【今日の歴史】1948年1月30日の事【ガンジー暗殺】

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マハトマ・ガンディー
マハトマ・ガンディー

ヒンドゥー至上主義者に暗殺

モーハンダース・カラムチャンド・ガーンディー(ラテン文字表記:Mohandas Karamchand Gandhi、1869年10月2日 – 1948年1月30日)は、インドのグジャラート出身の弁護士、宗教家、政治指導者。

マハトマ・ガンディー(=マハートマー・ガーンディー)として知られるインド独立の父

「マハートマー」とは「偉大なる魂」という意味で、インドの詩聖タゴールから贈られたとされているガンディーの尊称である(自治連盟の創設者、アニー・ベザントが最初に言い出したとの説もある)。

また、インドでは親しみをこめて「バープー」(「父親」の意味)とも呼ばれている。
日本語では「ガンジー」とも表記される。

1937年から1948年にかけて、計5回ノーベル平和賞の候補になったが、受賞には至っていない。ガンディーの誕生日にちなみ、インドで毎年10月2日は「ガンディー記念日」(ガーンディー・ジャヤンティー)という国民の休日となっており、2007年6月の国連総会では、この日を国際非暴力デーという国際デーとすることが決議された。

人物
南アフリカで弁護士をする傍らで公民権運動に参加し、帰国後はインドのイギリスからの独立運動を指揮した。

その形は民衆暴動の形をとるものではなく、「非暴力、不服従」(よく誤解されているが「無抵抗主義」ではない)を提唱した。

この思想(彼自身の造語によりサティヤーグラハ、すなわち真理の把握と名付けられた)はインドを独立させ、イギリス帝国をイギリス連邦へと転換させただけでなく、政治思想として植民地解放運動や人権運動の領域において平和主義的手法として世界中に大きな影響を与えた

特にガンディーに倣ったと表明している指導者にマーティン・ルーサー・キング・ジュニアダライ・ラマ14世等がいる。

性格的には自分に厳しく他人に対しては常に公平で寛大な態度で接したが、親族に対しては極端な禁欲を強いて反発を招くこともあったという。なお、インドの政治家一族として有名な「ネルー・ガーンディー・ファミリー」(インディラー・ガーンディーら)との血縁関係はない

生い立ち
イギリス領インド帝国、現在のグジャラート州の港町ポールバンダルで、当時のポールバンダル藩王国の宰相カラムチャンド・ガーンディーと、その夫人プタリーバーイーの子として生まれた。

ポールバンダルの小学校に入学後、ラージコートの小学校に入りなおす。
成績が悪く融通もきかない面があった

小学校時代は素行も悪く、悪友にそそのかされて、ヒンドゥー教の戒律で禁じられている肉食を繰り返していただけでなく、タバコにも手を出し、タバコ代を工面する為に召し使いの金を盗み取ったこともあった。

その後、12歳でアルフレッドハイスクールに入学。

13歳の若さ(インド幼児婚の慣習による)で生涯の妻となるカストゥルバと結婚

18歳でロンドンに渡り、インナー・テンプル法曹院に入学し、法廷弁護士となるために勉強する。

弁護士に
南アフリカ時代のガンディー (1895年) 卒業後、1893年にはイギリス領南アフリカ連邦(現在の南アフリカ共和国)で弁護士として開業した。

しかし、白人優位の人種差別政策下で、鉄道の一等車への乗車を拒否され荷物もろとも放り出されるなどの強烈な人種差別を体験したことで、イギリス領南アフリカ連邦の人種差別政策に反対し、インド系移民の法的権利を擁護する活動に従事するようになる。

1880年代以降、ガンディーはインドの宗教的叙事詩・バガヴァッド・ギーターとロシアの小説家・レフ・トルストイの影響を受けていたが、『新約聖書』の「山上の垂訓」など基督の十字架の道を深く理解し、「非所有」の生涯を決意する。

後の非暴力運動思想を形成していく。

20世紀初頭には、南アフリカ連邦となり、1913年原住民土地法が制定されるなど人種差別政策の体制化が進んだ南アフリカにおいて、インド系移民の差別に対する権利回復運動を行った。

