【今日の歴史】1934年12月1日の事【謎の事件】

【今日の歴史】1934年12月1日の事【謎の事件】
ロシア共産党中央委員会書記セルゲイ・キーロフ
ロシア共産党中央委員会書記セルゲイ・キーロフ

セルゲイ・キーロフが暗殺される

セルゲイ・ミローノヴィチ・キーロフ(Сергей Миронович Киров, Sergei Mironovich Kirov, 1886年3月27日(ユリウス暦3月15日) – 1934年12月1日)は、ソビエト連邦の革命家、政治家。
本名セルゲイ・ミローノヴィチ・コストリコフ(Сергей Миронович Ко́стриков)。
レニングラード・ソビエト議長。カザン県ウルジュム出身。

生涯
早くに両親を失い、孤児院で育つ。
1904年にカザン工業学校を卒業後、シベリア、カフカースなどで革命運動に加わり、1914年北カフカースでボルシェビキの組織責任者となった。
1919年アストラハン軍事革命委員会議長。
1920年から1922年までザカフカース各地で革命政権を樹立し、ザカフカース・ソビエト連邦社会主義共和国をソ連に編入することに関与した。
1923年ロシア共産党中央委員に選出。スターリンに接近し、スターリンの懐刀とみなされるようになる。
1926年グリゴリー・ジノヴィエフの拠点であったレニングラードに第一書記として着任し、ジノヴィエフ色を一掃。
1930年政治局員。1930年代の農業集団化ではクラーク弾圧に力を奮い、スターリンと並ぶ有力な対抗馬と見なされる。
1934年11月、党中央委員会書記・組織局員を兼務。

だが同年12月1日、スモーリヌイ学院のオフィスで党員のレオニード・ニコラエフに暗殺される。

キーロフは当時ニコラエフの妻と不倫をしており、両者の関係は悪化していたため公式にはそれが殺害動機とされた。

暗殺直後、ニコラエフは現行犯で警備兵に逮捕され、12月29日に銃殺刑に処された。
彼の家族もほとんどが逮捕・処刑された。暗殺者ニコラエフが、何故警備が厳戒な筈のキーロフの執務室に易々と入り込めたのかなど暗殺事件に関しては謎も多い。

死後
キーロフ暗殺事件は、大粛清の契機となった。
スターリン以下共産党指導部は、キーロフ暗殺の背後に大規模な「陰謀」の存在を主張し、反対派に対する弾圧を強化していった。

こうした弾圧・粛清は秘密警察の指導者ゲンリフ・ヤゴーダ、ニコライ・エジョフにより実施された。
事件直後、レニングラードの共産党関係者が一斉に検挙されジノヴィエフ、レフ・カーメネフらの反スターリン派は事件関与の嫌疑で逮捕、処刑されるに至る。

スターリン時代の公式見解では、キーロフ暗殺は、反スターリン派による陰謀であるとされたが、スターリン死後、フルシチョフによるスターリン批判を契機に非スターリン化が進むと事態は一変した。

フルシチョフによると、キーロフはスターリンを上回る人気の持ち主で、嫉妬したスターリンによって暗殺されたというのが真相であるとされた。

事実キーロフは、スターリンより若年の世代であるが、ロシア内戦によって台頭した共産党地方指導者の代表であり、1930年代に至って、スターリンの中央集権政策に対し、キーロフを代表とするこれらの人々から批判が出てきたとされ、これがキーロフ暗殺の一因となったともされる。

フルシチョフは回想記の中で、自分個人の考えと断わりながらも、スターリンがヤゴーダを介してニコラエフにキーロフを殺害させたとの見解を示している。

ソ連崩壊後に機密資料が多数公開されたが、キーロフがスターリン体制によって暗殺されたという証拠は見つかっていない。

死後、キーロフの故郷ヴャトカはキーロフ(現キーロフ州の州都)と改名された。
また、ジノヴィエフの故郷ジノーヴィエフスク(旧名:エリザヴェトグラード)は彼の失脚に伴い、彼が暗殺したとされていたキーロフにちなみキーロヴォ、そしてキロヴォグラードと改称された(現キロヴォフラード)。現在でもキーロフバレエ団や軍艦キーロフ級の名称に広く使用されている。

セルゲイ・キーロフ暗殺
セルゲイ・キーロフは政治局員であり、党エリートであり、その弁舌と貧困層への真摯な態度で大きな人気があった。

彼はスターリンの忠実な部下であったが、いくつかの意見の相違もあり、多くの歴史家がスターリンは彼を潜在的な脅威として考えていたとする。
実際、一部の党員は、スターリンの後継者としてキーロフに対し秘密裏にアプローチを行っていた。

1930年代のスターリンは、高まりつつあったキーロフの人気についてますます心配していた。
1934年に開催された新しく中央委員会を決める投票で、スターリンは1108の反対票を受けた一方、キーロフはどの候補よりも少ない3の反対票を受けたのみであった。

この一件は、スターリンのキーロフに対する反感をますます強めたものと思われる。

1934年12月1日、キーロフはレニングラードにおいてレオニード・ニコラエフという青年によって暗殺された。

ニコラエフは当時のNKVD長官ゲンリフ・ヤゴーダと関係があり、スターリンがヤゴーダを通じてニコラエフをそそのかしキーロフを暗殺させたとする説は根強い。

キーロフの死はボリシェヴィキをぞっとさせたが、スターリンは暗殺の知らせを聞くと、レニングラードに向かい暗殺事件の真相を究明するため、異例の現地指揮を行った。

キーロフ暗殺に対するスターリンの公式の対応は、嫌疑のかかっているスパイと反革命分子を探しだすことで安全対策を強化するというものであった。

しかし実質的には、スターリンは自身の指導体制を脅かすことになる可能性のある者たちを排除していったのである。
この過程は、それから広範に亘る追放へと変移していった。

キーロフの暗殺は、1936年から1938年まで続くことになる大粛清の前兆であった。

抜粋:http://ul.lc/57mk(wikipedia)より

歴史的な事件カテゴリの最新記事

Verified by MonsterInsights