【今日の歴史】1959年8月27日の事

【今日の歴史】1959年8月27日の事
左:アイルトン・セナ、右:ゲルハルト・ベルガー
左:アイルトン・セナ、右:ゲルハルト・ベルガー

悪戯っ子:ゲルハルト・ベルガー誕生日!

ゲルハルト・ベルガー(Gerhard Berger、1959年8月27日 – )は、オーストリア(チロル州ヴェルグル)出身の元F1ドライバー。
「ガーハード・バーガー」等の表記がなされることもある。愛称は「ガーディ」。

明るい性格で知られ、人望を集め多くの友人を持つ。友人が少ないことで知られていたアイルトン・セナとも、最大の親友とされる。
F1の組織化・商業化が進み、ドライバーの没個性が嘆かれる時代に、かつての大らかなレーサー気質を受け継いだ存在として、その悪ガキぶりはチームやメディア関係者に愛され大目に見られていた。

戦績
通算10勝はF1の通史で見れば多い方の数字であるが、超一流のドライバーと比較すれば劣る。しかしその多くが印象に残る状況で挙げられたことから「記録よりも記憶に残るドライバー」の一人としてよく名前が挙がる。
10勝全てが、ある条件における初勝利、最後の勝利、チームにおいて久しぶりの勝利または唯一の勝利に該当する。故にこれらは「記憶に残る勝利」と評される。
初優勝:1986年メキシコGP – 自身の初優勝が、ベネトンチームにとっての初優勝。
2勝目:1987年日本GP – 低迷していたフェラーリにとって、1985年ドイツGP以来となる2年ぶり・37戦ぶりの勝利。自身初のポールトゥーウィンでもある。
3勝目:1987年オーストラリアGP – 1981年モナコGP-スペインGP以来、6年ぶり・104戦ぶりとなるフェラーリの連勝であり、自身にとって唯一の連勝。同時に自身初のハットトリック、更に全周回1位で自身唯一となるグランドスラムも記録。
4勝目:1988年イタリアGP – エンツォ死去直後に地元での1-2フィニッシュ。またこの年マクラーレン勢以外での唯一の勝利。
5勝目:1989年ポルトガルGP – 参戦した15戦中12戦リタイヤというシーズンの中、完走した数少ないレースで挙げた勝利。
6勝目:1991年日本GP – 最終ラップの最終コーナーで、セナに露骨に譲られた形でのマクラーレン移籍後初勝利。
7勝目:1992年カナダGP – チームメイトのセナや当時、コンストラクターズポイントランキング独走中のウィリアムズ勢がリタイヤする中、着実なレース運びで2年前のリベンジを果たす。自身初めて9月以降の開催でないレースで勝利し、また、マクラーレン移籍後自力で得た初の勝利でもある。
8勝目:1992年オーストラリアGP – ホンダの2期活動における最後のレースで優勝。2006年にジェンソン・バトンが勝利するまで、ホンダエンジン最後の優勝であった。
9勝目:1994年ドイツGP – 低迷を続けていたフェラーリにとって、1990年スペインGP以来となる4年ぶり・59戦ぶりの勝利。自身2度目のフェラーリ復活の勝利。
10勝目(最終優勝):1997年ドイツGP – 3戦欠場後、復帰レースでの完全勝利。自身最後の勝利が、ベネトンチームにとっても最後の優勝。さらにポールポジション、ファステストラップも記録し、最後の優勝はハットトリックで占めた結果となった。

かつては「Rの付く月にしか勝てない(5月から8月には勝てない)ドライバー」といった異名もあった。
またF1ドライバーとしてキャリアは13年と比較的に長く、グランプリには通算210戦出走した。これは彼が引退した1997年当時、リカルド・パトレーゼの256戦に次ぐ歴代2位の記録だった。

パイロットとして
ベルガーの速さの魅力として、高速コーナーでの天性のスピード感覚が挙げられる。これはチ-ムメイトのセナも認めた部分であり、実際にメキシコのロドリゲス・サーキット、イタリアのモンツァ、ドイツのホッケンハイムなどの高速コースで勝利を飾っている。
また、鈴鹿サーキットの130Rでは唯一全開にできたドライバーとされ、1991年の予選で記録したポールタイムは2001年にミハエル・シューマッハが更新するまで10年間にわたり鈴鹿サーキットのコースレコードであった。
反面、低速コースはやや苦手にしており、一時期「多角形コーナリング」にトライしたこともあったが、その効果は実証されるほどではなかった。
もちろんトップレベルの実力者ではあったが、コンスタントに速さを発揮できるタイプではなかった。

終盤戦のレースには非常に強く、6月に開催だった1992年のカナダGPで優勝するまでは、すべて9月以降の開催のレースで優勝していた。
また、シーズンの獲得ポイントの半分以上を9月以降の開催だったレースだけで獲得したシーズンもいくつかあった。
その中でも特に、1985年と1989年のシーズンは、獲得ポイントすべてが9月以降の開催のレースのみでポイントを獲得していた。そのため、一部のF1関係者からは「秋男」といわれていたこともあった。