1908年初めて逮捕され、その後1913年にトランスバールの行進を企画し初めて投獄された。
しかし、不正を追及し撤廃させ初めて勝利を手にした。

ダーバン近郊でアーシュラマ共同農園を創設
そこで、禁欲、断食、清貧、純潔を実践し、精神面を強化し、イギリスからの独立を展望している。

この時の経験は1915年にインドに帰国してからの民族運動にも生かされている。

イギリスによる裏切り
1914年に第一次世界大戦が起こると、イギリスは将来の自治を約束して、植民地統治下のインド人に協力を求めた

ガンディーはこの約束を信じ、インド人へイギリス植民地軍への志願を呼びかける運動を行った。

「私は、インド人は戦争に協力すべきである、と思った。イギリスの危機をインドのチャンスに変えてはいけない。戦争が続いている間、要求を突きつけることなく大英帝国に協力したほうがかえってインドの利益になる。だから私は、人々に志願兵を応募するように呼びかけた。大英帝国を通じて自分の民族の現状を改善しようと期待していたのだ。」

しかし戦争がイギリスの勝利に終わっても、自治の拡大は、インド人が期待したほどの速度では進行せず、またドイツからの援助を受けていた一派による蛮行を抑えるため、インド帝国政府は強圧的な「ローラット法」を制定するにいたる。

ローラット法とは
テロ組織による判事の暗殺、陪審員への脅迫が相次いだため、破壊活動の容疑者に対し令状なしの逮捕、裁判なしの投獄、陪審員によらない裁判を認めた
正式名称は「刑事法緊急権限法 」。
法制定に大きな役割を果たしたローラット委員会 の長であるシドニー・ローラットの名を冠して「ローラット法」と通称する。

さらに1919年4月13日には、パンジャーブ地方アムリットサル(シク教の聖地)でスワデーシー(自分の国の意で国産品愛用)の要求と、ローラット法発布に対する抗議のために集まった非武装の市民に対して、グルカ族およびイスラーム教徒からなるインド軍部隊が無差別射撃し数百人を虐殺した「アムリットサル事件」が発生した。

この一連のインド帝国政府の態度は、ガンディーに「イギリスへの協力が独立へとつながらない」という信念を抱かせるようになった。

不服従運動
第一次世界大戦後は、独立運動をするインド国民会議に加わり、不服従運動で世界的に知られるようになる。

またイギリス製品の綿製品を着用せず、伝統的な手法によるインドの綿製品を着用することを呼びかけるなど、不買運動を行った。

こうした一連の運動のために、ガンディーはたびたび投獄された

例えば1922年3月18日には、2年間の不服従運動のために、6年間の懲役刑の判決を受けている。

第一次の不服従運動は、1922年にインド民衆が警察署を襲撃して20人ほどの警官を焼死させる事件が発生し中止されたが、1930年より不服従運動は再開された。

とりわけ、「塩の行進」と称されるイギリスの塩税に抗議した運動は有名である。

ガンディーが不服従運動のための協力者の要員を募集する際のその条件は、やはり多くの人と信頼を構築でき、その協力を得られるような人格者であったが、この「非暴力運動」に参加すること自体でも、暴力で運動を止めさせようとする兵士に対して反撃を行わず、逃げもしないという非常な勇気が必要とされ真の強さと忍耐が必要とされる。

非暴力の思想はインドと距離的に近い西アジアなどでも見られ、アジアで生まれたヒンドゥー教イスラーム教仏教キリスト教でそれはあてはまり、アジアの思想に共通するという思想からガンディーは自分はヒンドゥー教徒であり、イスラム教徒でもあり、また、原始キリスト教という意味ではキリスト教に賛同するとして宗教グループ間や世界の人々に対話を呼びかけた。

