本能寺の変
(ほんのうじのへん)
1582年6月21日(天正10年6月2日)
織田信長の家臣明智光秀が謀反を起こし、
京都・本能寺に宿泊していた主君信長と後継者の信忠を襲い
自殺させたクーデターのことである。
暗殺事件との解釈もなされる。
光秀が反旗を翻した原因については定かではなく、
多くの歴史家が研究しているが、
現在でも定説と呼ばれるものは確立されていない。
光秀の恨みや野望に端を発するという説、光秀以外の首謀者(黒幕)がいたとする説も多数あり、日本史上の大きな謎の1つである。
本能寺の変ほど歴史的に謎の多い事件も…。
結構あるかw
しかし、謎深い歴史事件の中では10本の指に入るに違いないと思っている。
一部では下記説の他にも信長は本能寺で自害してはいなかったのではないかという説や、光秀についても小栗栖で死なずに南光坊天海になったという説もあるくらい主要人物2人については謎が多い。
その諸説ある謎について紹介していきたいと思います。
その上で書籍などを読めば、更におもしろい!
これ以上、絵は敢えて入れませんので、自らの空想で楽しんでいただけると幸いです。
野望説
戦国史の権威であった高柳光壽が主張した、「天下が欲しかった光秀の単独犯行」とする説。
怨恨説がいずれも後年の創作に依拠したものとし、史実とは認められないとしたもの。
フロイス『日本史』の記述などから、武将として合理的な性格の光秀と信長との相性も良かったはずだと主張した。
現在、藤本正行、鈴木眞哉らがその主な後継論者となっている。
怨恨説
ドラマや映画などではこの説が強調されている場合が多い。
一般に知られる怨恨の原因は以下のようなものである。
『川角太閤記』には、光秀が小早川隆景に宛てた書状として
「光秀ことも、近年信長に対し憤りを抱き、遺恨もだしがたい」
ために信長を討ったという記述が見られる。
また個別の事例は江戸時代以降に創作された講談や俗書によるところが多く、明確な史料に残る怨恨の事例は少ない。
桑田忠親は、フロイスの『日本史』にある
「変の数ヶ月前に光秀が何か言うと信長が大きな声を上げて、光秀はすぐ部屋を出て帰る、という諍いがあった」
という記述を根拠として、武士の面目を立てるためであったとする新たな怨恨説を唱えた。
四国「征伐」回避説
四国では、土佐国の長宗我部元親が明智家臣・斎藤利三と姻戚関係を結び、光秀を通じた信長との友好関係の下で統一を進めていた。
一方、敗走した阿波国の三好康長は秀吉と結び、旧領の回復を目指した。
長宗我部氏による四国統一を良しとしない信長は、天正10年2月に元親へ土佐国・阿波国2郡のみの領有と上洛を命じた。
元親が拒否したため、神戸信孝を総大将として四国攻めを開始した。
まず、康長が先鋒として四国に入り、6月2日には信孝、丹羽長秀らによる本隊が大坂より出陣する予定であった。
また、三好康長は本能寺の変以前に秀吉の甥の信吉(後の豊臣秀次)と養子縁組を結んで秀吉と三好水軍を連携させたことによって秀吉・光秀間に政治的対立が生じたこと、光秀が長宗我部氏からの軍事支援を期待して本来であれば徳川家康が堺から帰洛後に行う筈であった襲撃を繰り上げたとしている。
ノイローゼ説
ストレスなどから発症する自律神経失調症などで精神的に追い詰められて、冷静な判断が出来ず謀反を起こしたとされる説。
動機は憎悪説、野望説、黒幕説、などの全ての説が背景の候補に挙がる。
古くは司馬遼太郎が考えていた。
「『国盗り物語』では野心があったように書きましたが、光秀はノイローゼだったのではないかと思っているのです。ですがノイローゼでは小説になりませんので」
という旨の発言をし、司馬自身、光秀が恐怖心が昂じて神経症になった末に発作的に行動した、と思っていたようである。
焦慮説
光秀は織田氏譜代の家臣ではない新参者であり、信長に仕えた期間も十数年ときわめて短期間であるにもかかわらず、家臣団の中で有数の重臣となった。
