【今日の歴史】1942年10月3日の事

【今日の歴史】1942年10月3日の事

 

V2ロケット詳細
V2ロケット詳細

 V2ロケットが、初の打ち上げ成功

V2ロケットは、第二次世界大戦中にドイツが開発した世界初の軍事用液体燃料ミサイルであり、弾道ミサイルである。
宣伝大臣ヨーゼフ・ゲッベルスが命名した報復兵器第2号 (Vergeltungswaffe 2) を指す。
この兵器は大戦末期、主にイギリスとベルギーの目標に対し発射された。

開発
1927年に結成されたドイツ宇宙旅行協会は、宇宙旅行を目指して1929年頃から液体燃料ロケットを研究していた。
ヴェルサイユ条約で大型兵器の開発を禁止されていたヴァイマル共和国の陸軍は、1932年に同協会が開発中の液体燃料ロケットが持つ長距離攻撃兵器としての可能性に注目、ヴァルター・ドルンベルガー陸軍大尉は、資金繰りに悩むアマチュア研究者だったヴェルナー・フォン・ブラウンらの才能を見抜き、陸軍兵器局の液体燃料ロケット研究所で研究を続けるよう勧誘した。

フォン・ブラウンらはこれに応じて同研究所に参加、1934年12月、エタノールと液体酸素を推進剤とする小型のA2ロケット(質量 500 kg)の飛行実験を成功させた。

1936年までには、チームはA2ロケットの開発計画を終了し、新たに A3 と A4 の開発に着手した。
後者は射程距離 175 km 、最大高度 80 km 、搭載量 約 1 t として設計された。
フォン・ブラウンの設計するロケットは兵器としての現実性を増しつつあり、ドルンベルガーは実験規模を拡大し、かつ研究活動を秘匿するため、開発チームをベルリン近郊のクマースドルフ陸軍兵器実験場 (Heeresversuchsanstalt Kummersdorf) からドイツ北部バルト海沿岸のウーゼドム島ペーネミュンデに新設したペーネミュンデ陸軍兵器実験場 (HVP) に移した。

A4 の約 1/2 スケールモデルの A3 は4回の打上げに全て失敗したため、A5 の設計が始められた。
このバージョンは完璧な信頼性を備え、1941年までに約70基が試射された。

最初の A4 は1942年3月に飛行し、およそ1.6km飛んで海中に落下した。
2回目の打上げでは高度 11.2 km に到達して爆発した。

1942年10月3日の3回目の打上げで成功。
ロケットは完全な軌跡を描き、宇宙空間に到達した初の人工物体となって 192 km 先に落下した。

1940年頃よりイギリス軍情報部は写真偵察からこの開発計画を察知し、1943年8月にペーネミュンデを爆撃した(ハイドラ作戦)。
このため、同年11月より生産テスト・発射訓練部隊は内陸部奥深くの武装親衛隊演習場、ハイデラーガー(Heidelager、現ポーランドのブリツナ Blizna)に移動した。
1944年5月には、試射されたミサイルをポーランド人レジスタンスがブク川の土手から回収し、極めて重要な技術的詳細をイギリスに伝えたこともあり、連合軍はペーネミュンデを数回にわたって爆撃し、研究と生産を遅延させた。

ドルンベルガーは当初よりトラクター牽引式の発射装置を想定し、ロケットのサイズを鉄道・道路での輸送が可能な範囲に留めることを設計条件としていた。
アドルフ・ヒトラーは地下発射陣地に拘り、最初の陣地建設がカレー近くで1943年に開始されたが、イギリスは直ちにこれを爆撃して破壊した。
この一連の作戦はクロスボー作戦 (Operation Crossbow) として著名。

このため地下発射陣地建設計画は破棄され、ミサイル、人員、機器、燃料を乗せた約30台の各種車両から成る技術部隊・発射部隊が編成された。
ミサイルは工場から射場近くまで鉄道輸送され、運搬車 (Vidalwagen) に載せ換えて射場まで道路輸送された。弾頭が取り付けられた後、発射部隊がミサイルを発射台兼用車 (Meilerwagen) に移し、液体燃料を注入して発射した。

ミサイルは事実上どこからでも発射可能で、カモフラージュの観点から特に森林の道路上が好まれた。
射場決定から発射までの所要時間は、4ないし6時間程度で、機動性の高い小部隊だったため、一度として敵空軍に捕捉されたことはなかった。