カースト制度
ガンディーは、カースト制度を職業の分担という観点から肯定的にとらえていた。

生涯を通して、「不可触民」制度を撤廃する活動に精力的に励んだもののカースト制度そのものの制度廃止には賛成しなかった

このようなカースト制度は容認してもカーストによる社会的差別に反対する姿勢は、同時期の政治指導者に多く見られる。

このため、インドにおける仏教革新運動の指導者であるB・R・アンベードカルと意見を対立させている。

第二次世界大戦
インド国民会議派元議長のスバス・チャンドラ・ボースラース・ビハーリー・ボースA.M.ナイルなど、インド国外でイギリスに対する独立闘争を続けていた独立運動家は、「欧米帝国主義国の植民地からの解放」を掲げた日本がイギリスの間で1941年12月に開戦し、その後日本軍が香港やマレー半島などの東南アジア一帯のイギリスの植民地からイギリス軍を放逐した直後に、日本の支援を受けてインド国民軍を組織し、インドの外側から軍事的にイギリスに揺さぶりをかけようとした

しかしインド国内に留まっていたガンディーは、この様な動きに連携することはなかった

ただし、日本軍が英米をはじめとする連合国軍を撃破し続け、インド洋からイギリス海軍を放逐しインドに迫った1942年初頭から1943年中盤の時期には、日本との連携を模索する姿勢を見せていたことが指摘されている。

実際に1942年には、日本軍のインドへの接近にあわてたイギリスが、インドをイギリス連邦内自治領として認めるとしたことでインド人の懐柔を狙おうとしたが、イギリスの魂胆を見抜いたガンディーはこれを拒否し、民衆は「クイット・インディア」(インドから出ていけ)を掲げ、その結果2年間投獄されることとなった。

しかし、同時にガンディーは「すべての日本人に」と題された声明を発表し、「欧米帝国主義国の植民地からの解放」を掲げつつも、強権的かつ人種差別を明確に掲げるドイツやイタリアと組み覇権主義的な行動を見せつつある日本の姿勢に対する疑問を明らかにした

独立
1945年9月に第二次世界大戦が終結しイギリスは戦勝国となったが、日本やドイツとの戦いで国力は衰退し、もはや、本国から遠く離れている上に独立運動が根強く続けられてきたインドを、植民地として支配していくことは困難であった。

さらにはチャンドラ・ボースやラース・ビハーリー・ボース、A.M.ナイルらが設立したインド国民軍の一員として、これを支援した日本軍とともにイギリス軍やアメリカ軍、オーストラリア軍などと戦ったインド人将官が、イギリス植民地政府により「反逆罪」として裁判にかけられることとなった。

これに対してガンジーは、「インドのために戦った彼らを救わなければならない」とインドの国民へ独立運動の号令を発した。

この運動をきっかけに再びインド全体へ独立運動は広がり、これに耐えることができなくなったイギリスはインドの独立を受け入れ、1947年8月15日にデリーの赤い城にてジャワハルラール・ネルーヒンドゥー教徒多数派地域の独立を宣言し、イギリス国王を元首に戴く英連邦王国であるインド連邦が成立した(その後1950年には共和制に移行し、イギリス連邦内の共和国となった)。

なお、ガンディーの「ヒンズーとイスラームが融合したインド」との思い通りにはいかず、最終的にイスラーム教国家のパキスタンとの分離独立となった。

暗殺
ガンディーはヒンドゥー教徒だけでなくイスラーム教徒にも影響を与えている

1947年8月のインドとパキスタンの分離独立の前後、宗教暴動の嵐が全土に吹き荒れた。

ガンディーは何度も断食し、身を挺してこれを防ごうとした
しかし、ヒンドゥー原理主義者からはムスリムに対して譲歩しすぎるとして敵対視された。

1948年1月30日、ガンディーはニューデリーのビルラー邸で狂信的なヒンドゥー原理主義集団民族義勇団の一人ナートゥーラーム・ゴードセーらによって暗殺された。

3発のピストルの弾丸を撃ち込まれたとき、ガンディーは自らの額に手を当てた

これはイスラーム教で「あなたを許す」という意味の動作である。

そして、ガンディーは「おお、神よ」(「ヘー ラーム」)とつぶやいてこの世を去った

78歳であった。

国葬が行われ、遺灰は、ヤムナー川ガンジス川南アフリカの海に撒かれた。

沈黙の日
ガンディーは週に一度を沈黙して過ごした

話すのを控えることで、心の平穏が得られると信じたのである。

これは モウナ(沈黙)シャーンティ(平穏) というヒンドゥー教の理念から来るものであった。

沈黙を守る日には、筆談によって他人と意思疎通した。

ガンディーは37歳からの3年半、騒然とした世界情勢は心の平穏ではなく混乱をもたらすとして、新聞を読むことを拒んだ

現代におけるガンディー
独立後半世紀以上もの年月が経つにつれ、ガンディーならびに彼の思想はインドの社会一般において往時のような無批判な賞賛という扱いは受けなくなってきている

