【今日の歴史】1522年9月6日の事

【今日の歴史】1522年9月6日の事
人類史上初の世界一周
人類史上初の世界一周

人類史上初の世界一周を達成

フェルディナンド・マゼラン一行の5隻の船のうち唯一生き残ったビクトリア号がスペインのサンルカール・デ・バラメーダに帰還。

フェルディナンド・マゼラン
(1480年 – 1521年4月27日)
大航海時代のポルトガルの航海者、探検家であり、ポルトガル人であるマゼランが率いたスペインの艦隊が1522年に史上初の世界一周を成し遂げた。
ポルトガル語名(本名)はフェルナン・デ・マガリャンイス(Fernão de Magalhães)、スペイン語(カスティーリャ語)名はフェルナンド・デ・マガリャネス(Fernando de Magallanes, 名はエルナンドHernandoとも)。

スペイン語圏・ポルトガル語圏以外の多くの国では Magellan と綴るのが一般的である。
英名の正確な発音は「マジェラン」だが日本語では慣用的に「マゼラン」と呼びならわしている。

ビクトリア号を可能な限り忠実に復元した帆船
ビクトリア号を可能な限り忠実に復元した帆船

ビクトリア号
地球一周航行を目指しフェルディナンド・マゼランが指揮した船団を構成した5隻の内の1隻。
木造帆船で85トンの大きさ、船種はキャラック船あるいはナオ船という。
名前はマゼランが国王カルロス1世に忠誠の誓いを立てたサンタ・マリア・デ・ラ・ビクトリア・デ・トリアナ教会にちなんでいる。
1519年から1522年にかけての地球一周の旅を達成した唯一の船となった。

この遠征は過酷なものとなり、出航当時265名いた乗員の内、生還できた者は18名のみであり、航海の中でマゼランはじめ大部分の人員が失われた。
船団を構成した他の船は、旗艦トリニダッド号(110トン)、サン・アントニオ号(120トン)、コンセプシオン号(90トン)、サンチアゴ号(74トン)でビクトリア号(85トン)を含めて総勢5隻である。

マゼランの死後、艦隊の指揮官は様々入れ替わるが、最終的に1522年9月6日、フアン・セバスティアン・エルカーノの指揮の下ビクトリア号がただ一隻、スペインのサンルカール・デ・バラメーダに帰還し、地球一周を達成した。
エルカーノを含めた18名の生存者の内の1人、アントニオ・ピガフェッタが後に航海記を著し、地球一周の旅の記録を今日に伝えている。
(他にスペイン王の秘書トランシルヴァーノが後にエルカーノなど3人の乗組員から聞き取った調書やビクトリア号の航海長アルボの航海日記なども残っているが記述の分量ではピガフェッタが圧倒している。後年の伝記作家や研究者はピガフェッタの記録を中心に、トランシルヴァーノの調書、アルボの航海日記、セビリアのインディアス総合古文書館に残る公文書などを加えてマゼランの遠征を考察している。)

大航海時代の船旅
マゼランの時代の航海は現代の船旅のように快適ではなかった。大航海時代の船旅は、まず食べ物は航海用ビスケット(堅パン)と塩漬の肉や魚が主であり、他には各種の豆類、干しぶどう、干しイチジク、米、蜂蜜、ナッツ、小麦粉、チーズなどを食していた。
船には簡単なかまどがあり、海が穏やかであれば暖かいものも食べることはできたが、新鮮な野菜や肉は無くあまり美味しいものではなかった。
それは塩漬肉を豆や米などと共に煮込んだようなもので、マゼランの航海の50年後のスペイン人航海者エウヘニオ・デ・サラサールは「腐っているかのような、未開人のシチューのような味がしたと形容している。
しかし、海が荒れるとそれすらも食べられなくなる。
堅パンや穀類、チーズは日が経つと蛆やコクゾウムシが沸き、塩漬肉は悪臭を放つ。
ピガフェッタもネズミや虫に彼らのビスケットを食い荒されている様を記述している。
ただし、船上では魚釣りが盛んに行われ、釣り上げた魚は貴重な生鮮食品であった。
マゼランらはパタゴニアではペンギンやアザラシも捕り、とくにペンギンは大量に捕まえ食料にしていた。

