【今日の歴史】1969年10月4日の事

【今日の歴史】1969年10月4日の事
8時だョ!全員集合!!
8時だョ!全員集合!!

『8時だョ!全員集合』が放送開始

『8時だョ!全員集合』は、1969年10月4日から1985年9月28日に、TBS系列で毎週土曜日20:00 – 20:54(JST)に放送されていた、ザ・ドリフターズ主演の国民的人気コント番組である。

常に日本のバラエティ番組を代表する存在であった事は勿論、記録にも記憶にも残る伝説の番組として現在も語り継がれている。

概要
番組名は単に「全員集合」と省略されることもある。ザ・ドリフターズによるコントから成る前半部分、ゲストの歌のコーナーを挟んで体操や合唱団などのミニコントから成る後半部分から構成されていた。

毎週土曜日、20時(午後8時)から53分間の放送。年に数回は拡大放送もあった。
番組終了後、通常は20時54分からスポットの『JNNフラッシュニュース』となる。

放送期間は1969年から1985年までの16年間。
ただし、途中1971年4月から9月の半年間は、ドリフの先輩格であるハナ肇とクレージーキャッツがメインを務めた『8時だョ!出発進行』が放送された。

基本的には生放送だが、開始から1970年代前半までは日劇や浅草国際での舞台公演があったこと、ドリフの休暇やスケジュールの都合などで収録・録画での放送となった回もあった。
開始当初の1か月分も録画放送だった。
極めて珍しい例として、1975年4月5日放送分はドリフがその日に同じ事務所の『ザ・ピーナッツ さよなら公演』の開催に顔出しするため録画となったこともある。
また近畿地区のネット局が朝日放送から毎日放送に変わって最初の放送だった。

毎週各地の劇場・ホールで公開生放送あるいは公開録画を開催した。
第1回は三鷹市公会堂からの録画放送。
原則としてTBSエリア内の東京首都圏(渋谷公会堂や日本青年館、船橋ヘルスセンター大劇場→船橋ららぽーと劇場、大宮市民会館(現・さいたま市民会館おおみや)、入間市民会館、東京厚生年金会館、野田市民文化会館、市原市市民会館など。前期には文京公会堂もあり、同エリア内では取手市民会館まで遠征したこともあった)を中心とし、時には北海道札幌、宮城県仙台、福島[3]、新潟、静岡、愛知県名古屋、三重県桑名、石川県金沢、岡山県倉敷、広島、福岡、宮崎でも開催した。

番組末期の1984年10月以降では、TBS・Gスタジオ、2005年10月2日の復活特番では、TBS・Bスタジオでの公開生放送の割合が多くなった。

随時、回り舞台を活用する大掛かりな舞台装置(最後に回り舞台を使用したのは1985年6月8日の放送で、1985年ではこの回のみ)と、入念に練り込んだコントや、大仕掛けの屋台崩しに代表される豪快な落ちなど、出演者たちの身体を張った笑いが、小学生を中心とした老少男女を問わず幅広い層の視聴者に熱狂的に受け入れられた。
また、生放送にこだわったため、停電やボヤ騒ぎ、ゲストの負傷等のアクシデントに見舞われた回もあった。

毎回のように三船敏郎、若山富三郎、菅原文太、加山雄三、田宮二郎などの大物俳優や、当時の売れっ子アイドルを呼び、しかも彼らが積極的にコントに参加するなど、かなりの予算と労力を要した。

放送2日前からドリフメンバーやスタッフによる打ち合わせを行ったり(もちろんその間、メンバー全員がこの番組の準備に集中)、「番組がスランプに陥っている」と言う理由で、通常のレギュラー放送を一時休止して(その間は総集編を放送)、ドリフメンバーによる「合宿」までしたという。

