【今日の歴史】1931年10月24日の事【アル・カポネの生涯】

【今日の歴史】1931年10月24日の事【アル・カポネの生涯】

アル・カポネがクック郡刑務所に入所

アル・カポネ(Al Capone、1899年1月17日 – 1947年1月25日)は、
アメリカのギャング。
英語の発音では「カポーン」が近い。

禁酒法時代に、シカゴで高級ホテルを住まい兼事務所にしてそこから組織を指揮し、密造酒製造・販売、売春業、賭博業をして組織を拡大し、犯罪組織を統合近代化していったことで知られている。

身長は179cmで、当時としては大柄であった。
顔に傷があったことで「スカーフェイス」というニックネームがあった。
しかし、本人はこの呼び名を嫌っていたため、

本人の前で呼ぶ者はいなかった。

生涯
1899年、ニューヨークのブルックリン区にイタリアのナポリから来たイタリア系アメリカ人の家の四男として生まれる。

少年時代のアルは6年生まで成績も良かったが、その後は学校をサボるようになる。

7年生に進級する頃、担任の女教師に注意され、殴り合いの喧嘩となって2度と学校には行かなかったという。この頃のアルは遊び好きで、洒落た服を着て外出しはしゃいだりした。また、ビリヤードの名手で町のチャンピオンであったという。

幼友達だったエドワード・ディーン・サリヴァンによれば、アルは無邪気な少年で、酒は一滴も飲まなかったが、「アドニス社交クラブ」という暴力の巣窟のような店に出入りしていたという。
ここでアルは銃の扱いかたを覚え、イタリアン・マフィアの幹部ジョニー・トーリオとも出会う。

アル・カポネ
 アル・カポネ

犯罪の世界へ
まだ駆け出しの頃、トーリオの紹介でフランキー・イェールと出会う。
アルはイェールに気に入られ、彼の店「ハーヴァード・イン」で皿洗いから給仕までなんでもこなした。

そして、イェールに認められて本格的に暗黒街に入る。
シチリア出身ではなかったためマフィア本流には加われなかった。

1920年(1919年や1921年とする説もある)にトーリオに呼ばれてシカゴへ行く。
この頃アルは、ホワイト・ハンドを痛めつけたため、ボスのワイルド・ビル・ロベットから狙われていた。他にも2件の殺人事件に関与し、起訴されそうでもあった。そのためシカゴ行きはちょうど良かった。
シカゴへ行くとき友人のラッキー・ルチアーノから2万ドルの餞別をもらったという。
ルチアーノは後年「カポネのやつ感極まって、今にも泣きそうな顔だったよ」と語っている。

シカゴでは、最初ジム・コロシモの売春宿でポン引きなどをしていた。
この下積み時代に不正事業を組織化して反対派と和解するトーリオの手法を見習ったという。

1年とたたないうちにトーリオの犯罪帝国で出世し、賭博場兼売春宿の支配人にもなり、雇われ人ではなくパートナーになると、客引きなどする必要はなくなった。
この頃すでに2万5千ドル近い年収を稼ぐ実業家になっていたという。
さらにシカゴに自分名義で家を購入しブルックリンから家族を呼んだ。
妻子だけではなく母や兄弟たちも呼んだ。

その後、ウィリアム・E・ディヴヴァーがシカゴ市長になると政治改革が続くと考え、事業の本部をシセロへ移した。

ダイオン・オバニオンを暗殺した頃から、自分も暗殺されるのではないかという恐怖から警備が厳重になった。
どこに行くにも両脇に2人のボディーガードを連れて行き、外出には必ず車を使った。
この時期、自宅以外1人でいることは無かったという。

1925年1月12日、“ハイミー”ワイスと“スキーマー”ドルッチとジョージ・モランは最初のカポネ暗殺を企て、アルの車にトミーガンで攻撃した。ボンネットが引き裂かれ、エンジンが壊れるほどの威力であった。
運転手は負傷したが、アルは車にいなかったため、無事だった。
その後、トミー・クイリンジョーネという若い運転手が誘拐されて殺されるという事件があった。

