を広く世に示した。

離着陸時の事故
世界初のジェット旅客機として就航したコメットは好調な営業成績を上げ、受注も本格化し始めた。

しかし、従来のプロペラ機から移行したばかりのパイロットは、後退翼ジェット機特有の挙動に対する知見不足が露呈し、離着陸時の事故も多発した。

1952年10月26日の雨の夕方、ロンドン発ヨハネスブルグ行の BOAC(英国海外航空) コメット9番機が、経由地のローマからカイロに向かう際、夜間雨のチャンピーノ空港を離陸滑走中に対気速度75-80ノット (kt) (139 – 148 km/h) の時点で首輪が上がり始めた。

その後112 kt (207 km/h) で機体の浮揚を感じ降着装置を格納しかけたが、実際には失速速度を超えておらず再接地したため、驚いた機長が離陸断念したものの止まり切れず、滑走路を逸脱し土盛り部分で停止した。

主翼から燃料が漏出したが、自動カットオフ装置と自動消火装置が正常に作動して発火には至らず、また胴体の損傷が殆どなく迅速に脱出できたため、乗員乗客43名中、軽傷者2名だけで済んだ。

性急な機首上げのために空気抵抗が増大し、最大荷重に近い状態では十分に加速できなかったことが事故原因として指摘された。
同機は就航後僅か26日で抹消処分になった。

1953年3月3日、カナダ太平洋航空 (CP Air) へ引き渡しで移動中の Mk.IA 2号機「エンプレス・オブ・ハワイ」 が、途中カンタス航空へのデモフライトでシドニーに向かうため、パキスタン・カラチのジンナー空港に給油で立ち寄った。

現地時間午前3時35分に、次の経由地のビルマのラングーン(現ミャンマーのヤンゴン)に向けて離陸滑走を開始したが、燃料を満載した過荷重状態にも関わらず機首上げを急いだために、エンジンへの空気流量が減少して出力低下したことも重なって、失速速度を超えられなかった

尾部バンパーの接地で過誤に気付いた機長は機首下げ操作を行い、速度は回復したが時既に遅く 2,400m の滑走路端で、その後僅かに浮上したものの、空港外にあった橋梁に主輪が引っ掛かり、川の土手に激突し爆発炎上した。
乗員5名と、同乗していたデ・ハビランド社の技術者6名全員が犠牲になった。
ジェット機に不慣れな機長が長距離飛行で疲労していたことも一因に挙げられたが、もう 1.5m 上昇していれば遭難は回避できたと見られた。
BOAC は代償として自社機 Mk.IA 1号機 G-ANAV を CP Air に譲渡した。

1953年6月25日、フランスのUTA航空の Mk.IA が、セネガルのダカール空港への着陸進入に失敗して滑走路を逸脱し、外溝に飛び込み車輪をもぎ取られた。
各安全装置が正常に作動したため乗員7名乗客10名は全員無事だったが、保険が下りたため事故機は現地で放棄された。
就航から7週間であった。

何れの事故も操縦ミスが事故原因とされたが、原理的に失速特性に難がある後退翼と、応答性が緩慢なエンジンアンダーパワーで加速力不足な機体特性地面効果 (ground effect) とが相俟って、離陸時の機首上げが早いと失速からオーバーランを招く傾向がコメットには強いことが改めて指摘された。

この難点は開発中から承知であり、試作機では離陸用に補助ロケットエンジンをテストしたこともあったが、出力向上型の軍用「ゴースト」の民生転用が許可されたため、量産機では採用されていなかった

デ・ハビランド社は主翼前縁を離陸時に失速しにくい形状に変更し、スラット(翼前縁に設ける引込式の揚力増大装置)を新設した。
この教訓から、後に開発されたジェット旅客機の殆どはスラットを標準装備するようになったが、高速化目的で敢えてスラットを除外したコンベア CV880は、初期型コメット同様の事故を反復し失敗作に終わっている