このように莫大な労力を費やして制作していた番組であった上、出演者のギャラの高騰などによる費用面の問題・出演者に掛ける保険の費用高騰・安全性の問題・その後の様々な表現規制・芸能事務所の生放送番組に対するスタンスの変化などといった業界事情の変化により、現在ではこの様な規模の公開生放送番組を毎週1回のペースで作ることは極めて困難であり、かつてドリフのマネージャーを務め、現在ドリフメンバーが所属するイザワオフィス社長の井澤健も『週刊新潮』のインタビューで「時代が変わり過ぎて、現在ではもう再現不可能な要素が多過ぎる」と語っている。

番組全体の平均視聴率は27.3%で、最高視聴率は1973年4月7日放送の50.5%(ビデオリサーチ調べ、関東地区にての数値)であった。
最盛期には40%〜50%の視聴率を稼ぎ、「お化け番組」「怪物番組」と呼ばれ、「土曜8時戦争」と呼ばれる視聴率競争でも無敵の番組として君臨する存在であった。
又、この番組が全盛期を迎えていた頃は、TBSでは土曜夜のプロ野球中継が組まれることはほとんどなかった。

1970年代後半から1980年代前半にかけては、19時台前半の『まんが日本昔ばなし』【第2期】(1976年1月~1994年3月、毎日放送制作)、19時台後半の『クイズダービー』(1976年1月~1990年3月)、21時台の『Gメン’75』(1975年5月~1982年4月)や『スクール☆ウォーズ』(1984年10月~1985年4月)などと共に、TBSの土曜夜の黄金期を象徴する番組であった。
しかし、1981年春に幕を開けたフジテレビの裏番組『オレたちひょうきん族』の台頭により、1982年中頃から番組人気に陰りが見え始め、1982年10月2日の放送回で初めて『オレたちひょうきん族』に視聴率を抜かれた。
これ以降は視聴率争いに苦戦し、1983年8月13日に視聴率で初の1桁(9.2%)を喫した。
以降は視聴率が10%後半くらいが平均となり、『オレたちひょうきん族』と抜きつ抜かれつの視聴率争いを繰り広げるが、1985年に入ってからはほぼ後塵を拝した。

そして遂に、土曜20時台枠の抜本的な見直しにより、1985年9月28日に16年の歴史に幕を閉じた。
TBSは、1985年7月19日の打ち切り発表の中で、「生放送を公開形式でやっていくことには限界があった。ナンセンスギャグもやり尽くした」ことを理由に挙げていた。

その後、1985年10月5日は約2時間枠で電話リクエスト形式で過去の名場面集を放送した後に、年内いっぱいは総集編番組『ドリフフェスティバル・全員集合ベスト100』でつなぎ、1986年1月から同じくドリフの加藤茶と志村けんをメインに据えた『加トちゃんケンちゃんごきげんテレビ』が始まった。
ドリフメンバーがメインの番組は1992年9月の『KATO&KENテレビバスターズ』の終了まで続いた。

番組の構成
オープニング:20:00:00 – 20:01:00
前CM1、前提供、前CM2:20:01:00 – 20:03:20
22分コント、ゲストの歌1:20:03:20 –
中CM1:1分30秒
ゲストの歌2・3、少年少女合唱隊、ゲストの歌4
中CM2:1分30秒 ショートコント
後CM:1分 エンディング: – 20:52:35
後提供、後タイトル:20:52:35 – 20:53:00(終了)

コント・名物コーナー
いかりやが後にインタビューで「決して子供向けの番組にしたつもりはない」と述べている通り、加藤のストリップを題材にしたギャグや人形の首をちょん切るギャグ、小型のギロチンを使うシーン(実際に切ったものはスイカ)などがあり、他にもシュールなネタや下ネタが所々で含まれるなど、後世に言われるほど若年層向けの内容にはなっていない。

楽屋落ちは一切禁止されていた。
加藤がアドリブで楽屋落ちをやった際にはなべおさみを通じて渡辺晋(当時の所属事務所の社長)直々に加藤が叱りを受けた。

番組発の流行
本番組からは、様々な流行語や、当時の小学生に影響を与えたギャグが誕生した。
全ての項目を書き尽くすことは不可能であるため、幾つかの代表的なものを記す。
CMや、別番組からのコピーを除く。

いかりや長介
オィッスー!
いってみよー!
さあ後半まいりましょう、後半しゅっぱ〜つ!(番組後半のコント開始時の決まり文句で後半開始時には自ら指揮を執っていた。)

荒井注
なんだバカヤロー
This is a pen!

