【今日の歴史】1989年12月2日の事【政治】

【今日の歴史】1989年12月2日の事【政治】
米ソ冷戦
米ソ冷戦

マルタ会談開始

1989年のマルタ会談(Malta Summit)は、1989年12月2日から12月3日にかけて、地中海のマルタで行われたアメリカ合衆国とソビエト社会主義共和国連邦両国の首脳会談である。

これをもって、44年間続いた東西冷戦は終結した。

概要
東欧革命やベルリンの壁崩壊を受けて、アメリカ合衆国大統領ジョージ・H・W・ブッシュとソビエト連邦最高会議議長兼ソビエト連邦共産党書記長ミハイル・ゴルバチョフによる首脳会談で、第二次世界大戦末期のヤルタ会談に始まった米ソ冷戦の終結を宣言した。

これを標語的に「ヤルタからマルタへ(”From Yalta to Malta”)」という。
マルタ島沖のソ連客船マクシム・ゴーリキー内で行われた。

この会談には、ソ連側からはシェワルナゼ外務大臣、アメリカ側からはベイカー国務長官及びスコウクロフト国家安全保障問題担当大統領補佐官、ライス国家安全保障会議東欧ソ連部長、マットロック駐ソ連アメリカ大使などが同席している。

ブレント・スコウクロフトをはじめとするアメリカ政権内では当初からマルタ会談は「時期尚早」として、ソ連のスタンドプレーを許す結果になるとして反対していたが、フランスのミッテラン大統領、イギリスのサッチャー首相をはじめとするヨーロッパ首脳、およびアメリカ合衆国議会はゴルバチョフとの対談を説得した。

マルタ会談では特に何の合意もなされなかった。

主な目的はアメリカとソ連が「鉄のカーテン」を引き上げることにおける喫緊の変更点について会談を持つことにあり、これをして冷戦の公式な終結と見られた。

局所的に見れば、冷戦時代の終結に保証を与えるために緊張を緩和し、東西関係というものに大きなターニングポイントを与えた。
会談を通じて、ブッシュ大統領はペレストロイカにおけるゴルバチョフの指導、およびその他の共産圏の改革を支持した。

共同声明に当たって、ゴルバチョフは次のように述べた。

“世界は一つの時代を克服し、新たな時代へ向かっている。我々は長く、平和に満ちた時代を歩き始めた。武力の脅威、不信、心理的・イデオロギー的な闘争は、もはや過去のものになった。””私はアメリカ合衆国大統領に対して、アメリカ合衆国と戦端を開くことはもはやないと保証する。” ブッシュ大統領はこれに対し、 “我々は永続的な平和と、東西関係が持続的な共同関係になることを実現することが出来る。これはマルタで、ゴルバチョフ議長と私がまさに始めようとする未来の姿だ。”

と述べた。

ヤルタ会談
ヤルタ会談(英:Yalta Conference)は、1945年2月4日~11日にクリミア半島のヤルタ近郊で行われたアメリカ、イギリス、ソビエト連邦による首脳会談。

第二次世界大戦が佳境に入る中、ソ連対日参戦、国際連合の設立について協議されたほか、ドイツおよび中部・東部ヨーロッパにおける米ソの利害を調整することで大戦後の国際秩序を規定し、東西冷戦の端緒ともなった(ヤルタ体制)。

極東密約(ヤルタ協定)
主に日本に関して、アメリカのルーズベルト、ソ連のスターリン、およびイギリスのチャーチルとの間で交わされた秘密協定。

1944年12月14日にスターリンはアメリカの駐ソ大使W・アヴェレル・ハリマンに対して樺太(サハリン)南部や千島列島などの領有を要求しており、ルーズベルトはこれらの要求に応じる形で日ソ中立条約の一方的破棄、すなわちソ連の対日参戦を促した。

ヤルタ会談ではこれが秘密協定としてまとめられた。

この協定では、ソ連の強い影響下にあった外モンゴル(モンゴル人民共和国)の現状を維持すること、樺太(サハリン)南部をソ連に返還すること、千島列島をソ連に引き渡すこと、満州の港湾と鉄道におけるソ連の権益を確保することなどを条件に、ドイツ降伏後2ヶ月または3ヶ月を経てソ連が対日参戦することが取り決められた。

アメリカからソ連に対する対日参戦要請は早く、日米開戦翌日(アメリカ時間)の1941年12月8日にソ連の駐米大使マクシム・リトヴィノフにルーズベルト大統領とハル国務長官から出されている。

このときはソ連のモロトフ外相からリトヴィノフに独ソ戦への集中と日ソ中立条約の制約から不可能と回答するよう訓令が送られた。

しかしその10日後にはスターリンはイギリスのイーデン外相に対し、将来日本に対する戦争に参加するであろうと表明した。
スターリンが具体的な時期を明らかにして対日参戦の意思を示したのは1943年10月のモスクワでの連合国外相会談の際で、ハル国務長官に対して「連合国のドイツへの勝利後に対日戦争に参加する」と述べたことをハルやスターリンの通訳が証言している。

ヤルタ協定はこうした積み重ねの上に結ばれたものだった。

ドイツが無条件降伏した1945年5月8日の約3ヵ月後の8月9日、協定に従ってソ連は日本に宣戦布告し満州に侵入、千島列島等を占領した。
しかし、ソ連参戦の翌日(1945年8月10日)に日本がポツダム宣言受諾を連合国側に通告したため、戦争末期(9月2日の降伏文書調印まで)のきわめて短期間のソ連の戦果に対して日本の領土を与えるという、結果としてソ連に有利な内容になった。

なお、1956年に共和党アイゼンハワー政権は「(ソ連による北方領土占有を含む)ヤルタ協定はルーズベルト個人の文書であり、米国政府の公式文書ではなく無効である」との米国務省公式声明を発出している。

また、アメリカ合衆国上院は、1951年のサンフランシスコ講和条約批准を承認する際、決議において「この承認は合衆国としてヤルタ協定に含まれているソ連に有利な規定の承認を意味しない」との宣言を行っている。

その他の国について
台湾について、米ソ両国はカイロ会談で決定していた中華民国への返還を改めて確認した。

また、朝鮮半島は当面の間連合国の信託統治とすることとした。
しかし、米ソの対立が深刻になると、その代理戦争が朝鮮戦争となって勃発し、朝鮮半島は今に至るまで分断されている

抜粋
http://ul.lc/57p1(wikipedia)より 
http://ul.lc/57p2(wikipedia)より

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