翼前部のフラップと後部のスラットで空気を捕まえています。
翼前部のフラップと後部のスラットで空気を捕まえています。

それまで単純なものでしかなかった失速速度も、積載重量と気象条件毎に細かく決められたことに伴い、離陸方法も改訂された。
定められた速度」(満載時 120 kt = 222 km/h)に達するまで前輪を接地させ続けなければならず、その間の機首上げ操作は禁止された。
このローテーション速度は、その後の総てのジェット旅客機では条件毎フライトマニュアルで細かく規定され、厳守が求められている。

またコメットに装着されていた、自機の姿勢を示す人工水平儀は、内蔵ジャイロの精度が従来の劣速なレシプロ機のそれから大きく進歩したものではなく、離陸に失敗した2機のコメットは、何れも夜間だったため地表の対象物が視認できず、機首上げ異常の認識が遅れたと指摘された。
そのため、その後の人工水平儀は問題を補えるよう精度向上が図られている。

前兆として

英国海外航空783便墜落事故
1953年5月2日、BOAC 783 便 Mk.I 8号機 G-ALYV はシンガポールからロンドンに向かう途中、経由地のインド・カルカッタ(現コルカタ)のダムダム空港から、次の経由地ニューデリー(現デリー)に向けて夕刻に離陸した。

6分後の通信を最後に、強い雷雲に突入して機体が空中分解し、カルカッタの北西約 38km の西ベンガル地方ジャガロゴリ近郊に墜落した。
機体は 20km 四方に散乱し、残骸の中には盗難に遭って回収できなかったものもあった。
乗員6名乗客37名全員が死亡したものと推定され、商用路線に就航中のジェット旅客機として初の有責死亡事故になった。

インド政府の事故調査では、事故機は高度 10,000 ft (= 3,000 m) から上昇中にダウンバースト(下向きの突風)に遭遇し、この時、高度を維持しようとしたパイロットの修正操作が過大であったため、昇降舵取付部と、主翼に想定を超える捻り応力が加わり、最初に水平尾翼(後縁が昇降舵)と外翼部が脱落し、主翼から激しく出火して、更に主翼の部品が垂直尾翼を直撃して破壊した、との推測が立てられた。

操作過大の誘因として油圧増力式の操縦桿が軽過ぎ、かつ反力が殆ど感じられないため、パイロットが従来の人力操舵機と同様の急操作を誤って行ってしまいやすいことが、パイロットの労働組合から指摘された。
それを抑止する人工感覚装置 (“Q-Feel” = artificial feeling device) の開発が急がれたが、実用化は Mk.3 以降になった。

しかし、事故機の機長は卓越した技量を持つベテランで、操縦過誤はあり得ない、という立場から、事故機は積乱雲の中で被雷し、燃料タンク内の気化した燃料が引火して空中爆発に至ったのでは、という異説を唱える専門家もあった。

結局原因は断定されなかったが、このように当時は悪天候説が有力で、コメットに内在していた構造上の欠陥にまでは衆目の考えが及ばなかった
しかし現在では、下記の連続空中分解事故の一環として捉える見方が一般的である。

連続事故がスキャンダラスに報道されたこともあって、「ジェット旅客機は時期尚早」という世論が再び高まったため、デ・ハビランド社は同年(1953年)のファーンボロー国際航空ショーにおける試作1号機の引退飛行で、観衆の頭上の超低空でアクロバティックなデモフライトを敢行して、悪評の打ち消しに躍起となった。

コメット連続墜落事故

英国海外航空781便墜落事故
1954年1月10日、BOAC のシンガポール発ロンドン行781便(初就航を担った Mk.I 1号機, G-ALYP, フォネティックコード:”ヨーク・ピーター” (York Peter))は、経由地のローマ・チャンピーノ空港を協定世界時(UTC) 9時34分(現地時間10時34分)に離陸した。

離陸から20分程しか経っていない9時52分 (UTC) 頃、781便の機長が”George How Jig, did you get my…”「ジョージ、そちらにこちらの…」と言い掛けたところで途切れ、破裂音が通信記録として録音された。

事故現場から北西20km先の地点でこの瞬間を目撃した漁民は、爆発音の後バラバラになった残骸が炎や煙に包まれて海上に落下していったと証言した。
乗員6名と乗客29名全員が即死(後述のように、7000m上空で機体が裂け、いきなり与圧がなくなり、肺や頭部に致命的ダメージが瞬時に加わったと思われる)したものと推測された。
海上から15名の遺体と衣服、郵便袋などの浮遊していた遺留品が回収された(余談だがこの時の搭載郵便物がクラッシュカバーとして何通か現存している)。

