【今日の歴史】1910年5月19日の事【酸素がなくなる!?】

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岩本政治のパニック小説を映像化した
映画「空気の無くなる日」(1949年)
出典:http://my-tiny.com/byaa

ハレー彗星騒動

1P/Halley、ハリー彗星とも言われる。
約76年周期で地球に接近する短周期彗星である。
公転周期は75.3年
多くの周期彗星の中で最初に知られた彗星であり、
古来より多くの文献に記録されている。
前回は1986年に回帰し、次回は2061年夏
出現すると考えられている。
しかし今回は1910年の事ですよ~

概要
1910年4月20日のハレー彗星は、比較的地球に接近したものだった。

初めて写真撮影がされたが、当時は写真撮影は未だ一般的なものでなく、アマチュアは肉眼によるスケッチを行なった。

宮沢賢治の友、保阪嘉内が甲府中学1年生の時に描いたハレー彗星のスケッチ(1910年5月20日)出典:ヤマボウシ・ツゥフーのブログ
宮沢賢治の友、保阪嘉内が
甲府中学1年生の時に描いたハレー彗星のスケッチ
(1910年5月20日)
出典:ヤマボウシ・ツゥフーのブログ

1909年9月11日、マックス・ヴォルフがケーニヒスツール天文台の望遠鏡にて写真撮影で検出し、1909年9月15日にヤーキス天文台で実視観測された。

当時麻布飯倉町にあった東京天文台(現国立天文台)では平山信と戸田光潤が3台のカメラを使用し、4月20日から6月7日までに44枚を撮影した。

また満州日々新聞の協力を得て、春に晴天が続く満州大連市(現中華人民共和国遼寧省)郊外に観測小屋を建て、早乙女清房と帆足通直が遠征、15cm屈折赤道儀に3台のカメラを同架して5月6日から6月11日までに90枚を撮影した。

この接近では軌道の関係上、ハレー彗星の核が地球と太陽の間に入り、地球上から太陽面通過を観測できる状態となっていた。

1910年のハレー彗星写真撮影:Edward Emerson Barnard博士(1910-05-29)
1910年のハレー彗星写真
撮影:Edward Emerson Barnard博士
(1910-05-29)

日本では、現在の八戸市に住む、一人の天文愛好家、前原寅吉(1872年 – 1950年)がハレー彗星の太陽面通過を鮮明に観測したとして、大きくクローズアップされている。

前原寅吉は、自作の「黒色ガラス」をつけた3台の天体望遠鏡を自宅の物干し台に取り付け、観測、発表した。

5月19日、午後11時20分に至り西より東に向き太陽面上段青色に変じたり。これ全く核(ガス状になった彗星の本体)の経過せしものにて午後12時17分まで見えたるも西方より白色状の状態に復したり」

とあり、彗星の通過によって、そのガスがフィルターとなり、太陽面が変色する様子をはっきり捉えている。

寅吉の快挙について、満州日日新聞の記事は

「列国の天文台が観測に失敗し居れるに独り個人たる氏が此の大成果を収め得たるは独り氏の名誉なるのみならず日本学界の光栄たりと言うべし」

と絶賛している。

太陽面を通過した際、ハレー彗星の尾の中を地球が通過することも天文学者により予言されていた。

彗星の尾には有毒のシアン化合物が含まれていることが知られていた。

特にフランスの科学者カミーユ・フラマリオン(1842年 – 1925年、日本のメディアでの表記はフレンマリオン)の説がもととなり、尾に含まれる猛毒成分により、地球上の生物は全て窒息死するという噂が広まった。

日本でのその日時は、5月19日11時22分とされた。

カミーユ・フラマリオンって誰?
(1842年2月26日 – 1925年6月3日)

フランスの天文学者、天文普及家、作家。
フランス天文学会を創設する一方で、天文学の普及に尽力し、一般向けの著書を多く発表した。
1912年にはそれらが認められて、レジオンドヌール勲章を受勲した。

カミーユ・フラマリオン出典:www.larousse.fr
カミーユ・フラマリオン
出典:www.larousse.fr

フラマリオンは、諸惑星に対する太陽の影響や太陽系について研究をし、太陽の黒点は、その活動が活発な時に出現することを示した。

彼は、海王星の衛星トリトンと、木星の衛星アマルテアの名前を最初に思いついた人物でもあったが、それらが正式名称とされたのは、何十年も後のことであった。

また、ハレー彗星にも注目しており、1910年5月19日に太陽と地球の間を通過、彗星の尾が地球にかかると予測されたことに関し、彗星の尾に有毒なガスが出ていると発表。

「地球を包む結果として地球の人類に大なる危害を及ぼす恐れがある」(東京朝日新聞 明治43年4月23日付)

国内外に警告した。

なお、書籍の出版・販売事業を手掛けるフラマリオン・グループの創設者エルネスト・フラマリオンは、弟に当たる。

実はすごい人だった!
紹介終わりw

シアン毒説の他に地球上の空気が5分間ほどなくなるという噂が一部で広まった。

自転車のチューブを買い占め、チューブ内の空気を吸って一時的な酸素枯渇に備える裕福な者、水を張った桶で息を止める訓練をする者全財産を遊びにつぎ込む者、世界滅亡を憂えて自殺する者などが現れたという。

また「どうせ死ぬのだから」とばかりに、歓楽街が非常に賑わい、かつてない盛況を見せたがために、花柳界では「嗚呼ありがたきホーキ星様」とハレー彗星が歓迎されたと言う噂もある。

