【今日の歴史】1923年9月1日の事【関東地区の大地震】

【今日の歴史】1923年9月1日の事【関東地区の大地震】

関東地震(関東大震災)発生

関東大震災(かんとうだいしんさい)
1923年(大正12年)9月1日11時58分32秒
(日本時間、以下同様)
神奈川県相模湾北西沖80km
(北緯35.1度、東経139.5度)
を震源として発生したマグニチュード7.9
大正関東地震による地震災害である。

大正12年(1923年)9月1日に発生した「関東大震災」は、発生時刻がちょうど昼食の時間帯であったことや、台風の影響による強風によって大火災が発生、10万人以上の死者・行方不明者を出すという当時最大級の災害

発生時刻がちょうど昼食の時間帯であったことや、
台風の影響による強風によって大火災が発生、
10万人以上の死者・行方不明者を出すという
当時最大級の災害となった。
出典:USGS/George A. Lang Collection

概要と被害
神奈川県・東京府を中心に千葉県・茨城県から静岡県東部までの内陸と沿岸に広い範囲に甚大な被害をもたらし、日本災害史上最大級の被害を与えた。

190万人が被災、10万5千人余が死亡あるいは行方不明になったとされる(犠牲者のほとんどは東京府と神奈川県が占めている)。
建物被害においては全壊が10万9千余棟、全焼が21万2000余棟である。
東京の火災被害が中心に報じられているが、被害の中心は震源断層のある神奈川県内で、振動による建物の倒壊のほか、液状化による地盤沈下、崖崩れ、沿岸部では津波による被害が発生した。
2004年(平成16年)頃までは、死者・行方不明者は約14万人とされていた。
この数字は、震災から2年後にまとめられた「震災予防調査会報告」に基づいた数値である。
しかし、近年になり武村雅之らの調べによって、14万人の数字には重複して数えられているデータがかなり多い可能性が指摘され、その説が学界にも定着したため、理科年表では、2006年(平成18年)版から修正され、数字を丸めて「死者・行方不明 10万5千余」としている。

大地震の火災旋風
大地震の火災旋風

根府川駅から海中に転落した列車のうち、海岸に残った客車 地震の揺れによる建物倒壊などの圧死があるものの、強風を伴った火災による死傷者が多くを占めた
能登半島付近に位置していた台風により、関東地方全域で風が吹いていたことが当時の天気図で確認できる。火災は地震発生時の強風に煽られ、本所区本所横網町(現在の墨田区横網)の陸軍本所被服廠跡地(現在の横網町公園。
他、現在の墨田区立両国中学校や日本大学第一中学校・高等学校などもこの場所に含まれる)で起こった火災旋風を引き起こしながら広まり、鎮火したのは2日後の9月3日10時頃とされている。
津波の発生による被害は太平洋沿岸の相模湾沿岸部と房総半島沿岸部で発生し、高さ10m以上の津波が記録された。
山崩れや崖崩れ、それに伴う土石流による家屋の流失・埋没の被害は神奈川県の山間部から西部下流域にかけて発生した。
特に神奈川県足柄下郡片浦村(現、小田原市の一部)の根府川駅ではその時ちょうど通りかかっていた列車が駅舎・ホームもろとも土石流により海中に転落し、100人以上の死者を出し、さらにその後に発生した別の土石流で村の大半が埋没、数百名の犠牲者を出した。

根府川駅から海中に転落した列車のうち、海岸に残った客車
根府川駅から海中に転落した列車のうち、海岸に残った客車

前震
以下は本震発生以前の近い時期における関連が指摘される地震の記録である。
【8年前】
大正4年(1915年)11月、東京で有感地震が過去最多の18回。
その後地震は沈静化。
大森房吉・今村明恒両博士の関東大地震論争。
【1 – 2年前】
以下は共にフィリピン海プレート内部の地震。
大正10年(1921年) – 茨城県南部で地震(M7.0)。 ##大正11年(1922年) – 浦賀水道で地震(M6.8)、25人が死傷。
【2 – 3ヶ月前】
大正12年(1923年)5 – 6月、茨城県東方で200-300回の群発地震(有感地震は水戸73回、銚子64回、東京17回)

日本列島の下にフィリピン海プレートが潜り込む、東京から見て南西沖にある断層帯「相模トラフ」で発生した。
日本列島の下にフィリピン海プレートが潜り込む、東京から見て南西沖にある断層帯「相模トラフ」で発生した。

