【今日の歴史】1791年6月17日の事【海のねずみ小僧】

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プエルトリコのロビン・フット
プエルトリコのロビン・フット
出典:matome.naver.jp

海賊コフレシ

ロベルト・コフレシ
Roberto Cofresí
1791年6月17日 – 1825年3月29日)
「エル・ピラタ・コフレシ」(海賊コフレシ)
としてより知られている、プエルトリコで最も有名な海賊。

海賊ではあるが収穫を貧しい人たちに分け与えたという伝承が多く「プエルトリコのロビン・フット」と言われ、現代でもプエルトリコの民衆からは英雄として崇められカボロホには銅像まで建てられている。

プエルトリコには彼の名がついた町まである。

"カボ・ロホにあるロベルト・コフレシの彫像<br
カボ・ロホにあるロベルト・コフレシの彫像
出典:www.caborojopr.net

略歴
コフレシはプエルトリコのカボ・ロホでロベルト・コフレシ・イ・ラミレス・デ・アレリャノとして生まれた。

コフレシの父親の出自は不明二つの説が元になっている。

最初の説は、彼の父親はドイツ国籍で名前をFranz Von Kupferscheinと言い、プエルトリコの人々が発音しやすいようにコフレシと改名した。

二つ目の説は、彼の父親はイタリアのトリエステ出身のフランシスコ・コフレシと言う。

彼の母親はプエルトリコのカボ・ロホ出身のマリア・ヘルマナ・ラミレス・デ・アレリャノであった。彼女は、彼が4歳の時に死亡した。

コフレシは彼の故郷で小学校に通った。

子供の頃、海岸に打ち寄せる波の音を聞きながら育ち、コフレシはいつの日か船員になって海を冒険することを夢見る日々を過ごした。

コフレシはカボ・ロホ出身のフアナ・クレイトフと結婚した。

二人の息子をもうけたがどちらも生誕後すぐに死亡した。

1822年コフレシフアナをもうけ、マリア・ベルナダと名付けた。

海賊コフレシ
コフレシカボ・ロホ出身の者で構成された乗組員と共に、彼のスクーナー船「アナ」で海に出て、スペイン王室の旗を掲げていない船を攻撃した。

プエルトリコの沿岸の人々当局から彼を保護したと言われており、プエルトリコの歴史家のアウレリオ・ティオによると、コフレシは貧しい人々、特に彼の家族と友人と、略奪品を共有した。

彼は多くの人々にとってロビン・フッドのプエルトリコ版と見なされた。

スペイン政府は、海賊コフレシの名がよく知られるようになった時、彼によって攻撃を受けた船を持つ国々から多くの不平を受けた。

政府はフコレシがスペインの船を襲わなかったことと、スペイン国民のガス抜きをする必要があったため、他の国の船に対する海賊行為は黙認していた。

しかしある時、コフレシと彼の部下は8隻の船を攻撃し、その中にアメリカの船があった。

1824年アメリカのスクーナー船「グランパス」の司令官であるジョン・スロウト船長は、コフレシを激戦へと引き込んだ。

コフレシ11名の乗組員とともに捕らえられ、彼らはスペイン政府に引き渡された。
西インド諸島海賊掃討作戦の最中であった。

コフレシはサンフアンのエル・カスティリョ・デル・モロに収監された。

コフレシスペインの軍事法廷で裁かれて有罪とされ、1825年3月29日に銃殺刑にされた。

彼の遺体オールド・サンフアン墓地に埋葬され、彼の未亡人のフアナは一年後に死亡した。

右下のピンクの屋根と白い部分が
オールド・サン・ファン墓地
出典:tokuhain.arukikata.co.jp

抜粋:http://tiny.cc/gucgzx(wikipedia)より

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