なお、報復兵器のうち、V1 は空軍所管だったのに対し、V2は陸軍が所管した。
これは、V1 が飛行爆弾で「無人の戦闘機」とみなされたのに対して、V2はロケットで「巨大で高性能な砲弾」と考えられたことによる。

生産と発射
V2 は、ドイツ中部のノルトハウゼン近郊の岩塩採掘抗を利用した工場で、ミッテルバウ=ドーラ強制収容所の収容者により生産された。その多くはフランスとソ連の戦争捕虜で、劣悪な環境の中、そのうち約10,000人が過労死したり、警備員の手で殺された。
皮肉なことに、この数は V2 の実際の攻撃による死者数を遥かにしのいでいる。

最初に運用段階に達したのは第444砲兵大隊で、1944年9月2日、当時解放されたばかりのパリを攻撃すべく、ベルギーのホウファリーゼ近くに発射基地を設営した。
翌日には第485砲兵大隊がロンドン攻撃のためにハーグに移動した。
数日間は打ち上げは失敗に終わったが、9月8日両部隊とも成功した。

1945年3月3日、連合国軍はハーグ近郊の V2 と発射設備を大規模爆撃で破壊しようと試みたが、航法誤差のためベザイデンハウツェ区域が破壊され、市民におよそ500名の死者を出した。

V2 の軍事的効果は限定的であった。ごく初歩的な誘導システムは特定目標を照準できず、コストは4発で概ね爆撃機1機に匹敵した(爆撃機はより遠距離の目標に、より正確に、遥かに多くの弾頭を、幾度も運搬可能)。ただし心理的効果はかなり大きく、爆撃機や特徴的な唸り音を発するV1飛行爆弾と違い、超音速で前触れもなく飛来し、既存の兵器では迎撃不可能な V2 は、ドイツにとって有用な兵器たりえた。
特に、ロンドン市民は連日の攻撃に多大な不安に晒され、市街地への被害も甚大であった。

反面迎撃不可能ゆえに、V2 の攻撃を阻止するには発射基地を制圧する必要があり、かえって連合軍のドイツ侵攻を早める動機づけにもなった。
そのような意味ではドイツの敗北を早めた兵器とも言える。
一方、同じ報復兵器のV1飛行爆弾は低速で迎撃が可能な分、かえってそのために戦力を割かねばならず、戦略的には V2 より効果があったとも言える。

上記の欠点を嫌った軍需大臣アルベルト・シュペーアは、より小型で使い勝手の良い兵器の開発を望んだが、大型兵器による戦局打破に拘ったヒトラーに押し切られ、製造が続けられた。

戦後の V2 の利用
アメリカの「バンパー」の試射(1950年) 戦争の末期には、V2ロケットと技術者たちをできるだけ多く獲得するレースが行われた。

アメリカ軍はペーパークリップ作戦の下で貨車300両分の V2 とその部品を鹵獲し、オルガー・N・トフトイ大佐は、ジョージ・パットン大将率いる第3軍に投降したフォン・ブラウンやドルンベルガー将軍をはじめとする126人の主要な設計技術者をアメリカに連れ帰った。
その後数年間、アメリカのロケット計画は未使用のV2ロケットを活用して進められた。
これらの改良型V2のひとつである2段式の「バンパー」は、1949年2月24日の試験飛行で当時の高度記録である 400 km を達成した。

フォン・ブラウンはアメリカ陸軍のレッドストーン兵器廠に勤務し、1950年からはアラバマ州ハンツビルに居住。
後にレッドストーン、ジュピター、ジュピター-C、パーシングそしてサターンなど、ほぼ全てのアメリカのロケットの生みの親となった。

ソ連もまた多数のV2ロケットと250人余りの技術者を捕らえた。
元共産党員の妻を持つヘルムート・グレトルップ (Helmut Gröttrup) がこのグループを率いた。
彼らはドイツ国内でロケット研究を継続できるという条件でソ連軍に協力したが、1946年にソ連は突如彼らをソ連国内の孤島に隔離収容して、V2ロケットをもとに多くの新しいミサイルの開発を行なわせた。しかし、ドイツ人の設計によるものは一つも生産されたものはなかった。
1950年代にソ連の技術者が十分な経験を積むと、ドイツ人技術者は東ドイツに帰国させられた。