「暗黒街の顔役」
1925年、ジョニー・トーリオが敵に襲われて引退するとアルは縄張りを譲られ、26歳にして組織のトップに立った。酒の密売でのし上がっていくが、その過程で次々と敵を抹殺していった。
さらに”ビッグ・ビル”・トンプソンをはじめ、政治家、警察などの官憲を買収して勢力の拡大と安泰化を図った。1920年代のアル・カポネは、実質的に市長ともいえる存在となっていた。
1927年頃にはシカゴで有名人となる。

部下のジャック・マクガーンが「ジョージ・“バグズ”・モラン一味を抹殺すべきだ」と言ったとき、アルにとってもモランは商売敵で自分の命を脅かす存在だったため、それに同意し、彼に1万ドルと暗殺にかかる諸経費を支払う約束をした。
そして1929年2月14日、聖バレンタインデーの虐殺は実行された。
この事件は全米のマスコミに大きく取り上げられた。
虐殺が行なわれた当時、アルはマイアミ・ビーチに滞在していた。
警察はアルを疑い電話の記録を調べたが、事件の前後数日間はシカゴからの記録もなかった。

1929年5月にアトランティック・シティで行なわれた暗黒街の会議の後、拳銃の不法所持で自作自演で逮捕される。その理由は、聖バレンタインデーの虐殺でカポネの行動が目立ちすぎているので、世間の非難の目をそらすという意味だった。このことも会議の議題の一つになっていた。
刑期は5月17日から1930年3月17日の10ヶ月間。刑務所内では言うまでもなくVIP待遇だった。
一部資料によると莫大な利益を上げているカポネと、ニューヨークやその他のギャングの仲が悪くなり、カポネが身の危険を感じたためだという話もある。

1930年の暮れ、逮捕を逃れるため、アルはシカゴのサウス・ステート・ストリート935番地の店で貧しい人たちに1日に3度、無料給食を提供した。このことは新聞などでも報じられ、国民が感心した出来事だった。
無料給食を運営するのは1ヶ月に1万ドル経費が掛かる、とアルは言っていた。
しかし、実際には経費のほとんどはアル・カポネ自身が負担したのではなく、地元のパン屋、生肉業者、コーヒー豆屋などに寄付させたもので、彼らはアルの言いなり状態だったという。

アメリカ合衆国対アルフォンス・カポネ
フーヴァー政権下、財務長官アンドリュー・メロンの号令のもと、所得税の脱税と、ボルステッド法違反の両面からカポネに対する追求が進められた。
特に後者で密造酒関係の調査を行なったエリオット・ネスのチームは「アンタッチャブル」と呼ばれ世間の耳目を集めたが、最終的に脱税を主としてカポネは告発された。

1931年10月7日、アル・カポネの脱税裁判が始まった。裁判ではかつてカポネ帝国の会計係だったフレッド・リースが証言台に立ち賭博場のことなどを証言した。
アルは合計11年の懲役、罰金8万ドルの有罪判決を受けた。
刑を宣告されたとき、自分が予想していたよりも過酷な宣告だったため、微笑は苦いもので今にも怒りが爆発しそうだったという。

アルは裁判が始まる前に、陪審員候補者のリストを入手して1人千ドルで買収した。
しかし、このことはアルの一味だったエドワード・J・オヘアが事前に密告したため、開廷するや陪審員を入れ替えられてしまい、目論見が外れた。
アル・カポネは事前に陪審員を買収したということもあって、彼の弁護士は裁判での弁護を怠っていたといわれている。
1990年代に行なった模擬裁判でアル・カポネは無罪だったという。

刑務所での生活
1931年10月24日、アルはクック郡刑務所に入る。この刑務所でアルは所長と職員を買収し、レキシントン・ホテルに住んでいたころと変わらない豪華な生活をしており、そこから以前と同じように組織を動かしていた。
所長がアルの機嫌をとっていたという。
しかし1932年5月2日、アルにとって最後の望みであった再審請求は最高裁から退けられた。
この時、アルはかなり失望したという。