本震
大正12年(1923年)9月1日に発生。
発生要因はフィリピン海プレートの沈み込みによって生じたプレート境界での北米プレートの跳ね返りであり、メカニズムは低角逆断層型であるが、横ずれの成分も含む。
震源の小田原直下から岩盤の破壊が始まり、北アメリカプレートとフィリピン海プレートがずれ始めたのち破壊は40〜50秒かけて放射状に広がり、北は現在の川崎市の地下35km、南は現在の館山市の地下5km、東は房総半島端にまで広がり全体で長さ130km、幅70kmの岩盤(断層)が平均で2.1mずれた。
特に強い揺れを生んだのは最初に始まった小田原 – 秦野の直下での岩盤破壊(第1イベント)と、その約10 – 15秒後に始まった三浦半島の直下の破壊(第2イベント)である。
これら2つのイベントが組み合わさっていることから、「双子の地震」や「2つの地震の組み合わせ」などと呼ばれることもある。
東京など離れた地域ではこの2つのイベントの違いを区別できず、連続した強い揺れとして捉えられた。
震源に近い地域でははっきりした揺れの変化が捉えられている。
当時の地震学者である石本巳四雄は東京本郷の加速度を300gal程度であったと推定している。また、東京横浜の山の手での卓越周期は0.3秒であったと述べている。
この揺れは約9000km離れたウイーンのオーストリア気象庁でも観測され、同庁が世界にいち早く関東地震の発生を報じたとされている。
この地震のフィリピン海プレートと北米プレートが主に2つのアスペリティで強く引っかかっていたが、まず震源となった小田原直下のアスペリティで岩盤が沈み込みで加わる力(応力)に耐えられず破壊され始め、ずれが三浦半島直下に達すると2つ目のアスペリティも連鎖的に破壊されたと考えられる。

日本国外の地震波形を用いて解析するとM8以上となる傾向があり、M8.2、M8.3、表面波マグニチュードMs8.2などが報告されている。
日本国外の地震波形を用いて解析するとM8以上となる傾向があり、M8.2、M8.3、表面波マグニチュードMs8.2などが報告されている。

規模
河角廣により本地震のマグニチュードは7.9と推定されたが、その根拠は東京の震度を6とし、震央距離を100kmと仮定したものと思われている。
坪井(1964)も7.9が妥当としているが、日本国外の地震波形を用いて解析するとM8以上となる傾向があり、M8.2、M8.3、表面波マグニチュードMs8.2などが報告されている。
金森博雄(1977)はモーメントマグニチュードをMw7.9とし、宍倉正展(2011)はMw8.0と推定している。
また、中央防災会議の災害教訓の継承に関する専門調査会における平成18年7月の報告書(1923 関東大震災報告書─第1編─)では、当時の観測記録で振り切れていない完全な記録が全国の6地点であることが分かり、それらの記録をもとに評価すると、マグニチュードは8.1±0.2であることがわかったとしている。
(つまり従来から用いられているマグニチュード7.9は、やや小さめだが標準偏差を考慮すると許容範囲内であるということである。)

津波
関東地震の原因とされるフィリピン海プレートの沈み込みによって生じたプレート境界の跳ね返りによって、津波が発生した。
地震の数分後、太平洋沿岸地域から伊豆諸島にかけて津波が襲い、熱海で高さ12m、房総半島で高さ9mの津波を記録した。

余震
9月1日
12:01 M7.2 東京湾北部 – 東京23区や神奈川県東部の横浜・川崎で強く揺れを感じる。
12:03 M7.3 神奈川県・山梨県・静岡県県境付近 – 神奈川県西部、静岡県東部、山梨県で強い揺れを感じる。12:17 M6.4 伊豆大島近海
12:23 M6.5 相模湾
12:40 M6.5 相模湾
12:47 M6.8 山梨県中・西部
13:31 M6.1 静岡県東部
14:22 M6.6 静岡県伊豆地方
15:19 M6.3 茨城県沖
16:37 M6.6 静岡県東部

9月2日
11:46 M7.3 千葉県南東沖
18:26 M6.9 千葉県東方沖
22:09 M6.5 静岡県伊豆地方

大正13年(1924年)1月15日
05:50 M7.3 神奈川県西部(丹沢地震) – 死者19名、負傷者638名

諸外国からの救援
シカゴで行われた募金運動 地震の報を受けて、多くの国から日本政府に対する救援や義捐金、医療物資の提供の申し出が相次いだ。
特に第一次世界大戦時に共に戦ったアメリカの支援は圧倒的で、さらに「なお希望品を遠慮なく申出られたし」との通知があった。
義捐金の多くはアメリカ合衆国とイギリス、中華民国から送られ、他にもインド、オーストリア、カナダ、ドイツ、フランス、ベルギー、ペルー、メキシコなどからも救援物資や義捐金が送られた。
アメリカやイギリスの軍艦が救援物資や避難民を運んだことも記録に残っている。