コロンブスの航海のように1ヶ月強の航海であるならばともかく、バスコ・ダ・ガマやマゼラン、フランシス・ドレークらのように数ヶ月も寄港しない航海者達は壊血病に苦しむことになり、この時代の船員の死亡率は非常に高かった。
主食が堅パンや塩漬の肉のようなものであるにもかかわらず、船では真水は貴重であり、トマス・デ・ラ・トルレという司祭が1544年の航海について記した記録では、1日に約1リットルしか配分されなかったとしている。
マゼランの艦隊は、太平洋の真ん中で食料が尽き、訪れた上陸先で手に入るもので間に合わせるしかなくなった。彼らの寄港地はパタゴニア以外はほとんどは熱帯であり、食料は豊富であったが、保存がきく食べ物は米くらいしかなく、アジアから喜望峰経由で帰国するインド洋と大西洋の航海ではピガフェッタらのビクトリア号の食料は米ばかりであった。
その米も途中で尽き香料諸島を出発した時には60人いたビクトリア号の乗組員だが、半数以上は航海途中で壊血病と栄養失調で死んでいる。

船室について、船長や副長など指揮官クラスは船室を与えられていたが、一般の乗組員には特に乗組員用の船室はなく、暖かいときは甲板で、寒いときには荷物を積んだ船倉で荷物の間にスペースを見つけて休んでいたらしい。木造の船で各種の荷物を満載した船では油虫やネズミも発生する。
体を洗う設備もなく、海水を汲み上げて体や衣服を洗っていたが、着替えが沢山あるわけでもなく、石鹸も無い環境ではシラミに悩まされ、悪臭が常にまとわり付いていたと思われている。

トイレについて、大航海時代の船には特にトイレはなかった。
排泄は舷側から海上に張り出した箱のようなものを使用していたが、その箱は真ん中が抜けていて真下は海である。直接、海に落とすわけである。
しかし小さな船ではそれさえなく、ロープにつかまり舷側から尻を海側に突き出して排泄したらしい。
嵐の中では海上に張り出した底の抜けたような箱を使ったり、ロープにつかまって尻を海上に突き出すような排泄はできず、船倉は悪臭が漂うことになる。
セックスについて、(当然、この時代の遠洋航海の船には女性は乗っていない)寄港地では船員は積極的に行動したと思われる。
ピガフェッタの記録はローマ法王に薦められて聖ヨハネ騎士団長に宛てて書いたものであるので、(自身も聖ヨハネ騎士団の騎士である)ピガフェッタはさすがにセックスについては言葉を濁しているが、それでも、リオ・デ・ジャネイロやフィリピンなどの寄港地ではピガフェッタ自身や乗組員達が性欲を満足させていたことをうかがわせる記述を残している。
リオ・デ・ジャネイロでは女性への対価は手斧や短刀などの道具類なら1本である。

航海中の勤務は3交代、日の出から日没まで、日没から夜半まで、夜半から日の出までの3組に別れて勤務に就いた。
また、長期間の航海で傷んだ船は、陸に引き上げ横倒しにして船底の保守も必要であった。
彼らはこのような過酷な航海によって未知の海洋や大陸を探検していたのである。

マゼランの世界周航船 (復元船)
マゼランの世界周航船
(復元船)

世界周航
マゼランの艦隊は王の命令通り1519年8月10日にセビリアを出発する。
しかし、準備が整っていない艦隊は120キロメートル先のサンルーカル・デ・バラメーダ港に留まって準備を終え、1519年9月20日にいよいよ航海に旅立つ。
艦隊はカナリア諸島に立ち寄り、そこからマゼランは南に進路を取った。
予定の航路は南西であり、南に向かうマゼランの指示は当初の計画からは外れていたが、これに、艦隊の総監察官でサン・アントニア号の船長でもあるスペイン人のカルタヘナが異議を唱えた。
マゼランはカルタヘナの異議を無視し、反抗的な態度を取ったカルタヘナを逮捕する。
マゼランはサン・アントニオ号の船長にスペイン人の経理官アントニオ・デ・コカを一旦当てたがまもなく更迭し、ポルトガル人でマゼランの従兄弟のメスキータを任命する。
やがて南西に進路を取った艦隊は12月13日、現在のリオ・デ・ジャネイロ地方に到着する。
リオ・デ・ジャネイロ地方でマゼランたちは裸族トゥピナンパ族と出会う。
ピガフェッタによるとトゥピナンパ族は人食いの習慣を持ち、男女ともに裸で恥部も隠さず、全身に着色し、オウムの羽で作った腰飾りを付け、男は下唇に穴を開けそこに顔飾りの石をはめ込んでいる。
トゥピナンパ族は16世紀ではカニバリ(人食い族)と呼ばれる人々であったが、マゼランたちはトゥピナンパ族とは極めて友好的な交友を持ったようで、住民が多く参加するミサも2回行い(トゥピナンパ族がキリスト教を信仰したわけではない)、トゥピナンパ族はマゼランたちが長期滞在できるようにマゼランたちのための家も建てている。

