【今日の歴史】1981年10月10日の事

【今日の歴史】1981年10月10日の事
オレたちひょうきん族
オレたちひょうきん族

『オレたちひょうきん族』レギュラー放送開始

『オレたちひょうきん族』レギュラー放送開始。 『オレたちひょうきん族』は、フジテレビ系列で毎週土曜日20:00 – 20:54(JST)に放送されていたお笑いバラエティ番組である。
通称「ひょうきん族」「ひょうきん」。
1981年5月16日から8月29日まで『決定!土曜特集』枠で放送されたパイロット版。
同年10月10日から『決定!土曜特集』の枠を取ってレギュラー放送された。
2009年10月からフジテレビONEで全放送分が放送された。

概要
1981年5月16日に『決定!土曜特集・オレたちひょうきん族』のタイトルで、ナイター中継中止時の雨傘番組として放送され、同年10月10日より『決定!土曜特集』の冠を取ってレギュラー放送となった。
そのため、土曜日にプロ野球中継(ヤクルトや大洋、中日主催の巨人戦)がある時はしばしば番組が返上された。

当時は製作局のフジテレビが視聴率ノルマを廃し、制作者が作りたいものを作る路線に転じ「楽しくなければテレビじゃない」をキャッチフレーズにしていた頃で、作り手側の制作意欲の向上と、出演者である若手芸人の漫才ブームによる勢いとが相まったバラエティ番組である。
開始当時の裏番組には、『8時だョ!全員集合』が放送されており、初回視聴率は9.5%(関東地区)であったが、『欽ドン!』以降低迷状態が続いていたフジテレビの土曜20時台を見事に立て直し、1980年代バラエティのリーダー格番組にまでなった。8年半の平均視聴率は、17.8%(ビデオリサーチ、関東地区)。

また、吉本興業に代表される関西系事務所と渡辺プロ・太田プロに代表される関東系事務所のタレントが通常番組で共演するということは当時としては非常に画期的であり、その後の吉本興業の東京進出(正確には再進出)へと繋がるきっかけを作った。

初めはお笑い番組らしく漫才コーナーもあったが、「つまらない」「人気が出ない」と見るやすぐに企画をやめ、新企画を練っていた。
また、初期においてはスタジオに一般視聴者を入れてのコーナーもあったが、その後は客は入れず、ギャグごとに笑い声が被さる演出(録音笑い。ラフトラックとも。外国のシチュエーション・コメディでよく見られる、いわゆる声のエキストラ)がなされた。

オープニングに流れる曲は、ロッシーニ作曲の『歌劇「ウィリアム・テル」序曲第4部「スイス軍隊の行進(終曲)」』。これは『スネークマンショー』のオープニングをパロディにしたことによるもので、放送当初は『スネークマンショー』と同じ伊武雅刀がナレーションを行っていた。

OP映像は、初期は単純な合成映像が使われたが、1983年4月から使われた東洋現像所ビデオセンター制作によるオープニングでは、当時としては珍しい最先端のCG映像を使用している。

OPナレーションは千葉繁が担当したが、池田秀一と古谷徹などがゲストで担当したこともある。

エンディングはEPOの『DOWN TOWN』。EPOは番組初期のアイキャッチ(“♪チャンネル〜はそのまま”など)も担当していた。

番組のBGMには、『バビル2世』、『勇者ライディーン』、『超電磁ロボ コン・バトラーV』、『機動戦士ガンダム』、『うる星やつら』、『超時空要塞マクロス』、『宇宙刑事ギャバン』、『魔法のプリンセス ミンキーモモ』、『 スパイダーマン』、『大鉄人17』などのサウンドトラックがよく用いられていた。

スタジオ以外でのロケーションによる撮影は、当時フジテレビの本社があった新宿区河田町やフジテレビ通り(現・あけぼのばし通り商店街。曙橋駅近く)一帯で行われたのが殆どだったが、北海道や軽井沢などでも行ったことがある。

2003年 – 2004年には計5巻のDVD-BOX(それぞれ3枚組)が発売されている。

また、放送ライブラリーでは、1983年11月12日放送分と1989年10月14日放送の最終回スペシャル「TAKECHANマン忠臣蔵」を閲覧することができる。

2008年の『FNSの日』は『FNS27時間テレビ!! みんな笑顔のひょうきん夢列島!!』と題し、当番組をベースに7月26日から7月27日にかけて放送された。
これは、当番組2代目プロデューサーの三宅恵介が定年を迎えるにあたり「もう一度ひょうきん族をやりたい」と、メインキャストのビートたけしと明石家さんまに声をかけたことから実現したもので、さんまが総合司会、たけしが中継先からではあるが19年ぶりの出演となった。
たけし・さんまの他にも、島田紳助、山田邦子、片岡鶴太郎、ラサール石井、渡辺正行、ジミー大西ら本番組のメンバーも総出演。
オープニングの曲も本番組と同じ『ウィリアム・テル序曲』、『懺悔室』のコーナーでエンディングを迎えるなど、本番組のテイストがふんだんに盛り込まれた内容となった。