これは光秀が有能であったこともあるが、信長個人の信任があってこそのことが大きい。
2年前の1580年(天正8年)には、佐久間信盛(折檻状によると発奮も促している)・林秀貞・安藤守就・丹羽氏勝といった家臣が追放されている。
このため信長の信任が揺らいだと考えた光秀が将来を悲観し、保身のために謀叛を考えるようになったという説がある。
また、この説は怨恨説や野望説などの背景としても用いられる。
谷口克広氏は当代記にある光秀の年齢が67歳ときわめて高齢であったことを指摘し、反面、嫡子の明智光慶が10歳代前半ときわめて若年であったため、自らの死後光慶が登用されないことを憂いて謀叛を決意したという説を立てている。
理想相違説
信長、光秀、それぞれの思い描いた理想が相違したという説。
信長は、伝統的な権威や秩序を否定し、犠牲もいとわない手法で天下統一を目指し急進的な改革を進めようとした。
信長は日本六十六カ国の絶対君主となった暁には大艦隊を編成して海外へ進出するつもりであった。
光秀は、衰えた室町幕府を再興し、混乱や犠牲を避けながら安定した世の中に戻そうとした。
光秀は、信長の命とともにその将来構想(独裁者の暴走)をも永遠に断ち切った。
しかし、光秀も自らの手でその理想を実現することは叶わなかった。
ところが、後の江戸幕府による封建秩序に貫かれた安定した社会は270年の長きに渡って続いた。
結果論だが光秀が室町幕府再興を通じて思い描いた理想は、江戸幕府によって実現された。
ここからは黒幕説について
信長を討つことについて、光秀自身の動機ではなく、何らかの黒幕の存在を想定し、その者の意向を背景にあることを指摘する説としては、以下のようなものがある。
足利義昭説
自分を備後国に追放した信長に恨みを抱く足利義昭が、その権力を奪い返すために旧家臣である光秀に命じたとする説。
三重大学教授の藤田達生が中心となって主張している。
また、桑田忠親もその可能性を指摘している。
日ごとに権力を増す信長に脅威を抱いた朝廷は、信長の朝廷に対する忠誠心を計るため、天正10年(1582年)に
「いか様の官にも任ぜられ」
(どのような官位も望みのままに与える)
と記された誠仁親王の親書(誠仁親王御消息)を送る。
しかし信長は、親書を届けた勅使に明確な返答をしないまま返す。
信長が朝廷に征夷大将軍の任を求めることを恐れた足利義昭は、かつての家臣・光秀に信長暗殺を持ちかける。
信長によって閑職へ追いやられた光秀はこの申し出を受け、信長の天皇謁見を妨害するため本能寺の変を計画したとされる。
朝廷説
「三職推任問題」での信長の対応をみて、朝廷側が、信長は朝廷を滅ぼす意思を持っているのではないかと考え、信長を殺そうとしたという説。
三職推任問題とは
(さんしょくすいにん、さんしきすいにん)
天正10年(1582年)4月25日、5月4日両日付けの勧修寺晴豊の日記『晴豊公記』(天正十年夏記)の記事の解釈を巡る問題と、その論を立脚点とした織田政権の将来構想や本能寺の変の背景に対する考察を含む、日本の歴史学上の論争。
信長が入洛した時、右大臣右大将を朝廷に対してすでに返上しており、天下統一事業達成の可能性が高まる実力者が無位無官のまま軽装備で洛中にいたことになる。
朝廷にはそのため、無言の圧力を非常に大きく感じたはずである。
「馬揃え」をして中国遠征軍が進発すれば、毛利家の大きな後ろ盾のおかげで即位できた正親町天皇の面目は丸つぶれになる。
また、信長は正親町天皇にすでに退位を迫っており朝廷への大きな圧力となっていた。
毛利家が滅べば、その後ろ盾により即位した正親町天皇は譲位せざるをえない状況に陥る。
高松城を包囲する秀吉は毛利との間に講和を工作していたが、信長にはその気はなく毛利家を滅ぼす計画であった。