事故機の残骸は水深 150m の海底に沈んでいたが、原因究明のため通称「エルバ島作戦」とよばれる大規模なサルベージがイギリス海軍によって行われ、機体の 65% が回収された。
捜索を指揮したマウントバッテン元帥は、現場周辺の漁民を総動員して謝礼をアメリカドルで支払ったため、ちょっとした国際問題が生じた。

本件事故の発生を受けた BOAC はコメット全機の運航を停止し、東京、シンガポール、ヨハネスブルグに駐機していた3機を、郵便物以外空席のまま低空飛行でロンドンに呼び戻した。

当初テロも強く疑われたが、同時期に DC-6 の空中火災が連続発生していたこともあり、デ・ハビランド社は燃料系統と電気系の防護策を中心に60箇所を補強改修し、煙感知器を増設した他、BOAC 全保有機の精密検査を実施したものの、特に異常を発見できなかった。

そのため BOAC は操縦員の訓練飛行を再開し、3月12日からは改修済の Mk.I 7号機 を用いたテストの結果、約2か月後の3月23日には航空安全委員会から耐空証明が再発行されたが、真の原因が解明されぬまま、運航再開の3か月後、同じ地中海のイタリア沖で再び同様の事故が発生した。

南アフリカ航空201便墜落事故
1954年4月8日、BOAC から南アフリカ航空にリースされていた Mk.I 9号機(G-ALYY “ヨーク・ヨーク” )は、ロンドン発ローマ・カイロ経由ヨハネスブルグ行き南アフリカ航空201便として運用されていた。

201便は前日にローマから出発する予定であったが、出発前点検で翼上パネルのボルト30本に緩みが見つかり、更に燃料系統にもトラブルを生じたため、修繕作業で出発を見合わせていたのである。

定刻から25時間遅れの18時32分 (UTC)、201便はローマのチャンピーノ空港を離陸しカイロに向かった。

19時05分にカイロの航空管制塔に「カイロへの到着時間は21時02分」と報告したのが、201便の最期の通信になった。

G-ALYY はその直後の19時07分頃、ナポリ南東のストロンボリ島付近50km沖合のティレニア海上空高度 35,000 ft (10,700 m) を巡航中に空中爆発し、乗員(全て南アフリカ国籍)7名と乗客14名の21名全員が行方不明になった。
通信途絶直後より航空管制官が201便に何度も連絡を試みたが、無応答が続いたため遭難したと見做されたが、この時の無線通信を傍受していたドイツのラジオ局によって、事故の速報が世界中に伝えられた。

事故機の飛行時間は2,704時間で、1952年の製造から2年しか経過しておらず飛行回数も僅か900回程度であった。

翌日から BOAC のアンバサダー旅客機や、英海軍の空母イーグルと駆逐艦ダーリンなどの船舶、並びにアベンジャー哨戒機による捜索が行われたが、漂流中の幾許かの残骸と5名の遺体を収容しただけに終わった。
その後、犠牲者1名の遺体が海岸に漂着した。
また墜落現場の水深は1,000m近くもあり、当時の技術ではサルベージは断念された。

G-ALYPG-ALYY連続事故で、コメット自体に重大な問題があることは最早明白になった。

英政府は事故翌日の4月9日中にコメットの耐空証明を再び取り消した

世界中で運用されていたコメットは与圧システムを作動させずに再び本国へ召還回送され、二度と路線に復帰することはなかった

事故原因の調査

金属疲労
一連のコメット墜落事故は燃料の爆発やテロによるものではなく、針で刺された風船が破裂したのと同様の、与圧機体の内外気圧差による爆発的な空中分解が起きたことが基本原因である、と推測された。

しかし、英国海外航空781便の事故の際に、考えられる限りの対策を行なったにもかかわらず、南アフリカ航空201便で再度の空中分解に至った原因は不明のままだった。
そのため、一部には「事故は未確認飛行物体ないし未知の飛行生物に衝突したのだ」とする、突拍子もない主張すらあったという。

