【今日の歴史】1993年10月31日の事

【今日の歴史】1993年10月31日の事
リヴァー・フェニックス
リヴァー・フェニックス

リヴァー・フェニックス 没

リヴァー・ジュード・フェニックス(River Jude Phoenix、本名:同じ、旧姓:River Jude Bottom/リヴァー・ジュード・ボトム、1970年8月23日 – 1993年10月31日)はアメリカ合衆国出身の映画俳優。

【生涯】

幼少期
カトリック教徒で大工の父とハンガリー系=ロシア系正統派ユダヤ教徒の母との間に、5人の子のうちの長男として、アメリカ合衆国オレゴン州マドラスの地にリヴァー・ジュード・ボトム(River Jude Bottom)という名で誕生した。
ヘルマン・ヘッセの『シッダールタ』で出て来る「川」がリヴァーという名の由来とされる。

両親が宗教団体「神の子供たち」(現在のファミリー・インターナショナル)の活動家だったことで、幼少の頃は南アメリカの各地を転々とする生活で、5歳のときにはベネズエラのカラカスで妹とともに舞台に立って歌うなどということもあった。

1991年11月の雑誌Detailsのインタビューで、「神の子供たち」に居た頃、リヴァーは4歳の時に童貞喪失をしたと述べた。雑誌で「でも、それをさせないようにした。10歳から14歳までは、そのようなことは一切していない(禁欲的だった)」と言う言葉を引用した[4]。リヴァーの事務所代表は、リヴァーに対し「冗談だった」と発言を撤回するよう圧力を掛けたと報じられている。

1994年、雑誌『エスクァイア』は「あいつらは気持ち悪い…あいつらは人の人生を駄目にしている」と、怒りながらカルト(現在のファミリー・インターナショナル)のことを話すリヴァーの言葉を引用した。

1977年に帰国し、カリフォルニア州のロサンゼルスに移る。灰から甦るフェニックスのように、自分たちの新しい人生への再生の意味を込め、家族で本姓自体をフェニックス(Phoenix)に改めた。

貧しい家庭に育ち、妹と共に、路上でパフォーマンスをして生活費を稼いでいた。
『スタンド・バイ・ミー』で有名になってから、フェニックス家は車を買うことができたという。

俳優へ
母がNBCの職に就いたことで10歳にして初めてテレビに出演。
CMやテレビシリーズの仕事を経て、1985年、『エクスプロラーズ』で映画俳優としてのデビューを飾った。
1986年には青春映画・『スタンド・バイ・ミー』への出演で注目を集める。

1988年出演の『旅立ちの時』でアカデミー助演男優賞にノミネートされるなど、数多の映画への出演をもってスターダムへの階段を駆け上がっていった。
1991年配給の『マイ・プライベート・アイダホ』ではヴェネツィア国際映画祭の男優賞を受賞。
代表作とされるこの作品での演技は俳優仲間にも評判が良かったという。


ザ・ヴァイパー・ルーム – サンセット・ストリップ 1993年、当時ジョニー・デップが共同所有者のひとりであったウェスト・ハリウッドのナイトクラブ、ザ・ヴァイパー・ルームの入口付近で、ヘロインとコカインの過剰摂取を原因とする心不全で死亡。
その最期は親友であるレッド・ホット・チリ・ペッパーズのベーシスト、フリーに看取られた。23歳だった。

出演予定だった『インタビュー・ウィズ・ヴァンパイア』のインタビュアー役は代わってクリスチャン・スレーターが演じる事となった。

予定ではダーク・ブラッド(未完成)を完成させて、すぐに11月30日からインタビュアーが登場するシーンの撮影を始める事になっていた矢先のことであった。

またワン・ホット・ミニットのTranscendingという曲はリヴァーの為にリヴァーの親友であるアンソニー・キーディスとフリーが作ったもの。

遺体はフロリダ州で火葬され、遺灰は故郷のフロリダで空中散布された。
そのため墓所がなく、その代わりとしてか、薬物中毒で倒れたザ・ヴァイパー・ルームの店先に今も世界各地からファンが巡礼に訪れる。