リオ・デ・ジャネイロ地方を後にした艦隊は香料諸島へ通じる海峡を探して南アメリカ東岸を南下する。
ソリスも探索しおそらくは海峡でなく川であろうと結論したラプラタ川をマゼランは探るがやはり海峡ではなく、さらに南下しパタゴニアのサン・フリワン湾に到達する。厳しいパタゴニアの冬を迎えしばらく停泊している艦隊にマゼランは食料の節約を命ずる。
しかし、豊かで友好的な交流を持ったリオ・デ・ジャネイロ地方での良い経験に比べ厳しく寂しいパタゴニアでの停泊に船員達には不満がつのっていった。

その雰囲気の中でスペイン人幹部が反乱を起こす。

航海出発早々マゼランと衝突し逮捕された艦隊の総監察官でサン・アントニア号の元船長でもあるスペイン人カルタヘナは同じスペイン人のガスパル・デ・ケサーダが船長を務めるコンセプシオン号に囚われていたが、ケサーダおよびサン・アントニオ号の前船長のスペイン人コカと謀ってサン・アントニオ号を急襲、ポルトガル人船長メスキータを拘束し副長を殺してサン・アントニオ号を手中にする。
さらにビクトリア号のスペイン人船長も加わって5隻の内3隻が反乱側に付く事態となった。
しかしスペイン人幹部は反乱は起こしたもののスペイン王の信任で総司令官の地位にあるマゼランを完全に退けることも躊躇しているうちに、マゼランはすばやく反撃、ビクトリア号の船長を刺殺して反乱を制圧する。
反乱の首謀者カルタヘナと加担した司祭は追放、ケサーダを斬首、その他反乱側は鎖につながれ船の補修作業に従事させ反乱を収めた。
これ以降スペイン人はしぶしぶマゼランに従うが、マゼランへの反感は根強く残り、後にフィリピン・マクタン島でマゼランが敵の大軍に囲まれているときにスペイン人は救援を出さずマゼランを見殺しすることになる。

反乱を収めた後、停泊中のマゼランたちはピガフェッタが巨人と呼ぶ原住民に出会う。

マゼランは彼らにパタゴンと名付けるが、これはパタゴニアの地名の由来となっている。
艦隊は1520年8月24日に航海を再開、香料諸島へ通じる海峡を探してさらに南下を続けるが、それまでの調査航行中にサンティアゴ号が難破して失われてしまった。

そして1520年10月21日、ついに西の海へと抜ける海峡を発見した。

これは後にマゼランの名前をとってマゼラン海峡と呼ばれることになる。
しかしマゼラン海峡を抜ける途中で艦隊最大の船であったサン・アントニオ号(エステバン・ゴメスが航海長である)がはぐれた。

サン・アントニオ号の船長メスキータはあくまで艦隊を探し合流することを主張したが航海長ゴメスが反対して船長を拘束、艦隊に残る食料の多くを積んだまま、スペインに引き返し、1521年5月6日スペインに帰国した。
艦隊は2年分積み込んだはずの食料が2重に領収する手違いもあってマゼラン海峡の途中時点で既に残り3ヶ月分しかなく、ゴメスはたった3ヶ月分の食料で未知の海洋に乗り込むことを恐れ反対したがマゼランに退けられてマゼランへの反抗心を持ち、サン・アントニオ号が艦隊とはぐれたことをきっかけにスペインへの帰国を主張したゴメスを乗組員も支持したものとされている。

世界周航達成後にこのことを知ったピガフェッタはその背景にゴメスが一度は手にしそうになった艦隊の指揮権をマゼランに取られたことで憎しみを持っていたからだと推測している。
マゼランの艦隊がマゼラン海峡を進むと左側の島でおびただしい数の火が見えた。
マゼランたちは艦隊を見つけたこの地方の住民がたがいに合図の烽火を上げているのだろうと推測している。
しかし、マゼランたちは住人の姿は見ていない。
このエピソードから後にティエラ・デル・フエゴ(火の島)と名付けられたこの島は人が住む世界最南端の地である。