CSでの再放送時に関して
1998年にフジテレビCS放送が開始されてから絶え間なく放送、2009年8月8日にCSにおいて2度目の最終回を迎え翌週8月15日から3度目の放送を開始した。

2011年8月23日の島田紳助の芸能界引退で紳助出演番組の2次利用が使用不可能になったことを受け、ひょうきん族のほぼ全ての回に紳助が出演していたことから、CSの放送は打ち切られ、CSのホームページも閉鎖された。
その前にも、紳助が不祥事を起こしてタレント活動を自粛した期間は、放送を一時中断していた。

CS放送中、権利上や諸事情により放送されない場合があった。

また放送はするものの、コーナーそのものがカットされたり、ひょうきんベストテンの10位から4位の発表時にボカシが入ったり、映像が静止画に差し替えられたことも少なくなかった。
レギュラー第1回放送分も、何らかのコーナーが10分程度カットされている。
再放送がカットされたケースは現在のところ以下の通りである。

1982年9月4日のTBSドラマ『ピンキーパンチ大逆転』との連動企画を行った回
サザンオールスターズの出演した回
オフコースの出演した回
シブがき隊、少年隊などのジャニーズ事務所所属タレントの出演した回(過去に在籍した人も含む) 同事務所は、基本的にCSにおける過去番組放送を許可していないが、TBSチャンネル[8]やファミリー劇場ではドラマを中心に再放送されるケースもある。また、地上波番組宣伝は放送される。
バーニングプロダクション所属タレントの出演した回(過去に在籍した人も含む) 内藤やす子が出演した回はDVDには収録されている。
キヨちゃんマン(タケちゃんマンの脇役キャラクター)の登場する回
田代まさしの出演した回 再放送時に不祥事が報道され、放送を控えていたが、2010年に田代が再び不祥事を起こしたために放送自粛となった。
1985年3月30日放送分の山村美智子が番組を卒業した回
ナンデスカマンロボの登場する回
ビートたけしが収録をサボタージュした回

ちなみに、ひょうきんスペシャルの回はレギュラーと分けて放送。
1982年12月25日のブラックデビル最終回もこの類に入る。
2002年の秋までスペシャルを放送。
2003年の元日にスペシャルのみを集中放送した。しかし、2006年から1985年12月放送以降のスペシャル版も通常の枠と一括され放送されるようになった。また、1981年5月16日 – 9月26日の単発枠時代に放送した回は、2009年フジテレビONEで「パイロット版」として放送した。
2009年8月15日から、不定期で三宅と番組出演者、川端健嗣のトーク番組『ひょうきん族話の泉』が放送された。

番組終了とその後
末期の1988年頃には視聴率が一桁台になることが多くなっていった。

この頃には同番組の顔であるたけしが事件を起こした以降、ほとんど出演しなくなっており、「タケちゃんマン」の代わりに「かまへんライダー」を入れる、「ひょうきんベストテン」を終わる、『全員集合』に似た形式の公開収録をたびたび行なうといったテコ入れを施すも、結局視聴率を回復させるには至らず、1989年8月、ついに同番組の打ち切りを発表した。

その頃の出演者の状況として、楽屋においてたけし、さんまら一部を除く多くの出演者が「(副業による)金儲けの話しかしなくなっていた」とさんまが語っており、そんな状況に嫌気が差していたたけしの「もう(番組を)終わりにしたい」という旨の発言を受けて終了になった、とも後年さんまは語っている。
ちなみに『さんまのまんま』にたけしがゲスト出演した際に、たけしが「なんでアレ(ひょうきん族)終わっちゃったの?予算が無くなったから??」とさんまに問うたところ「アンタが終わりにしたいと言うたからやないか!!」と突っ込まれていた。

1989年10月14日に最終回を迎え、1981年5月16日の単発放送時オープニングで、出演者たちがディナー・コントをする場面を、1989年10月14日時点の出演者で再現。
放送開始時ディナーの最後にビートたけしが「オレたち!」と叫んだ後、他の出演者全員で「ひょうきん族!!」と叫んで番組が始まったのを、最終回エンディングでも再現し、ディナーの最後にビートたけしが「オレたち!」と叫んだ後、他の出演者全員で「ひょうきん族!!」と叫んだ後、ビートたけしが続けて「おしまい!」間をおいて「さあ帰りましょう!」の言葉で締められた後、最終回エンディング曲が始まり、出演者・番組スタッフの拍手歓喜の中、エンドロールが流れ始め、ディナーテーブルのセットがあるスタジオから、次々に出演者・番組スタッフが去り、照明が次々に落とされる中、ディナーテーブルだけが照らされ、最後は「長いあいだ本当にありがとうございました」のテロップで締められ、8年間の歴史に幕を閉じた。