誠仁親王を即位させ信長は朝廷を傀儡化することも可能となるのである。
さらに信長は、正親町天皇と誠仁親王の争いに巻き込まれたくないと考え、三職推任を一時棚上げしていた可能性がある。
右大臣右大将を辞めたのも信長自身が朝廷の内紛に不介入の立場をつらぬいたとする見方がある。
朝廷黒幕説には、中心となる黒幕として、正親町天皇・誠仁親王、あるいは近衛前久等の公家衆を主体とみるかについて意見が分かれる。
イエズス会説
立花京子が提唱した、イエズス会が日本の政権交代をもくろんだとする説。
ここでは
「信長政権が南欧勢力の傀儡に過ぎなかった」
とされている。
更に大友宗麟はイエズス会と信長とを繋ぐ舞台廻しであったとされ、イエズス会の最終目的は明帝国の武力征服であり、変は信長から秀吉に首をすげかえる為のものに過ぎなかったとしている。
しかし反論として、
「信長はイエズス会から資金提供を受けていた」
「当時のイエズス会の定収入は年2万クルザード程度であり、しかもその半分以上はインドに送金され、会を維持運営するのにも事欠く有様であった」
などが挙げられている。
この他、信用に欠ける『明智軍記』などを検証無く多数引用するなどの問題点があり、これらで批判されている。
現在では提唱した立花本人もこの説を否定している。
羽柴秀吉説
信長の死の報をいち早く入手し、備中高松城への水攻めにより殆ど戦力を失っていなかった事から事前に変を知っていたとする。
また秀吉にとって都合の良い状況で光秀と戦って勝利を収め、また本能寺の変をきっかけに秀吉が天下人となり、結果的に一番利益を得ていることから。
物証に欠くため学説としては定着しているとは言いがたいが、
「もっとも利益をえた者を疑え」
という推理のセオリーにより、フィクション等で採用される事が多い。
徳川家康説
徳川家康説は、状況証拠が多いという程度に留まるが、天海僧正(南光坊)=光秀説により、 興味をひかれる内容となっている。
首謀というより、変に賛同、支援ないし、事後に僧侶として生存していた光秀を匿ったというもの。
これも歴史小説ではよく触れられる。
また家康が何らかの形で信長による自身の暗殺計画を知り逆に計略を立て光秀を利用し信長を暗殺したという説もある。
変の直前の天正10年5月15日
家康が戦勝祝賀のために武田の降将の穴山信君(梅雪)の随伴で信長を安土城に訪ねた際、当初、光秀が饗応役となった。
ここで信長が怒り狂った饗応の不手際とは、『太閤記』にあるような「魚が腐っていた」といったような表の理由ではなく、実は、信長が饗応の機会を捉えて家康を暗殺するよう光秀に指示したがこれを光秀が拒んだのが真因だと解釈する等、信長に家康暗殺の意図があったことを推定する説もある。
裏づけとする史書の記述として、フロイスの「日本史」が続いて、光秀の京都への反転に際して
「兵士たちはかような(本能寺を攻める)動きがいったい何のためであるか訝り始め、おそらく明智は信長の命に基づいて、その義弟である三河の国主(家康)を殺すつもりであろうと考えた。」
という部分。
また、江村宗具の「老人雑話」の、
「明智の乱(本能寺の変)のとき、東照宮(家康)は堺におわしました。信長は羽柴藤五郎に仰せつけられて、家康に大坂堺を見せよとつかわされたのだが、実のところは隙をみて家康を害する謀であった」
とある部分が著名である。
その他挙げれば切りのないほど陰謀説はたくさん出てきます。
また、21世紀になってからとなえられ始めた説やい陰謀否定説などもある。
その他色々な説があるので興味のある人は調べてみると歴史がもっと楽しくなると思います!
+(0゚・∀・) + ワクテカ +
抜粋:http://tiny.cc/x43lzx(wikipedia)より
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