ゴメスの反乱でサン・アントニオ号が勝手に帰国してしまい艦隊は3隻となってしまったが、そのことを知らないマゼランは海峡のなかでサン・アントニオ号が戻ってくるのを待つ。
待っている間に海峡の前途に小艇を偵察に出すが、3日後に戻ってきた小艇は海峡を抜けたところに広大な海を見つけたと報告する。
マゼランはついに大西洋から太平洋につながる航路を発見したのだった。

ピガフェッタは、提督は喜びのあまりはらはらと涙を流し、水路の出口の岬を「待望の岬」と命名したと伝えている。

やがてサン・アントニオ号の捜索をあきらめた艦隊は先に進み11月28日ついに太平洋に到達する。
狭いが複雑に入り組んだ海峡を慎重に探りながら進んだことと、勝手に帰国したサン・アントニオ号をはぐれてしまったのだと思って待ち続けたことで海峡を抜けるのに1ヶ月以上もかかってしまった。

太平洋へ
太平洋に出たマゼランはしばらくはチリ沿岸に沿って北へ進みやがて北西に進路をとる。
海面は穏やかであったが食料を補給できる島にめぐり合わなかった太平洋での航海をピガフェッタは次のように記録している。
1520年11月28日水曜日にわれわれはあの海峡から抜け出て、太平洋のまっただ中に突入した。
3ヶ月と20日のあいだ新鮮な食べ物は何ひとつ口にしなかった。
ビスコット(乾パン)を食べていたが、これはビスコットというよりむしろ粉クズで、虫がうじゃうじゃ沸いており良いところはみな虫に食い荒されていた。
そして、ネズミの小便の臭いがむっと鼻につくようなしろものだった。
日数がたちすぎて腐敗し黄色くなった水を飲んだ。
また、主帆柱の帆桁に張り付けてあった牛の皮さえも食べた。
それからまたわれわれはオガクズもしばしば食べた。
ネズミは半デュカート(当時の金貨)の値段がつけられ、しかもなかなか手に入らなかった 太平洋の航海でマゼラン艦隊では19人の乗組員とブラジルで乗せたインディオ、パタゴニアで乗せたパタゴンが壊血病と栄養失調で死んでいる。

無人島をいくつか通り過ぎ、餓死寸前のマゼランの艦隊は1521年3月6日、マリアナ諸島にたどり着く。

ピガフェッタによるとマリアナ諸島に着き上陸の準備をしていた艦隊を島民の小船多数が取り巻き、さらに船に島民が忍び込んできて手当たり次第に装備品を盗んでいき、それに酷く立腹したマゼランは武装兵40人を上陸させ島民を7人殺害し家屋を40から50軒焼き払い、島に泥棒諸島と名付けたとされる。
トランシルヴァーナは曖昧な記述しかしていない。

1521年3月9日泥棒諸島を後にした後マゼランたちは1週間後の3月16日にフィリピン諸島を発見した。

フィリピン諸島[編集] フィリピン・マクタン島ラプ=ラプ市のラプ=ラプ王の像 上のラプ=ラプ王の像と同じ公園内にあるマゼラン廟 フィリピン諸島での最初の寄港地には安全な無人島(ホモンホン島)を選んだ。
翌3月18日、初めてフィリピン人つまり近くのスルアン島の住人に出会うが、マゼラン達は出会ったフィリピン人を「ものの道理が分かる人」と評価している。
つまり、王の元での秩序ある社会を築き、文化を持っている人々とみなしたのである。

