明和の大火
明和9年2月29日(1772年4月1日)に江戸で発生した大火災である。
明暦の大火(過去記事参照)、文化の大火と共に江戸三大大火の一つといわれる。
目黒行人坂(現在の東京都目黒区下目黒一丁目付近)から出火したため、目黒行人坂大火とも呼ばれる。
また、明暦の大火(ふり袖火事)は世界三大大火の一つである。
出火原因
「明暦3年、明和9年、文化3年各出火記録控」によると、出火元は目黒の大円寺。
大円寺の境内には供養のために建立された石仏群が境内にたくさんあります。
その1つに「とろけ地蔵」と言われるお地蔵様があるのです。
とろけ地蔵とは?
江戸時代に品川沖で漁師の網にかかってから、安置されます。
明和の大火の高熱で焼かれ、今の姿になったそうです。
し
か
し
とろけ地蔵は悩み事をとろけさせ、解消してくれるありがたいお地蔵様といわれ、昔から庶民の信仰を集めています。
話が逸れましたがw
放火犯は武州熊谷無宿の真秀という坊主。
破門にになった逆恨みで犯行に及んだらしい。。
江戸八百八町のうち六百二十八町を焼き野原に。。。
火付盗賊改長官である長谷川宣雄の配下によって明和9年(1772年)4月頃に捕縛された。
同年6月21日(1772年7月21日)に市中引き回しの上、小塚原で火刑に処された。
長谷川宣雄って誰?
池波正太郎の小説『鬼平犯科帳』で有名な主人公「鬼平」長谷川平蔵(長谷川宣以)の父親だw
被害
2月29日(4月1日)13時頃に目黒の大円寺から出火した炎は南西からの風にあおられ、麻布、京橋、日本橋を襲い、江戸城下の武家屋敷を焼き尽くし、神田、千住方面まで燃え広がった。
一旦は小塚原付近で鎮火したものの、18時頃に本郷から再出火。
駒込、根岸を焼いた。
30日(4月2日)の昼頃には鎮火したかに見えた。
3月1日(4月3日)の10時頃馬喰町付近からまたもや再出火、東に燃え広がって日本橋地区は壊滅した。
類焼した町は934、大名屋敷は169、橋は170、寺は382を数えた。
山王神社、神田明神、湯島天神、東本願寺、湯島聖堂も被災した。
死者は1万4700人、行方不明者は4000人を超えた。
老中になったばかりの松平定信(第8代将軍・徳川吉宗の孫だね。寛政の改革をした人でも有名です。)の屋敷も類焼した。
ちなみに、文化の大火とは?
文化3年3月4日(1806年4月22日)に江戸で発生した大火。
明暦の大火、明和の大火と共に江戸三大大火の一つといわれる。
重要なので、二度目(`・д・´)キリッ
丙寅の年に出火したため、丙寅の大火とも呼ばれる。
通称:車町火事・牛町火事
出火原因
出火元は芝・車町(現在の港区高輪2丁目)の材木座付近としかわからない。
午前10時頃に発生した火は、薩摩藩上屋敷(現在の芝公園)・増上寺五重塔(落雷で焼失したり東京大空襲で焼失したり大変な塔。最後には再建されなかった。)を全焼。
折しも西南の強風にあおられて木挽町・数寄屋橋に飛び火し、そこから京橋・日本橋の殆どを焼失。
更に火勢は止むことなく、神田、浅草方面まで燃え広がった。
被害
翌5日の降雨によって鎮火したものの、延焼面積は下町を中心に530町に及び、焼失家屋は12万6000戸、死者は1200人を超えたと言われる。
このため町奉行所では、被災者のために江戸8か所に御救小屋を建て炊き出しを始め、11万人以上の被災者に御救米銭(支援金)を与えた。
この大火のため大相撲の文化3年2月場所は5日目で中断に追い込まれている。
抜粋
http://snipurl.com/29t9a9y(wikipedia)
http://snipurl.com/29t9cm5(wikipedia)より
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