ちなみに、単発放送時でのこのコントのBGMはアントニオ・ヴィヴァルディ「四季」の「春」で、最終回には同曲の「秋」を入れたが、殆ど誰も気づいてくれなかったと『ひょうきん族話の泉』で三宅ディレクターが明かしている。
なお、最終回エンディング曲は、EPOの「DOWN TOWN」(ニューレコーディングバージョン)だった。

豆知識
この当番組が放送されていた土曜20時台で放送中の『めちゃ2イケてるッ!』総監督を務める片岡飛鳥は、『ひょうきん族』にADとして参加していた。

初回の土曜特集特番のみ、レギュラー候補としてとんねるずが出演していた。
しかし、当時としては珍しい師匠の居ないコンビであったこと、芸風が独特ゆえに他のタレントに受け入れられなかったこと、さらに当時の所属事務所がライバル局である日本テレビ系専属タレントとして売り出していた等の理由からレギュラー入りは見送られた。

1985年8月12日は当番組の収録が予定時刻より早く終了し、明石家さんまは当日予約していた日本航空123便をキャンセルして全日空の早い便に切り替えて大阪へ向かったため日本航空123便墜落事故の難を逃れる事ができた。
さんまは月曜日の大阪移動で日本航空の同便を定期利用していたため大きなショックを受け、以後は東京・大阪の往復は東海道新幹線を利用するようになった。

コントの中には、中京テレビのローカル番組『ジョークドキュメントBBS放送局』で使われたモノを手直ししてで使うことがあった。両番組に出演していたラサール石井によると、『ひょうきん族』の構成作家の中に『BBS放送局』の構成も手掛けていた作家がいたことから、コントのパイロット版として『BBS放送局』でやってみてうけたものを『ひょうきん族』で使うことがあったという。
また、ひょうきんベストテンでコント赤信号の扮したアイドルグループが中継で出演するという設定を、中京テレビ社屋前で収録して放送している。
ちなみに、当時の中京テレビは既に日本テレビの単独系列になっていた。

番組後期の裏番組であるTBS『加トちゃんケンちゃんごきげんテレビ』の放送期間中にメインである加藤茶と志村けんが『ひょうきん族』の収録現場に顔を出したことがある。

1989年3月には番組の途中で、映像が途切れる放送事故を起こした(地方のネット局は環境映像などで対応。フジテレビのみ黒画面のまま)。なかなか復旧しなかったのでリアルタイムで話題になり、レギュラー放送よりも、かなり視聴率が高かった。
さんまは後日の放送で「放送事故に負けた」と嘆いた。

2003年正月に放送された『さんまのまんま』(関西テレビ)にゲスト出演したビートたけしは、番組の中で「俺が60歳になったらもう1度(ひょうきん族を)やってもいいかな」と語っていた。
また、この番組の中で2人はお互いを「そんなに笑いを取れて羨ましい」(たけし)と「世界の北野と呼ばれていいわ。俺も何か残るもんが欲しい」(さんま)と嫉妬にも似た感情をもっており、今でもお互いが刺激しあう関係であることが吐露された。
現在でも2000年代には火曜20時台で互いの冠番組同士がしのぎを削り、後にたけしの思いは形を変えながらも、2008年に『FNS27時間テレビ!! みんな笑顔のひょうきん夢列島!!』として実現することとなった。

映画監督の森田芳光は、1985年に雑誌のインタビューで「今はコメディー映画を撮らない方がいい。いくら撮ってもひょうきん族を超えることはできない」と発言している。

映画監督のロバート・ゼメキスは、1988年の来日時にホテルで「日本にもヘンなテレビショーがあるじゃないか。
昨夜見た『ひょうきん族』ぼくは笑っちゃったよ」と発言している(『バック・トゥ・ザ・フューチャー2』パンフレットより)。

さんまは、番組出演当時のギャラはまだ東京に出たばかりで無名のバーター出演分のギャラしかもらっておらず、吉本所属の出演者の中でも一番下だった。
ブレイク後、ギャラの額を聞いたビートたけしが不憫に思いスタッフに相談し「構成作家代」として別に頂いていたという。

抜粋:http://ul.lc/524j(wikipedia)より

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