1932年5月3日の午後、アルは家族に別れを告げ、列車でアトランタへ向かった。
このとき、刑務所へ向かうアルを見ようと来たエリオット・ネスがおり、アルとネスは少し話をしたという。
アルとネスが会ったのはこの時が最後である。

アルがアトランタ刑務所に入ったころ、新聞にはアル・カポネが刑務所を牛耳っていると書かれていたが、実際には逆で、アルが他の囚人の標的になっており、「酒と女はどこにある?デブ」などと罵倒されたりもした。
しかし、刑務所内では娑婆にいた頃、アルに世話になった者もいて、そういった連中はアルの味方になった。

ここでのアルの仕事は靴工場で靴の修理だった。
毎日8時間電動ミシンで靴底を縫い合わせていたという。

アルカトラズ刑務所
アルカトラズ刑務所のカポネ 8月22日にアルカトラズ刑務所に到着し、囚人85号になる。

刑務所の中では風呂場の掃除係として意外にも従順に刑に服しており、他の囚人からは「wop with the mop(「モップを持ったイタリア野郎」の意。wop(ウォップ)はイタリア系に対する蔑称)と呼ばれていた。
1936年に囚人によるストライキがあったがアルは参加しなかった。このことで他の囚人から妻と子を殺してやるなどの脅しを受けた。
すると、アルは独房で毛布を頭からかぶり泣いていたという。
この子供じみた行動も神経梅毒によるものだが、看守や囚人たちは梅毒とは知らないので、長い刑務所暮らしで頭がおかしくなったのだろうと思っていた。

1936年6月23日にはジミー・ルーカスという囚人に刃物で刺されるという事件があった。
原因はルーカスがアルから金をゆすろうとしたが断ったのと、ストに参加しなかったこと。
ルーカスはその後、6ヶ月間の隔離棟での生活で狂人になったという。

その後、アルは病状が悪化し、ロサンゼルス近くの連邦矯正施設に移る。
そこで残りの刑期の1年近くを過ごす。

1939年10月25日、FBI捜査官のD・W・マジーがアルを面会した。
彼はこの時の面会について、アルは現実と妄想の区別が付かず、理性を失っていたと感じたという。

1939年11月16日、アルは釈放された。
このときのアルはクック郡刑務所に入るときの身なりがよく自信に満ちあふれた人物とは別人であったという。

出所後
出所後、アルはボルチモアのユニオン記念病院で梅毒の治療を受けることになる。
4ヶ月の治療の後、アルと家族はフロリダのパームアイランド島の家で生活する。
この頃、アルの家には暗黒街の人間が訪れてきて、アルと雑談をしたり、他の兄弟と商談をしたという。

1945年、アルは梅毒治療として民間人ではじめてペニシリンを投与されたが、病気が進行しすぎていたため、効果はなかった。

1947年1月25日の土曜日、午前7時25分、アルは亡くなった。
出所してから死亡するまで、かつて牛耳ったシカゴへは戻ることはなかった。アルは土曜日に死亡したので、各紙の日曜版には大きく報じられた。ニューヨーク・タイムズはこのことを「悪夢の終わり」と伝えた。