加藤茶
1、2、3、4、やったぜカトちゃん!!
くるりと回ってうんこチンチン
いっかりやに、怒られた(または、「いかりやさんに怒られた」)
ちょっとだけよ〜。あんたも好きねぇ〜。(この言葉は当時PTAの槍玉に挙げられた。また伴奏曲の「タブー」(ペレス・プラード楽団風のアレンジ)は、当時はギャグを連想させる曲として広く知られていた。いかりや長介も病院のコントで1度だけ行ったことがあった。この時、1989年10月11日放送の『全員集合スペシャル2』で特別ゲストとして登場していたいかりやはある視聴者からの投書で「『いかりやよくやった!』じゃないんですよ。『いかりやドロボー!!』って言うんですよ』という発言をしている)
どうもスンずれいしますた
風呂入れよ!
痛いの痛いの飛んでけ〜
いや〜まいった!まいった!(仲本とのペア。志村時代にはほとんど使われなかった)
母ちゃん、いっぽんつけろや(「母ちゃんコント」の最中、子供の役で登場しつつこれを言う)
タバコ シル!(といいながら、シャツをまくる)
平賀整形外科!(いかりやを指して)
やはり人形は顔が命です。吉徳大光作ブス人形!!(いかりやを指して)
5秒前、4、3、2、1、デーン(変な顔をする。ノミ行為で志村・仲本が謹慎となったいわゆる「三人ドリフ」時に、いかりやが苦し紛れに編み出したもの。舞台の左端でやったら再度右端で、といった感じに使用された)

志村けん
あ、おまえ、それはないだろ!(上の立場にいて横暴の限りを尽くすいかりやに対して、報復手段として小馬鹿にした態度で「ため口」を叩く、というのが基本パターンだった。ちょうど「東村山音頭」のブレイクと時期的にリンクしており、言い回しはモノマネで登場する橋幸夫のようであった)
ちょっとちょっと!いかりやさん! おい!いかりや! おじさん!! マラリヤさん!! ギモール!!(上記と同じパターン。最後のギモールは、おそらく当時、いかりやが実際に使用していた、ふりかけタイプの頭髪用化粧品。さすがのいかりやも苦笑していた)
カラスなぜ泣くの カラスの勝手でしょ(童謡「七つの子」の替え歌フレーズ。このフレーズは当時PTAの槍玉に上がった)
おこっちゃヤーヨ!(相手(特にいかりや)を怒らせた時にとる、肘を前にして腕を突き出すポーズ。所謂「アイーン!(実際にそうしたギャグは存在しなかった)」の原型はこれと下記である)
なんだ!(あんだ!)バカヤロー!!(荒井注のギャグにアントニオ猪木のフレーズを織り交ぜて、志村なりにアレンジしたもの。下あごを突き出すのもここから派生した。上記とともに「アイーン!」の原型)
最初はグー(仲本とのじゃんけん決闘。「最初はグー、いかりや長介(チョキ)、頭はパー」などと発展。これ以後じゃんけんの掛け声の前に「最初はグー」が付くようになった。志村が大人数で酒を飲んでいた際、酔ってなかなか手が揃わないことから思いついたという。このギャグがきっかけで現在では日本中に認知され、一般的に用いられている)
ア〜ミ〜マ〜、ユ〜ヤ〜ユ〜、シ〜ホ〜ヒ〜、シ〜ハッハ〜(「I, my, me」のデタラメな用法。学校コントより発生。この言葉は、子供がデタラメな英語の用法を覚えるということで、当時PTAの槍玉に挙げられた。また後に『飛べ!孫悟空』でも使用された)

仲本工事
はいポーズ!