この顛末は、1949年(昭和24年)、日本映画社製作の『空気のなくなる日』という映画に描かれている。

映画「空気の無くなる日」(1949年)より出典:ジョニー暴れん坊デップの部屋
映画「空気の無くなる日」(1949年)より
出典:ジョニー暴れん坊デップの部屋

『ドラえもん』33巻「ハリーのしっぽ」でも、ハレー彗星が接近した時、スネ夫の先祖がチューブを買い占める話や、のび太の曽祖父・のび吉が桶の水で息を止める訓練をする話が出ている。

『ドラえもん』33巻「ハリーのしっぽ」より
『ドラえもん』33巻
「ハリーのしっぽ」より

海外でも、ローマ法王庁が「贖罪券」を発行したところ、希望者が殺到し、手に入れることができなかった人が悲嘆に暮れるあまり、自殺するという事件も起きている。

中には酸素ボンベを持ち出し地下に逃げ込んだ人もいる。

「彗星が持ち込むシアンの毒はこれで大丈夫」と、小麦粉を丸めただけのニセの薬を売って金もうけしようとした詐欺師がアメリカで摘発されたこともあった。

またメキシコでは、「処女を生贄にすれば助かる」と信じ込んだ暴徒が、女性を襲撃する事件も起きている。

実際のハレー彗星5月19日に太陽面を通過したが、彗星のガスは非常に薄いため、地球が尾の中を通過してもハレー彗星のガスは地球の厚い大気に阻まれて地表に到達することはなく、地球及び生命体には何の影響も与えなかった。

太古よりハレー彗星は不吉の前兆などと考えられてきたが、この時ほどの大きな騒ぎの記録はなく、結果的に、科学とメディアの発達がかえって迷信によるパニックを煽ることとなった。

また、1910年のハレー彗星を見たと言う者の中には、実際には、ハレー彗星とは別の、1910年1月の彗星 (the Great Daylight Comet of 1910) の記憶と混同している例も少なくない。

この彗星はハレー彗星の接近の約4ヶ月前に現れ、最も明るい時にはハレー彗星より明るく、白昼でも見えた。

太陽面を横切る様子が数多くの人々に目撃され、日本でも新聞に「白昼横行 光芒千里」との漫画が掲載されている。

ハレー彗星について
ハレー彗星の核約8km×8km×16kmの大きさでジャガイモのような不定形をしている。

核の密度0.1 – 0.25g/cm3 と推定されている。

核の表面非常に暗い色をしている。

彗星の構造出典:In Deep
彗星の構造
出典:In Deep

探査機ジオットによる調査では、彗星核表面には炭素が多く存在することが明らかになっている。

核から放出された物質の組成(体積比)は、水(氷)が80%一酸化炭素が10%メタンとアンモニアの混合物が2.5%などとなっており、他に炭化水素や鉄、ナトリウムなどが微量に含まれる。
またシアンガスもわずかに含まれている。

ハレー彗星から放出された物質は、5月のみずがめ座η流星群および10月のオリオン座流星群の流星物質となっていると考えられている。

エドモンド・ハレー
ハレー彗星周期彗星であることが初めて明らかになった彗星である。

というのは、ハレー彗星ほど大きく明るい彗星で、人間の寿命とほぼ同程度の短さの回転周期を持つ彗星は他にないからである。

この事実を発見したのはイギリスの天文学者エドモンド・ハレーである。

エドモンド・ハレー出典:ja.wikipedia.org
エドモンド・ハレー
出典:ja.wikipedia.org

彼は24個の彗星の軌道を計算した結果1682年に出現した彗星の観測的性質が、1531年にドイツのペトルス・アピアヌスが観測した彗星および、1607年にプラハのヨハネス・ケプラーが観測した彗星とほとんど同じだと気づいた。

このことから彼は、これら3つの彗星は実際には同一の天体が76年ごとに回帰したのだと結論づけた。

実際の出現周期は惑星の摂動によって彗星の軌道が絶えず変化するため、数年の幅で変動する。

ハレーはこの彗星が惑星から受ける摂動を概算して次は1757年に再び出現すると予言し、この研究を1705年に発表した。

その後1758年12月25日に、ドイツのアマチュア天文家ヨハン・ゲオルク・パリッチュがこの彗星を発見し、ハレーの予言が証明された。

実際の彗星の近日点通過1759年3月13日にずれこんだが、これは木星と土星の摂動によって彗星の回帰が約618日遅れたためで、このことは出現の前に、フランスの3人の数学者、アレクシス・クレロージェローム・ラランドニコル=レーヌ・ルポートらが計算していた。

ハレー自身はこの回帰を見ることなく1742年に没していたが、ハレーの功績を記念して、この彗星にハレーの名が付けられた。

豆知識
今後の出現予定はだいたい以下の通りである。

2061年7月28日
2134年3月27日

「次回の接近でハレー彗星が太陽に衝突して地球に被害が及ぶとニュートンが唱えたという説」

があるが、シミュレーションで見る限り、ハレー彗星は太陽に衝突しない。

(そもそもアイザック・ニュートンが太陽に衝突し地球に被害が及ぶと指摘した彗星は非周期彗星のキルヒ彗星でありハレー彗星ではない)

マーク・トウェインは生前

「私はハレー彗星が空に掛かる頃この世に生まれた。だから私は、ハレー彗星と共に旅立つのだ」

という言葉を残している。

その通りに、彼は1835年の回帰時にこの世に生まれ、1910年の回帰時、丁度近日点を通過する頃にこの世を去っている。

1985年のシフレオ彗星は、ハレー彗星を撮影しようとした際に望遠鏡のセッティングを間違え、偶然写っていて発見された。

抜粋:http://go.ascii.jp/e4k(wikipedia)より

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