2月4日に行われた葬儀の会葬者の中にはかつてアルの側近だったジェイク・グージックや、後にシカゴの大物ボスになるマレー・ハンフリーズの姿もあった。

アルが死んだのち、シカゴ暗黒街のボスは、フランク・ニティ、ポール・リッカ、トニー・アッカルド、サム・ジアンカーナ、サム・バッタグリアと引き継がれていく。

スカーフェイス事件
ハーヴァード・インで働いて1年ほどたったある夜、店にいた若い女性客にひわいな言葉を言った。
すると、女性客の兄のフランク・ガルチョが妹を侮辱された事に怒ってアルを1発殴り、更にナイフで左頬と首筋を切りつけ、店から逃走した。
このとき顔に傷がついたことで「スカーフェイス(向こう傷)」という異名がついた。
この後、アルはガルチョを探し復讐しようとしていた。そのため、ガルチョは知り合いを通じて、サルヴァトーレ・ルカーニア(後のラッキー・ルチアーノ)にこの事件を話した。このことでアル、ルカニーア、ガルチョ、そしてイェールで正式な話し合いをした。
その結果、ガルチョの妹を侮辱したアルがガルチョに謝罪することになった(資料によってはルチアーノではなくジュゼッペ・マッセリアとするものもある)。

後年アルは権力を手にしたとき、ブルックリンの小悪党にすぎないガルチョに恨みを晴らしたい気持ちがあったかもしれないがそれを抑え、そればかりか彼を週給100ドルで使い走りに雇ったという。

シセロ・トリビューン紙
1920年代にロバート・セント・ジョンというジャーナリストはシセロ・トリビューンという新聞でカポネ一味の悪影響を糾弾し、暴露していた。
そのため、ラルフ・カポネが部下を使いセント・ジョンを暴行した。
アルはそのことを謝り、金で解決しようとした。
しかし、セント・ジョンは金を受け取らなかった。
そのため、アルは新聞社の出資者に圧力をかけ、新聞社の権利を買い取ることにした。
その後、セント・ジョンは新聞社を去った。

マクスウィギン事件
1926年4月27日、カポネ組の構成員が、敵のオドンネル兄弟と間違えてウィリアム・H・マクスウィギンという若い検事を殺害してしまった。
そのため、アル・カポネは指名手配された。
300人の刑事が3ヶ月捜査しても見つからなかったので、アル・カポネはカナダかイタリアへ逃亡したのではないかという噂が流れた。
実際にはミシガン州ランシングに身を隠し、友人のアンジェロ・マストロピエトロの協力を得て、安楽な逃亡生活をおくっていた。

ランシングでは暴力や殺人はなかったが、それでも警戒してジャック・マクガーンとフランク・ニティの2人の部下を呼んだ。
アルはランシング郊外のラウンド・レイクの湖の周辺を散歩したり、ひと泳ぎしたり、ときには湖に遊びに来た子供たちの相手をした。
ランシングに住むイタリア系の人々はアルの潜伏に手を貸していた。
この頃ランシングの人たちはブラック・ハンドの残党やパープル・ギャングの犠牲になっていた。
アルはそういった連中に「ランシングの人たちに手を出すなら、このアル・カポネが相手になる」と言うと、彼らは手を引いたという。
貧しい家庭には生活費や学費を出したり、子供たちを連れてアイスクリームを買いにいったり、こうしてアルはこの街で人気者になった。

3ヶ月間ランシングで過ごした後、シカゴへもどる。

1926年7月29日、シカゴ刑事裁判所に出頭する。
警察などが事件を調べていくうちにマクスウィギン殺人事件は起るべくして起った事故ということになった。
なぜなら、彼のことを調べていくうちに彼はアイルランド系のギャングスターと付き合いがあったし、禁酒法に違反してもぐり酒場にも頻繁に出入りしていたからである。
とても検事とは思えない行動をとっていたことが暴露された。
アルに対しても3ヶ月間、行方をくらましている間に市民の怒りもおさまっており、捜査でも事件について法的に立証できず、アルは自由の身になった。

恩師イェール暗殺
1928年、この頃フランキー・イェールとの闇酒取引はうまくいっていなかった。
イェールは酒を運ぶトラックのハイジャックが増え続けていると言っていた。
このことについてアルはイェール本人を疑っていた。
この輸送ルートはカポネ組の大きな収入源(この頃アルの年収は推定で1億ドルを超えていた)の一つだった。詳しく知るために友人のジェームズ・デ・アマートをブルックリンに送りイェールの監視を頼むが、アマートはやがて殺された。
そしてイェールの闇酒取引の不正が疑いから確信に変わり、ジェイク・グージックらと暗殺を計画する。マクガーン、アルバート・アンセルミ、ジョン・スカリーゼ、フレッド<キラー>バーグの部下を使い、1928年7月1日に暗殺を実行する。