観客
(公開生放送が売りのこの番組にとって観客もある意味では重要な「出演者」の一人である)
志村!後ろ!後ろ〜!!(志村が一人になったときに後ろからお化けなどが出てきて志村が気づいていない時に観客が叫ぶ。このネタは現在でも主にインターネットコミュニティ上で「志村〜、○○、○○」と言う具合に、相手の間違いに対するツッコミで多用されている。この「後ろ〜!後ろ〜!」は、実際のギャグの間の取り方にもつかわれており、観客と演者との一体感をあらわす言葉とも言える。このことは、いかりや自身の著作である「だめだこりゃ」に書かれている)

いかりやの「だめだこりゃ」、「次いってみよう」はフジテレビ『ドリフ大爆笑』から、加藤の「加トちゃんペッ!」は日本テレビ『ホイホイミュージックスクール』から、仲本の「コ・マ・オ・ク・リ・モ・デ・キ・マ・ス・ヨ」は松下電器産業のホームビデオ「マックロード」のCMから、志村の「キントキント〜」はドリフターズ出演の人形劇であるTBS系の『飛べ!孫悟空』からそれぞれ生まれた流行語である。
加藤と志村の「もう酒」「やめますか?やめられない?」はロート製薬の「パンシロン液」(正式にはパンシロン胃腸内服液)のCMでのギャグだが、『全員集合』のコントでも披露されたことがあり、このときには加藤が「パンシロン液とは駅の名前ではありません」と言っていかりやにつっこまれるというおまけもあった。

名物小道具
金ダライ
金ダライといえばドリフとも言うべき定番小道具である。
まず最初にヤカンやボウルが落下してきて、その後に金ダライ、というのがパターン。
多くは仕掛けやスタッフによる落下が常だが、ドリフメンバーが他のメンバー(主にいかりや)にめがけて落下させることもある。
金ダライは他のコメディ系バラエティ番組にも波及し、ドリフメンバーによる『加トちゃんケンちゃんごきげんテレビ』や『志村けんのバカ殿様』はもとより、他のコントグループ、番組でも「ネタに困ったら金ダライ」というような使われ方が、現在もなおしばしば見受けられる。
『TBSテレビ55周年記念版! 「8時だヨ! 全員集合」第4弾DVD-BOX!!』の初回特典となった。

天板が外れる机
学校コントや会社コントでズッコケの時の効果が出るように、いかりやの机の片側が軸になり、天板の手前側を強く押すと反対側が跳ね上がるようになっていた。
いかりやがずっこけると顔面を机の天板が直撃する。
なお、顔面直撃の際にいい音が出るように材質はトタンを用い、また、リハーサルで用いたものはそのまま使わずに本番前に新しいものに付け替えていた。

メガホン
いかりやがツッコミに使う小道具。
忍者やコンバットコントなどでツッコミを入れる時にメガホンで相手の頭を叩く。
本来の拡声器として使われることは少ないが、その場合は遠く広く声を飛ばすのではなく、メンバーの耳元で怒鳴る事が多い。
また、それをやる・やられるのは加藤・志村が多い。

鈍器
鈍器ではあるがハンマーやバールの類ではない(ただし、金槌は使われたこともあった)。
一斗缶や海苔缶のフタ等、視覚的、聴覚的に派手なものが使われる。
志村や加藤のオーバーリアクションが特に一般に受けた。
一方、いかりやは(特に志村に)全力で殴られるため、本番中に痛がっていたこともある。
変形し衝撃を吸収しやすい素材であるため、打撃力はそれほど大きくないが、「子供が真似をしたらどうするのか」と前述の金ダライ共々槍玉に挙げられた。
なお、一斗缶は叩かれた際、痛くないようにするためと音が強く響くようにするために上蓋を1枚まるごとくり抜いて外してある。
しかし、志村はあえて一斗缶の角でいかりやに殴りかかることもあった。