中華民国 清朝の元皇帝で、当時中華民国内で「大清皇帝」となっていた愛新覚羅溥儀は、地震の発生を聞くと深い悲しみに打ち沈んだ。
溥儀は日本政府に対する義捐金を送ることを表明し、併せて紫禁城内にある膨大な宝石などを送り、日本側で換金し義捐金として使うように日本の芳沢謙吉公使に伝えた。
なおこれに対し日本政府は、換金せずに評価額(20万ドル相当)と同じ金額を皇室から拠出し、宝石などは皇室財産として保管することを申し出た。
その後、1923年11月に日本政府は代表団を溥儀の下に送り、感謝の意を評した。

溥儀は後に日本の協力の下で満州国皇帝となるが、この時点において溥儀は「何の政治的な動機を持たず、純粋に同情の気持ちを持って行った」と溥儀の帝師のレジナルド・ジョンストンは自著の中で回想している。

アメリカ合衆国 第一次世界大戦において共に戦った日本に対するアメリカの政府、民間双方の支援はその規模、内容ともに最大のものであった。
全米で被災者に対する募金活動が行われたほか、当時アメリカの植民地であったフィリピンのアメリカ陸軍基地からも様々な物資が送られた。
さらにアフリカ系アメリカ人指導者のマーカス・ガーベイは、大正天皇あてに電報を送る傍ら募金活動を行った。
ベルギー 震災直後にベルギー政府は「日本人罹災者救援ベルギー国内委員会」を組織し、ベルギー王室の全てのメンバーとベルギー赤十字委員会がこれを支援し日本への支援を積極的に行った。
民間もこれに応じて募金活動やコンサート、バザーによる多額の収益金を同委員会を通じて寄付した他、画家のエミール・バースは自らと友人の作品を提供し義捐金に充てるなど、官民一体となって支援活動が行われた。

復興
「相州小田原の震害地へ急行の工兵隊」と「小田原十字町の惨状」(関東大震災画報 第一輯〔しゅう〕大阪毎日新聞) 山本権兵衛首相を総裁とした「帝都復興審議会」を創設する事で大きな復興計画が動いた。
江戸時代以来の東京の街の大改革を行い、道路拡張や区画整理などインフラ整備も大きく進んだ。
また震災後日本で初めてラジオ放送が始まった。
その一方で、第一次世界大戦終結後の不況下にあった日本経済にとっては、震災手形問題や復興資材の輸入超過問題などが生じた結果、経済の閉塞感がいっそう深刻化し、後の昭和恐慌に至る長い景気低迷期に入った。

関東大震災の復興助成会社による低利融資を受けて建設された震災復興建築の一つの九段下ビル
関東大震災の復興助成会社による低利融資を受けて建設された震災復興建築の一つの九段下ビル

震災復興事業として作られた代表的な建築物には同潤会アパート、聖橋、復興小学校、復興公園、震災復興橋(隅田川)、九段下ビルなどがある。

震災の約4週間後となる9月27日、帝都復興院が設置され、総裁の後藤新平により帝都復興計画が提案された。
それは被災地を全ていったん国が買い取る提案や、自動車時代を見越した100m道路の計画(道路の計画には震災前の事業計画であった低速車と高速車の分離も含まれていた)、ライフラインの共同溝化など、現在から見ても理想的な近代都市計画であったが、当時の経済状況や当時の政党間の対立などにより予算が縮小され、当初の計画は実現できなかった(後藤案では30億円だったが、最終的に5億円強として議会に提出された)。
また土地の買い上げに関しては神田駿河台の住民が猛反発した。
これが失策であったことは、東京大空襲時の火災の拡がり方や、戦後の高度経済成長期以降の自動車社会になって思い知らされることとなった。
例えば道路については首都高速等を建設(防災のために造られた広域避難のための復興公園(隅田公園)の大部分を割り当てたり、かつ広域延焼防止のために造られた道路の中央分離帯(緑地)を潰すなどして建設された)する必要が出てきた。
また現在も、一部地域では道路拡張や都市設備施設などの整備が立ち遅れているという結果を生んだ。

抜粋:http://ul.lc/4wgv(wikipedia)より

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