遺族
弟ホアキン・フェニックスは、現在俳優として成功している。
ホアキンが初めて主役級の役を得たのは1995年、ガス・ヴァン・サント監督の『誘う女』で、ニコール・キッドマンと共演した。
妹のレイン・フェニックスもヴァン・サント監督の映画『カウガール・ブルース』に出演。
妹である女優サマー・フェニックスは、俳優ケイシー・アフレック(ベン・アフレックの弟)と2006年に結婚している。

プライベートではマーサ・プリンプトン、サマンサ・マシスと交際していたこと、『殺したいほどアイ・ラブ・ユー』や『マイ・プライベート・アイダホ』で共演したキアヌ・リーブスと特に親しかったことは有名。

遺作
2012年9月、未完成のままお蔵入りされていた遺作 ダーク・ブラッド “DARK BLOOD” (1993)が、ジョルジュ・シュルイツァー監督の地元オランダでプレミア上映された。

エピソード
生前、アメリカの『プレミア』誌でインタビュアーの役について語っていた。
「吸血鬼にあまり興味がわかないんだ。救いなのはインタビューする方で客観的に見ていられる事だね。」

ニール・ジョーダンの脚本も、原作者アン・ライスの筋書きも、殺しと同じくらいエロティックさを強調している事で、「エロティックなシーンと血まみれのシーンとが背中合わせって言うのが不気味だよ。吸血鬼の世界ではそれがセクシーなんだろうね。」とリヴァーは語っている。

レッド・ホット・チリ・ペッパーズのフリーとは親友の間柄であった(彼がドラッグ中毒で死亡した際に救急車に同乗したのはフリーだった)。

単なるセックスシンボルと見られることを非常に嫌っていたようである。

麻薬中毒
反麻薬活動をおこなっていたリヴァー彼自身が、急性麻薬中毒で倒れたという出来事は大々的に報道された。

検事が詳細な解剖結果を公表したことで、リヴァーが麻薬を使用したという事実を今や誰も否定できなくなってしまった。
一方、その後しばらく続いた過剰ともいえる各社の取材・報道から、彼の生い立ちが次々と明らかになったということもある。

リヴァーが死に至る以前から麻薬を使用していたという事実は、周囲の目撃証言、彼の体調の変化からほぼ確定的と言ってもよい。
最も早いものでは、スタンド・バイ・ミーの共演者であるコリー・フェルドマンが映画の撮影中に、リヴァーが楽屋でマリファナを吸っていて彼がハイになっているのを見たという話がある(当時コリーもマリファナを使用していたと本人は語る)。
ただ、この件に関してはリヴァーはその場で「自分のものではない」と否定している。

「神の子供たち」とは?
リヴァーは幼い頃からヒッピーである両親に連れられて各地へ飛んだが、このとき両親の考え方からカルト教団「神の子供たち」(現在のファミリー・インターナショナル)への参加を余儀なくされた。

この教団は、大人、子供に限らずセックスを奨励していたため、教団に所属していた幼児同士もセックスをしたという。
リヴァー自身もこれに参加したことを認めており、この出来事がその後の性に対する混乱を招いたと語る。
また早くして性経験をしたために将来の自分を変にしてしまうのではないかと悩んでいた時期もあった。

ヴィーガン(完全菜食主義者)
リヴァーのヴィーガン/ヴィーガニズム(完全菜食主義者)としての生き方は両親の信念に基づいている。

かつて父ジョンと母アーリンが「神の子供たち」(ファミリー・インターナショナルの旧名)でおこなわれている性的虐待行為に嫌気が指したあとに目指したものが、ヴィーガンとしての生き方であった。
リヴァーは生涯ヴィーガンとしての生き方をつらぬき、飼い犬までにヴィーガンを徹底しているという本人のインタビューが残っている。

エピソードとしては、ガールフレンドだった女優のマーサ・プリンプトンがレストランでクラブサンドイッチを注文したとき、リヴァーは失望して泣き出してしまったという。
またスタンド・バイ・ミーの宣伝のために来日した際に、入ったそば屋のそばつゆに鰹節が使われていることを知り、思わず箸を置いたという出来事を『笑っていいとも』で語った。

抜粋:http://ul.lc/54gm(wikipedia)より

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