豆知識
当初企画段階で、TBS社内外から「ドリフよりも世間に名の知れているクレージー(ハナ肇とクレージーキャッツ)を使った方がいいのでは」という声があった。

通常は後半コントに出演しないいかりやが、1度だけ、誤って後半コントの大オチを行う前に舞台に出て来てしまい、罰としてそのコントの大オチをいかりや自身が行うはめになった、というハプニングがある。

番組初期には、ミゼットレスラーのコーナーもあったが、すぐに消滅した。理由は不明だが、ミゼットレスラーを笑いのネタにすることによって差別やいじめを助長するという批判により、打ち切られたと言われている。

セットの家の中でコントを行い、最終的に外に出て、家自体を壊してしまうという内容のコントを行うはずが、演じていた加藤と志村が、勢い余って中に入る前に家を壊してしまい、結局コントが全く出来なかったことがある。これは、出演者のミスとしては番組史上最大のハプニングとされる。

撮影コントで志村が松居直美に突っ込みをいれた際に松居の歯が瓶に当たって前歯が欠けるというハプニングがあったが、このハプニングの後、志村と番組のスタッフが松居に謝罪したことを松居本人が語っている。

この番組が放送されている時期のTBSの4月や10月の番組再編成の時期に放送される特別番組は『4(10)月だョ!全員集合』(2時間番組で火曜日夜に放送、土曜日昼にも再放送された局もある)と題され、ザ・ドリフターズが進行役として出演していた。

番組後半の「少年少女合唱隊」は出演者全員が参加し、非常に好評だった(早口言葉もやったことがあった)。また、特番(末期)の中で史上最大のドミノ倒しが行われる時は、ドミノの最初の牌を倒すのは必ずいかりやだった。 そのドミノ倒しだが、初めて行った時、ドリフ達が作ったドミノコースを、レポートに来た松宮一彦(当時TBSアナウンサー)がうっかり壊してしまい、大騒ぎになったことがあった。

1980年代の1インチVTRが登場するまで、生放送の同時録画は2インチVTRが使われていたが、当時はテープが高価(60分あたりの当時の単価は10万円)だったために他の番組ではほとんどが消去される中、この番組は第2期開始の1971年10月放送分以降1985年9月の最終回までほぼすべての回がVTRテープに記録され保存されている(TBSのバラエティー番組の中では2インチVTRで最も多く残されているとされている)。これが後のリクエスト特集などの特別番組やDVD化に活用された。ただしDVD版の収録に選ばれたコントは、ステレオ放送化された1982年以降のものが比較的多く選ばれている。横浜市の放送ライブラリーには、1978年3月4日放送の第412回と1984年9月29日放送のスペシャル版「15周年だョ!全員集合」が保存されている。

特別番組放送時とDVD化された作品の一部にはボカシの映像処理により一部の表示テロップを伏せている部分がある。これは放送素材のVTRテープ(主に1970年代前半のもの)にCMテロップ(当時は番組本編中、画面下に商品名や企業名のテロップを数秒表示することも珍しくなかった)や提供クレジット(開始初期は前半・後半に分けていたが、後に1つの枠に統一された)・その週の中継会場の名称テロップがそのまま入っていたためである。

2013年6月15日からスマートフォン向け動画配信サービス「dビデオpowered by BeeTV」と「BeeTV」で、23回分のオープニングからエンディングまでノーカットでの配信が開始された。
2014年2月時点ではさらに17回分の映像が追加されている[26]。

2014年9月1日から「TBSオンデマンド」でも22回分の配信が開始される。

抜粋:http://ul.lc/50js (wikipedia)より

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