RAEでは、与圧客室の内圧による金属疲労による破壊の可能性を指摘していた。

与圧による荷重が、それまでのレシプロないしターボプロップ式与圧旅客機では、運用差圧は大きくても0.4気圧であったのに対し、コメットでは高空飛行を考慮して、0.58気圧と大きく設定されていたからである。

0.58気圧という差圧において、1平方メートルあたりの面積にかかる圧力は6トンにも及ぶ。
つまり、毎日運航される旅客機においては、1飛行ごとに6トンの圧力がかけられ、緩められることの繰り返しという状態になるのである。
また、飛行機の主要な構造材料であるアルミニウム合金は、自動車や船に多用される鉄鋼と比較すると、部品の取付孔などの切り欠きや作業時の傷などに敏感に反応し、疲労強度が低下するという欠点がある。

もちろん、コメットの設計者がその点を見落としていたわけではない。

0.58気圧という運用差圧に対し、安全率として1.5倍、金属疲労を考慮した割増係数1.33をかけた1.995倍の安全率、即ち2倍程度の安全率で設計していた

現実に、機首部分を使用して強度試験を行なった際には、特に有害な変形を生じることはなく、試験の結果からは、飛行ごとに金属疲労が繰り返されたとしても、5万4000回までは耐えられるものと推定していた。
この数値は通常の2倍の圧力をかけた耐久試験で、およそ1万8000回で亀裂が出来たことを根拠にしていた。

これに対して、英国海外航空781便に使用されていた機体(機体記号G-ALYP)は1290回南アフリカ航空201便に使用されていた機体(機体記号G-ALYY)に至っては、わずか900回しか飛行していなかった。

このため、RAEの技術者らが金属疲労による破壊を力説しても、やや説得力に欠けていた。

原因不明」のままでは推論も机上の空論でしかありえない。

そこでRAEでは、コメット1機が完全に入るような水槽を作り、英国海外航空で運用されていた実機を廃用した疲労試験を行うことになった。

現在でこそ常識となっているこの疲労試験であるが、当時としては前例のない大規模な試験であった。

疲労試験
1954年4月、ファーンボロのRAE構内にコメットの機体が収まる巨大な水槽(幅7メートル・長さ34メートル・深さ5メートル)の建設が始まり、5月29日に完成した。

6月初めから、事故機と同型であるコメットの実機(機体番号G-ALYU)を、エンジンと内装を全て取り外し、両翼を突き出す形でその水槽に沈め、加圧試験が開始された。

この水槽は発想からわずか3週間で設置されたもので、従来行われていた圧搾空気による加圧試験よりも安全であり、かつ効率がよかったという。

水槽内・機内にも水を満たし、水を増減して加圧・減圧することで、1回の飛行で加わる荷重を再現することになった。

疲労寿命荷重の大きさと回数で決まり、荷重がかかる速度には影響しないため、試験設備では3時間の飛行に相当する荷重を、10分(水を5分おきに増減)で再現可能なように設計されたが、それでも1日150回程度の再現が限界であった。

また当時はこの種の再現試験を自動的に制御・記録するコンピュータの類が存在せず、監視係や作業員を交代しながら、24時間毎日連続して試験が続けられた。

最長で5ヶ月かかる見込みだったが、試験開始後2週間半が経過した1954年6月24日1830回目の加圧において、G-ALYUの機体客室窓の隅から亀裂が発生した。
この亀裂は、急速に前後方向に進み、前後のフレーム(構造部材)に達すると、今度は上下方向、即ち、機体を輪切りにする方向へと進んでいった。

機体番号G-ALYUは試験前に1230回の飛行を行なっていたため、累計で3060回の飛行回数の後に致命的な亀裂が発生したことになるが、これは5万4000回までは耐えられるという予測とは大きくかけ離れた、短い疲労寿命であった。

これほどまでに短い寿命であれば、南アフリカ航空201便(機体記号G-ALYY)が飛行回数900回で空中分解しても、もはや誤差の範疇であり、不思議ではないといえる。