3月28日にはレイテ島付近で出会ったフィリピン人にマゼランの奴隷であるマレー人エンリケが試しに呼びかけるとマレー語で答えが返ってきた。
マレー人と交流のある地域に達したのだった。
この後、レイテ島南端沖のリマサワ島で王コランプに出会うが、コランプはマレー語に通じ、エンリケの通訳を介して会話が可能になったマゼランとコランプは親密になりコランプは食料、マゼランは赤と黄色のトルコ服、赤い帽などを贈りあう。
マゼランとコランプはリマサワ島でフィリピン最初のミサをあげ十字架を立てている。
さらにコランプは艦隊が補給をするのに最適な地としてセブ島を紹介し案内する。
4月7日セブ島に達したマゼランはまずは大砲を撃ってセブ島民を驚かせ、上陸したマゼランはセブ王が付近の王(首長)たちの中でも有力であることを見て熱心に布教を始める。
マゼランが熱心に説くキリスト教の教えにセブ王をはじめ500人が洗礼を受けた。
また、マゼランとセブ王は何度も抱き合うほど親しくもなり、このことに気を良くしたマゼランはセブ島周辺の王(首長)たちにもキリスト教への改宗と(先にキリスト教徒になった)セブ王への服従を要求するようになる。
いわば現地の政治情勢に到着したばかりのマゼランが首を突っ込んでしまったのである。

マゼランの肖像
マゼランの肖像

マゼランの死
セブ島に3週間滞在しセブ王の王宮にもたびたび招かれ食料を補給し多くのセブ島民を改宗させたマゼランだが、何故か目的の香料諸島へ向かわず布教を続けている。
セブ島民を改宗させたことで気をよくしたマゼランは強硬になり布教に当たって武力をちらつかせるようになっている。
セブ島周辺の王たちのほとんどはマゼランに従ったが、改宗と服従を強要するためにセブ島対岸の小島マクタン島では町を焼くこともしている。

このことでマクタン島民は反感をつのらせたようである。

その後マゼランは4月27日マクタン島に突然出撃した。
ピガフェッタによると、マクタン島の王の一人ズラは「マゼランの要求に従う気はあるが、もう一人の王ラプ=ラプが従わないので困っている。小艇に兵を満載して救援に来てほしい」と伝えてきたからだとしている。

これを聞いたマゼランはラプ=ラプ王を従わせようと3隻の小艇に60名の兵を乗せてマクタン島に乗り込んだのだが、ラプ=ラプ王は既にこれを察知しており、60名の内11名を小艇の警護に残して上陸したマゼランの49人に対して1500人の軍勢を配置していた。

しかしマゼランは圧倒的に多数の敵を前にして部下に 諸君、われらの敵であるこれらの住民たちの数に恐れをなしてはならない。
神が我らを助け給うであろうから。
諸君、思い出すがよい、あのエルナン・コルテス隊長がユカタン地方で、200人のエスパニャ人でもって、しばしば20万、30万の住民たちを打ち破ったということを我々が耳にしたのはつい最近のことではないかと演説し、寡兵にもかかわらず戦闘に突入。

しかし、30倍の数の敵に対しマゼランの兵はやがて敗走、マゼランの周りにはピガフェッタやエンリケを含め6から8人ほどが踏みとどまって戦うだけになる。
多勢のラプ=ラプ王の兵の竹槍はマゼランたちの甲冑に通じず戦いは1時間に及んだが、ラプ=ラプ勢は防具をつけていない足に攻撃を集中し始め、遂にマゼランは戦死する。

マゼランの死後
チリ・マゼラン海峡の町プンタ・アレーナスにあるマゼラン像 マゼランの死後、艦隊はマゼランの親族に当たる者を後継の指揮官にしていたが、後継の指揮官を含め艦隊幹部多数がセブ王に殺される。
アントニオ・ピガフェッタの記録やトランシルヴァーノの調書によれば、マゼランの死後、負傷したエンリケは通訳の仕事を放棄して艦内で横になっていた。

マゼランの後を継いだ艦隊の指揮官は仕事を放棄しているエンリケを 主人のマゼランが死んだからといって自由になったと思ったら大間違いだ。スペインに帰ったら未亡人のベアトリス様の奴隷になるのだ。今上陸しなかったら鞭を食らわすぞと脅し、エンリケはセブ王の元に使わされた。

戻ってきたエンリケは艦隊首脳に「セブ王が宴会へ招待」の報をもたらしたが、宴会に出席した艦隊首脳24人のほとんどが殺されることとなってしまった。

ピガフェッタや同行の乗組員の推測ではエンリケがセブ王と謀って、マゼランの遺書ではエンリケはマゼランの死後には解放されるはずなのに遺書を無視して自分の開放を認めようとしなかったマゼランの後継者に復讐を遂げたのだとされている。