マシンの好みは、コントローラブルなマシンを好むとされ、ベネトン移籍時のテストでは同僚のアレジが乗りこなせていた「シューマッハスペシャル」のピーキーなマシンに手を焼くこととなった。

また、マクラーレン移籍時には身長185cmとF1ドライバーとしては長身の体がハンディとなった。身長174cmのセナに合わせて作られたコクピットはベルガーには狭すぎ、移籍初戦のアメリカGPでは2位走行中ペダルに足が挟まり単独クラッシュしている。

勝てる位置につけながらミスや不運で逸したレースが幾度かあり、1987年のポルトガルGPではトップ走行中に単独スピンし、プロストに当時の通算最多勝新記録更新(28勝)を贈っている(スピンの原因については、後方から接近するプロストのプレッシャーがブレーキングミスにつながったと自伝の中で語っている)。
1990年のカナダGPでは、マクラーレン移籍後初の快走を見せトップでチェッカーを受けたもののフライングが発覚・決勝タイムに1分加算されるペナルティを受け優勝を逃した。
同年の日本GPでは、セナとプロストがスタート直後の第1コーナーで絡んで両者リタイアした後、次の周の1~2コーナーで、単独スピンコースアウトしリタイヤ。ベルガーは、自分のミスを恥じピットに帰らず、ホテルに直帰したという。地元レースとなるホンダ陣営は、スタート後わずか数分でレースを終える羽目になった。
1995年のイタリアGPでは、同僚アレジの背後に着けワンツー走行中、アレジ車から落下した車載カメラが直撃してリタイアという信じられない出来事もあった。

引退後
ドライバー引退後は1999年からBMWのF1参戦にモータースポーツディレクターとして関与し、エンジン供給先のウィリアムズとの仲介役を務めた。
2003年9月に家業である運送会社(ベルガー運送)の再建を手伝うためとして同職を辞任。

2006年2月、自身が所有する運送会社の株式50%をレッドブル社に譲渡し、合弁会社を設立。これにあわせ、F1チームのスクーデリア・トロ・ロッソの株式50%をレッドブル社との交換により取得し、共同オーナーとなる。
それと同時に、レッドブル・レーシングも含め、レッドブルのF1活動全般についてのアドバイザーという形で、再びF1の世界に戻った。
2008年11月25日にベルガーが所有するトロ・ロッソの株式をディートリッヒ・マテシッツに売却することを発表した。

以後暫くの間モータースポーツ界から離れていたが、2011年12月に国際自動車連盟(FIA)・シングルシーター委員会の委員長に就任、モータースポーツの表舞台に復帰した。
シングルシーター委員長としては2013年にFIA F4構想を公表するなど、いわゆるジュニア・フォーミュラに属するカテゴリの再編を狙う施策を打ち出している。

2014年3月、スキー事故で上腕を骨折。
この影響で握力が大きく低下し、ドライビングには問題はないものの、ペンを握るのも困難な他レーシンググローブをはめるのにも他人の手を借りる必要があるほどになってしまった

豆知識
チロル地方出身で、学生時代はオーストリアのアルペンスキー強化選手としても活躍した。
現役時代はプレイボーイとしても知られ、女性のファンも多かった。
1986年のベネトン在籍時のこと、180cmを越える長身があだとなりレース中にヒジやヒザをコックピット内壁に強打することが多かったベルガーを見かねたチームスタッフは、ベルガーにニーパッドとエルボパッドを付けさせてレースに出走させていた。
1989年、炎上事故により入院するハメになったが、病室を訪れた取材陣の前でマクラーレンのステアリングを握りながら大あくびをするパフォーマンスを披露する。
1990年マクラーレンに移籍した際、ベルガーの悪戯好きを知るスタッフが「セナは神経質で気難しいから、あいつにだけはイタズラはするな」と釘を刺した。にもかかわらずメキシコGP開催中、ホテルのセナの部屋の各所に腐った魚とチーズを隠しておいた。
1991年にロン・デニスとその夫人、セナとワニ園を見学中、ワニが見える橋の上からデニスを沼に突き落とし、「助けてくれ」と叫びながらはいあがろうとするデニスをセナと共謀して足蹴にしつつ、助けることと引き換えに翌年の年俸アップを要求した(実際には落とした場所はワニがいないはずの場所だと二人は知っていた)。
1992年南アフリカGP後、セナのパスポートの顔写真の部分をこっそり女性のヌード写真にすり替えておいた。セナは空港でチェックされるまで気付かず、空港で数時間立ち往生する羽目になった。
1997年最終戦で引退レースであるヨーロッパGP、最後だから、と決勝日のドライバーズパレードのトラックの運転手を引き受け、荷台の上のドライバーたちが笑顔で愛嬌を振りまいているところ、突然急ブレーキをかける。現役時代最後の悪戯 。
深夜、フジテレビの中継スタッフが打ち合わせがてらの飲み会をしているホテルの部屋に突如ベランダ伝いに侵入してきたベルガーは、「リサ(当時 F1番組のアシスタントをしていた平子理沙)の部屋はどこ?」と尋ね、スタッフが部屋番号を教えると、またベランダ伝いにその方向に消えていった。

抜粋:http://ul.lc/4w7f(wikipedia)より





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