ドイツ人技術者のノウハウをもとに、ソ連が開発したミサイルにはV2のコピーR-1 、射程延伸型R-2、R-3(計画のみ)、ソ連で最初に核弾頭を搭載したR-5およびR-5M(NATO名:SS-3 Shyster)などがある。
スカッド(NATO名:SS-1b/c SCUD、ソ連名称:R-11およびR-17)ミサイルはそれらの技術から発展した戦術ミサイルである。

同様にイギリスは少数のV2ミサイルを捕獲し、いくつかを北ドイツの射場でバックファイア作戦として打ち上げた。
しかし、関係した技術者はすでに、試験完了後にアメリカに移ることに合意していた。

技術
V2の射程距離は、約 1,000 kg の弾頭でおよそ 300 km であった(参考:質量の比較)。
そのほかの仕様は次の通り

構成:1段式液体ロケット
全長:約 14 m
直径:約 1.7 m
離陸時質量:12,800 kg
離陸時推力:27,000 kgf

推進剤は、アルコール(エタノール)と水の混合燃料、及び、液体酸素(酸化剤)である。
混合燃料は重量軽減のためアルミニウムの燃料タンクに貯蔵されたが、アルミニウムは稀少かつ高価であったため、ドイツの戦時経済にとっては大きな負担となった。

燃料は、過酸化水素によって駆動されるターボポンプによって主燃焼室に運ばれる。このときアルコールと液体酸素の混合比が常に適切になるようにいくつかのノズルを通る。
また、燃料は主燃焼機の壁を通るようになっており、これは混合燃料を予熱すると同時に、燃焼機を冷却して過熱による強度低下や溶融を防ぐ働きをしている。

ロケットの進行方向を変えるための燃焼ガスの向きを制御する方式として、推力偏向板(ジェットベーン、Jet vane)が使われた。
これは、現在の大気圏外を飛行するロケットで主流の方式であるジンバル機構(ノズル全体の向きを変える方式)に比べると、燃焼ガスの運動量損失が大きいという欠点はあるが、機構がごく簡単なため、当時の工作技術の下では合理的な選択であった。

ロケットの軌道制御装置として真空管を用いた簡単なアナログコンピュータが用いられた。
試験段階では、ロケットの激しい振動によって真空管のフィラメントが切れたため、制御不能となったロケットが試験場周辺に墜落するという事故が絶えなかったが、原因が分かって防振対策が施されてから安定飛行するようになった。
飛行距離は燃料残量で計算され、燃焼が完了するとロケットは加速を停止し、程なく放物線飛行カーブの頂点(約80km)に達した。しかし、命中精度が低く、兵器としての価値はさほどのものではなかった。
このことから、後期になると地上から送信する電波信号で目標への誘導する方式のものも作られた。

作戦用のV2は大抵何種類かの迷彩パターンで塗装されたが、終戦近くには全面オリーブドラブ塗装も見られた。
試験段階の、特徴的な白と黒(ないし濃色)の市松模様の塗装も、写真が何枚もあり印象的だが、これはセンサーなどの未発達な当時において目視や写真からロケットの姿勢を判断しやすくするための簡単かつ効果的なアイディアで(上のA4実物大模型写真参照)、後にロケット開発に早期に参入した国々の機体にも見られるものがある。

豆知識
小室哲哉とYOSHIKIからなる音楽ユニット「V2」も、V2ロケットから由来する。
ネーミングは小室哲哉によるもので、他に飼い犬を「ユンカース」と命名するなど、彼がドイツ軍マニアであるためだという。

ローリングストーンズのキース・リチャーズは、自分の出生をインタビューで語るときに、よく「ヒトラーのミサイル (V2) がかすめる横で生まれた」とウィットにとんだ発言をしている。

架空戦記の中ではかなり有効な兵器として見られる場合が多く、V2やその発展型が核兵器を搭載し、イギリス本土やアメリカ本土、あるいは日本本土まで攻撃することがある。
一方で史実ではあまり効果がなかったため、開発を縮小、中止にして核兵器やその他の兵器に力を注ぐという作品もある。

トマス・ピンチョンの長編小説『重力の虹』において、V2は重要な役割を果たす。

抜粋:http://ul.lc/504w(wikipedia)より

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