その後のエンリケの消息は分かっていない。

大幅に人員が減り3隻の運行が難しくなった艦隊はコンセプシオン号を破棄、残るトリニダード号とビクトリア号は迷走しながらも1521年11月8日香料諸島にたどり着く。
香料諸島では王の厚遇を得て大量の丁子(クローブ)を積むが、丁子を積みすぎてトリニダード号は浸水。
艦隊は修理に取り掛かったトリニダード号を香料諸島に残し(4ヶ月後に修理がかなったトリニダード号だが結局はポルトガルに拘束され、3年後に乗組員のうち4人が帰国するのみである)、フアン・セバスティアン・エルカーノを船長としてビクトリア号1隻60人の人数で香料諸島を出発する。

ポルトガルの勢力圏内で途中の港に立ち寄れないスペイン船ビクトリア号は壊血病と栄養失調で多くの死者を出しながらも1522年9月6日スペインに帰国する。
スペイン帰国時の乗組員は21名、内3人は途中で乗せたインディオなので、出発時約270人の乗組員のうち世界周航を達成できたのはエルカーノや艦隊の記録を書いたピガフェッタら18人だけであった。

ほぼ3年にわたる航海であった。

なお、ピガフェッタは出航以来毎日欠かさず日記を付けているが、ビクトリア号が世界一周達成を目前にアフリカの西にあるヴェルデ岬諸島に立ち寄ったとき、ピガフェッタの日記では水曜日であるはずがヴェルデ岬諸島では木曜日であることを知り大変驚いている。21世紀の現代人にとっては地球を西回りに1周すれば日付が1日遅れるのは当たり前であるが、人類初の世界一周の記録者ピガフェッタは地球一周による日付のずれを実感した最初の人にもなったのである。

その後、スペインは上流貴族ロアイサを名目上の指揮官、マゼラン艦隊での最終的な指揮官エルカーノを実質上の指揮官にした西回りでの第二の艦隊を送り出すがロアイサの艦隊はマゼラン艦隊以上の損失を出し失敗。
ロアイサもエルカーノも死んでしまう。その後も西回りで送り出すスペインの艦隊はことごとく失敗。
マゼランが発見した西回り航路は危険が大きすぎるためにポルトガルへ売却されることになり、ポルトガルも西回りでの航海には興味は持たず、結局はヨーロッパから西回りでの香料貿易ルートは閉ざされることになる。
こうしてマゼランが開拓しようとした西回りでのアジア航路は失敗に終った。

しかしマゼランの功績は世界史的な意味では、大洋としての太平洋を発見し(海洋の存在はバルボアが発見したが、バルボアは太平洋が大洋であることは認識しておらず、見つけた海の名もMar del Sur「南の海」としている。)、地球の大きさを直接に認識(間接的にはエラトステネス以来の測定があった)し世界に指し示したことだと考えられている。

ヨーロッパ人に伝わる伝説ではマゼラン海峡で南米大陸から分かたれたフエゴ島は、南半球に広がる仮説上の「未知の南方大陸」の一部とみなされた。
フエゴ島、オーストラリア、南極大陸を包括した架空の大南極大陸は、Terra Australiaと呼ばれることも多いが、メガラニカ(MAGALLANICA)と呼ばれることもある。

豆知識
スペインでは史上初の世界一周の名誉は、マゼランではなく、最後まで生き残ったビクトリア号のスペイン人船長フアン・セバスティアン・エルカーノらに与えられている。(マゼランは途中で死に、またスペインにとって外国人である為。)

マゼラン遠征についてもっとも詳細で著名な報告をしたのは艦隊の乗組員で世界一周を達成してスペインに生還したイタリア人アントニオ・ピガフェッタである。

マゼランの記録は確実なものは少ないが、諸説の中には1505-1513年、ポルトガル艦隊の一員として東洋の長期滞在中にフィリピンに到達していて(ポルトガルから東回りでフィリピン)、1519年からの遠征でのフィリピン到達(スペインから西回りでフィリピン)、つまり2つの航海をあわせて世界一周をなしとげている可能性があるという説もある。

太平洋の命名者がマゼラン艦隊の誰かであるのは確実であるが、それがマゼランなのかピガフェッタなのかそれともそれ以外のだれかなのかは分からない。

マゼランが出航前に残した遺書では、マゼランの死後、エンリケは解放し、一定の遺産を与えることになっている。マゼランの生前は忠実にマゼランに仕え、マゼランの戦死の際もマゼランと一緒に戦って負傷しているエンリケである。

抜粋:http://ul.lc/4x3g(wikipedia)より

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