試験開始前、メーカーの設計者や技術者は、この試験によってコメットの安全性が改めて証明されるとさえ考えていた。

しかし、実験結果は開発時点の試験と大きくかけ離れたコメットの金属疲労の速さを明らかにしてしまった。

しかも8月12日に回収された、機体記号G-ALYPの残骸のうち、胴体天井にあったADFアンテナ取り付けのための開口部の隅の亀裂(クラック)に、実際に疲労破壊の痕跡が発見されたことで、事故原因はやはり金属疲労による破壊の可能性が非常に高くなり、楽観的な事前予測は完全に打ち砕かれた。

なお、インドで空中分解した英国海外航空783便(G-ALYV)のコメット機についても金属疲労によって墜落したとの指摘があり、一連のコメット機の構造欠陥による墜落事故は「3回であった」とする場合もある。

しかしながら、金属疲労の可能性で事故調査が行われなかったことや、悪天候と機体欠陥が複合した可能性もあるため、推測の域を出ることは無かった。
このことから、以後の航空事故の調査ではあらゆる可能性も検討されるようになった。

1954年10月に2件のコメット墜落事故の法的審問が開始され、1955年2月に事故は機体欠陥による金属疲労が原因とする事故調査報告が発表された。

ここにコメット1は、欠陥機であったと宣告されたのである。

全てのコメット1は永久飛行停止を宣言され、英国海外航空で運用されていたコメット1は各種の試験が行われた後に廃棄処分になった。
また、フランスで運用されていたコメット1も、パリのル・ブルジェ空港に集められた上で1960年代ごろに解体された。

結果として、地上における胴体の内圧疲労試験によって計算された疲労寿命は、試験中に行われる耐圧試験の効果で極めて長くなり、実機の疲労寿命を安全側に予測できていない(むしろ疲労寿命に至る期間の過大評価に繋がってしまった)ことが明らかになった。

コメット以後の航空機開発では、デ・ハビランド社のような部分構造ではなく、完全な機体を2機製作した上で、1機は静強度試験に供し、もう1機は与圧の繰返しを含めた耐久性評価試験に供して、破壊強度特性を評価することとなった。
この手法はボーイング社のボーイング707や日本のYS-11など、後続の与圧構造を用いる多くの航空機開発において採用されている。

金属素材の盲点
航空機の材料としてアルミニウム合金が使用されるようになったのは、1920年代からと早かったが、当時の航空機は鋼管などでフレームを構築し、その外部に木材や防水布を張る原始的構造が普通であったため、アルミ合金採用は強度計算の容易な金属製骨材や外装部材への部分採用に留まっていた。

胴体や翼の金属製外皮全体に応力を分担させる、機体全体を一体の強度構造とした、近代的な全金属製モノコック構造を採用した航空機が広まったのは、1930年代前期頃からであった。

図3がモノコック構造、図4がセミモノコック構造
図3がモノコック構造、図4がセミモノコック構造

モノコック構造(図3)は以後数年のうちに航空機の機体構造における標準技術となったが、まもなく世界は第二次世界大戦に突入し、航空機は消耗品として扱われるようになっていったため、長期的な金属疲労に関する技術の進歩は望めなかった。

しかし、金属疲労は磨耗、腐食と並んで金属素材の最大の欠点であるため、長期使用においては避けて通れない問題であった。

民間輸送機で旅客の居住性を改善する機内与圧については、既に1930年代末期のボーイング307型旅客機が実用水準に達していたが、当時のレシプロ旅客機の巡航高度4,000m程度であり、与圧しても機外との大気差圧は大きくなかった

コメット同様の高高度飛行に対応した与圧については、戦略的な見地から第二次大戦中のB-29 爆撃機によって実現されていたが、それらは機体構造に精通した乗員のみを搭乗させて戦闘行為に当たる軍用機で、与圧による大気圧差もさほど高くはなかった。

また爆撃機の乗員は大型でも10名足らずで、必要な与圧部分は機首操縦室や機体後尾等の搭乗位置のみに限られ、機体の大部分を占めて主翼にも接続する爆弾倉部分の胴体は、通常、与圧なしで内外気圧差はない。
従って爆撃機の場合も、与圧による機体への負担は、胴体のほぼ全体を与圧する民間輸送機のコメットほどは大きくなかった

