【今日の歴史】1964年8月24日の事【人間が一番怖い】

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高島忠夫長男殺害事件

高島忠夫長男殺害事件(たかしまただおちょうなんさつがいじけん)は、1964年(昭和39年)8月に発生した殺人事件である。

高嶋家の惨劇
高嶋家の惨劇

1964年8月24日の未明、東京都世田谷区上野毛に在住の俳優・高島忠夫方より警察及び消防へ「息子が風呂に沈められ、部屋が荒らされている」との通報があった。

同日午前2時40分頃、高島宅に住み込みで働いている女中Aが「長男(高嶋道夫[1]・生後5カ月)の姿が見当たらない」と高島夫妻に連絡し、ただちに高島夫妻(高島忠夫・寿美花代)と女中Aが家中を探し回った。
室内は物色されており、風呂場できちんと蓋の閉まった風呂桶の中に沈められている長男が発見されて大騒ぎとなった。
警察や消防への通報と共に、長男はただちに自宅近くの小倉医院へ搬送されたが、既に心肺停止状態であり、人工呼吸などが試みられたが助からなかった。通報を受けた警視庁捜査1課と所管の玉川警察署は、殺人事件として捜査を開始した。

犯人逮捕
事件に最初に気がついた女中Aは「当日夜に窓の外を不審な男が歩いてるのを見た」「長男が激しく泣いてるのを聞いた」などと証言した。
しかし調べてみると…。
「女中A以外に不審者を見た者はいない」
「女中A以外に長男の泣き声を聞いた者はいない」
「高島家では犬を飼っており、この犬は普段から不審者が近づくと激しく吠えるが、当日夜に犬は吠えていない」
「普段、全員が風呂に入り終わった後に女中Aが風呂桶の残り湯は抜くことになっていたが、この日に限り女中Aは風呂桶の湯を捨てていない」
「犯人が物取り目的で押し入ったのならば、生後わずか5カ月の赤ん坊に姿を見られたとしても、その歳の赤ん坊なら証人になるわけもなく殺すというのは不自然」
「長男を風呂桶に入れてきちんと風呂の蓋を閉めて立ち去るというのも不自然」

など次々と不自然な点が見つかり、これらについて女中Aを問いただしたところ、同日午後1時半頃に女中Aが自分の犯行であることを認めた。

犯行の理由
この女中Aはもともと高島夫妻のファンであり、地元の新潟県の中学校を1963年に卒業してから都内の墨田区にある会社で仕事をしていた。
そして、この墨田区にある会社にたまたま高島夫妻の知人がいる縁で、1963年暮れより高島夫妻宅に住み込みで女中として働くこととなった。

高島夫妻はこの女中をよくかわいがり、また女中も高島夫妻によく尽くしていたが、高島夫妻に長男が生まれた後は「長男へ愛情が移ってしまい、自分は疎遠に扱われるようになった」と感じていた。
そして高島夫妻が仕事でアメリカへ行くことが決まった時に「他の女中へはお土産を買ってくると約束していたのに、自分は何も言われなかった」として思い悩んだ末に犯行に及んだという。

犯行の瞬間
犯行当日、女中Aは高島夫妻の食事の後片付けなど済ませたあと、午前1時過ぎ頃に一人で風呂に入った。
入浴後、自室に戻ったところ隣の部屋から長男のぐずる声が聞こえたため、長男の寝ている部屋へ行ったところ、長男は女中Aの足を掴むなどしてきた。女中Aはこの姿をかわいいと感じて長男を抱き上げ、夕涼み目的で庭先へ出て長男を抱いたまま、あやしたりしていた。
その後、足が汚れたので足を洗おうと長男を抱いたまま再び風呂場へ戻ったが、この時に「この赤ん坊さえいなければ高島夫妻の愛情は私に戻るのではないか」と考え、気がついたら長男を湯船に沈めていたという。
長男は激しく咳き込んだが、女中Aは、なおも長男を湯中に抑えつけた。
そして「このままでは犯行がバレる」と思い風呂から出た後に物取りの犯行に見せかけるため、室内を物色されているように装ったという。

その後
事件翌日の8月25日に自宅にて通夜が営まれ、多数の映画関係者や芸能人などが弔問に訪れた。祭壇には長男の笑顔の写真が掲げられ、またお気に入りだった縫いぐるみなども飾られて弔問客の涙を誘った。通夜の後に記者会見が行われたが、心労が重なったため寿美花代は記者会見に欠席し、高島忠夫が一人で記者会見を行った。
また、女中Aは当時未成年者であったが成人同様に殺人罪で刑事起訴され、1965年6月に東京地方裁判所にて懲役3年~5年の不定期刑を言い渡された。
俳優の高嶋政宏は二男、高嶋政伸は三男である。

抜粋:http://ul.lc/4vzj(wikipedia)より

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