独立後20年近くの期間にも渡って国民会議がインド全土で政権の座を握り続けていられたのは「独立の父ガンディーの威光によるところも大きく、それゆえ独立後間も無く暗殺されたガンディーは殊更に神格化されてきたとも言える。

しかしながら、ガンディーの後継者とされた独立後初代首相のネルーは、経済政策の上ではガンディー主義(Gandhism)真っ向から対立するネルー主義(Nehruvism)開発経済体制を導入し、生前ガンディーが反対していた産業の機械化・工業化を積極的に推し進めた。

このため、インドで多くの人々がガンディーを「国家を独立に導いた偉大な人物」として表向きには称える一方、その反面では彼の人物像やその思想に対して「時代遅れで非現実的」という評価を下す風潮が顕在化してきた。

ネルーが独立直後にイギリス政府高官に

「ガンディーはあくまでインドを引き裂いてはならないという。しかしイスラーム教徒は我々がいかなる妥協を示しても自分達の国家をつくると言って譲らない。インド各地で起きている血塗れの惨劇はエスカレートするばかりである。我々は敢えて頭痛から逃れる為に、頭を切り落とさなければならない。最早ガンディーのような立場は非現実的である。残念ではあるが、ガンジーは今政治の中心から逸れてしまっている」

と述べたように、当時から現在までイスラム教徒と他教徒との争いは顕在化しており、そうした実態を結果的に無視する形となった宥和政策も、民衆感情に反するものであった。

そのような状況の中、新たな形でのガンディー再考の試みが映画や演劇などの分野でなされてきている。

なかでも現在インドで最も注目を集めているのが、2006年にインドで公開された『Lage Raho Munna Bhai』(ラゲー・ラホー・ムンナー・バーイー)というヒンディー語映画である。

作品中ガンディーは、主人公である街のヤクザ者にだけ見える存在として登場し、DJとしてラジオで電話相談をする事になった主人公の口を通して街の人々に様々なアドバイスを与えている。

この作品は、いくつもの批判を呼び起こしながらも、人々が新たな角度からガンディーについて考え直す大きな契機を作り出す事に成功し、娯楽作品としての大ヒットも合わせて大きな注目を浴びた。

特にこの映画中で提唱された「ガーンディーギリー」という言葉は、ガンディー主義を意味する旧来の「ガーンディーヴァード」という言葉が帯びていた、「理念的過ぎて現実的ではない」というイメージを払拭する役割を果たし、にわかにインドでの流行語ともなっている。

ガンディーと日本
第二次世界大戦中、ガンディーは1942年7月26日に「すべての日本人に」と題する以下の公開文書を発表した。

私は、あなたがた日本人に悪意を持っているわけではありません。あなたがた日本人はアジア人のアジアという崇高な希望を持っていました。しかし、今では、それも帝国主義の野望にすぎません。そして、その野望を実現できずにアジアを解体する張本人となってしまうかも知れません。世界の列強と肩を並べたいというのが、あなたがた日本人の野望でした。しかし、中国を侵略したり、ドイツやイタリアと同盟を結ぶことによって実現するものではないはずです。あなたがたは、いかなる訴えにも耳を傾けようとはなさらない。ただ、剣にのみ耳を貸す民族と聞いています。それが大きな誤解でありますように。 あなたがたの友 ガンディーより。

ガンジー暗殺後の1948年2月3日、東京・明治大学講堂に在京インド人代表が集まり、暴力に倒れたガンジーの追悼講演会が開かれた

抜粋:http://ul.lc/5bmm(wikipedia)より

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