その年の夏の終わりに、イェール暗殺の仕返しと思われる事件があった。
アルの友人でウニオーネ・シチリオーネの会長のアントニオ・ロンバルドが暗殺され、そのあとを継いだパスカリーノ・ロロルドも暗殺された。

ニューヨーク・マフィアとの関係
ニューヨークでカステランマレーゼ戦争(1929年 – 1931年)と呼ばれるサルヴァトーレ・マランツァーノ(1886年 – 1931年)とジョー・マッセリア(1879年 – 1931年)の間でイタリア系マフィアの覇権争いが行なわれていた1931年、アル・カポネは最初マッセリア側に軍資金を送ったが、マランツァーノ側から早まったマネはしない方が良いと言われ、それ以上のことはしなかった。
4月にマッセリアが暗殺されて抗争が終わり、5月にシカゴでギャングの集まりがあった時に、マランツァーノはアルのことをシカゴ・ファミリーのボスとして認め、アルを讃える演説をした。
このときアルは、マランツァーノにダイヤをちりばめた腕時計を贈った。
マランツァーノに同行して来たジョゼフ・ボナンノはこのときのことを「カポネは最高のホストだった」と絶賛している。
マランツァーノはニューヨークのマフィアを5つのグループに分割し五大ファミリーを統括するボスとなったが、9月にマッセリアと協定を結んでいたコーサ・ノストラのラッキー・ルチアーノに暗殺され、ニューヨーク・マフィアはラッキー・ルチアーノの傘下となった。

人物像
若い頃のアルは家族思いで、チンピラ時代に3~10ドルの金を稼ぐと、その金を家に持ちかえり母親に渡すような少年だった。
この頃にはファイヴ・ポインツ・ジュニアなど色々なギャングに入ったりもした。

メエとの出会いは19歳のときである。
1918年12月4日に息子のソニーが生まれ、12月30日に結婚式が行われた。
実際のアルは、結婚してからイェール(ニューヨークのギャング、後出)の下で働くのを一時期やめて、ボルチモアへ行き、建設会社に簿記係(この時代のギャングで簿記が出来たのはカポネぐらいであろう)として就職した。
毎日スーツにネクタイのまじめな服装で経営者のピーター・アイエロの事務所へ出勤した。
しかし、父ガブリエーレが死んだ1920年ごろにジョニー・トーリオとイェールとの付き合いを再開した。

1920年、アイエロに退職を申し出た。
餞別としてアイエロはアルに500ドル貸し、アルはこの恩義を決して忘れなかった。
後年にピーター・アイエロが技術大会でシカゴに来たとき、大物になったアルは彼を歓迎する宴会を開き、シセロではパレードを行なった。

酒の密売については、「俺は人々が望むものを与えてきた。なのに俺に返ってくるのは悪口だけだ」と言っていた。

その陽気な性格からマスコミにも取り上げられることが多く、自らも生活貧窮者に対する食事の無料給付の慈善事業を行うなど大衆の支持獲得に腐心した。

ボクシング世界チャンピオンのジャック・デンプシーとは友人だった時期もあり、試合前には花束を贈ったりもした。
デンプシーもアルのことを「最高のファンの一人」と言っていた。

彼は世の中について

「他人が汗水たらして稼いだ金を価値のない株に変える悪徳銀行家は、家族を養うために盗みを働く気の毒な奴より、よっぽど刑務所行きの資格がある。この稼業に入るまでは悪徳政治家など世の中には高価な服を着て偉そうな話し方をする悪党がこんなに多いとは知らなかった」

とコーネリアス・ヴァンダービルトのインタヴューで答えている。

抜粋:http://ul.lc/53r5(wikipedia)より

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