しかも爆撃機は、機体構造に欠陥があって墜落したとしても、戦時には戦闘による喪失と欠陥を区別することは難しかった。

そして平時にはその運用性質上、同じ機体が毎日のように飛行するわけでもなく、地上待機時間が長くなるため、滞空時間・飛行回数によるトラブルはそれだけ生じにくくなった。

そのため、コメットのように、高度の昇降に伴う機体全体への与圧と減圧が毎日のように反復される旅客機には、設計者の想定以上に金属材料への応力がかかっていた
結果として、設計強度が不足する事になり、金属疲労による悲劇的な最期の運命を図らずも与えていたといえる。

対策
対策として、航空機の耐疲労設計疲労強度確認試験が大きく見直されることとなった。

この見直しの中で、フェイルセーフという当時としては画期的な設計思想が生み出された。
即ち、一部の部材が破壊されても、残りの部材によって飛行を続け、着陸まで飛行を続けられるような設計である。

この概念は、近年では損傷許容設計という概念へ発展している。

コメットの場合は客室窓などの開口部に角(かど)があり、その箇所に応力が集中するために亀裂を発生しやすいという結果も出ていた。
このような開口部はDC-3などのレシプロ機に多く、展望性が良いことから広く用いられていたが、これらの機体では非与圧のため問題は起きなかったに過ぎなかった。

このため、コメット以後に開発された航空機においては、開口部に角を付ける事が絶対の禁忌とされるようになった。

現在、高空を飛行するほとんどの飛行機の窓の隅が丸くなっているのは、これが理由である。

金属疲労の制御は可能であるが、金属素材にある不純物や、衝撃によって生じるクラックの根絶は不可能である。

そのため目視や超音波によるメンテナンス(探傷検査。非破壊検査)を行うこととした。また致命的な破壊を招く恐れがある場合には部材そのものの交換も実施されるようになった。

これらの対策は、コメットだけにとどまらず、その後の航空の安全に大きく寄与することとなった。

そのため、コメットの一連の事故は旅客機の安全性を向上させたといえる。

 

豆知識
日本航空も1952年10月にコメット2を2機(43号機と44号機)購入する契約をしたが、1955年7月に上記の事故のために早期の入手が不可能になったため契約解除している。日本の航空会社でイギリス製ジェット旅客機を購入しようとしたはじめての契約であったが、その後イギリス製のジェット旅客機を日本の航空会社が運行したことはない

英国海外航空はコメット4を19機購入したが、コメットの信頼性が低下し乗客離れが起きていた上、より大型で高速の航空機を導入する必要があったため、ボーイング707-420(ロールスロイス「コンウェイ」ターボファンエンジン装着)を15機購入した。
しかし、イギリスの国産機であるコメットの敗北が我慢ならなかったためか、広告上では「ロールスロイス707」と一時期称していた。

英国海外航空のコメットには愛称は付けられていなかったが、機体記号末尾2文字を当時のフォネティックコードで呼ばれていた。
エルバ島沖に墜落したG-ALYPはYPで「ヨーク・ピーター」、ストロンボリ沖で墜落したG-ALYYは「ヨーク・ヨーク」、そして水槽に入れられ一生を終えたG-ALYUは「ヨーク・アンクル」と呼ばれており、コメット事故の記事で用いられている。

コメットの連続事故に先立つ存在として、第一線の航空機設計者から小説家に転身したイギリスのネビル・シュートが著したベストセラー小説に、コメット事故によく似た経過をたどる『ノーハイウェー』(1948年発表)があった。
これはイギリス製のレインディアー機(架空機)が水平尾翼の振動からの金属疲労によって、飛行時間1393時間で墜落する物語であり、1951年に『ノーハイウェー・イン・ザ・スカイ』(ヘンリー・コスター監督、ジェームズ・スチュアート主演。日本未公開)のタイトルで映画化された。
空中分解説を実証するために実験装置を作るなど後に行われた事故調査を彷彿とさせる描写があるという。

抜粋
http://ul.lc/5aa2(wikipedia)
http://ul.lc/5aa4(wikipedia)より
航空機関連【電子書籍】
航空機関連【普通書籍】
航空機関連【趣味】

歴史的な事件カテゴリの最新記事

Verified by MonsterInsights