ギュンター・ギヨーム
(死去時の姓はブレール Bröhl、 1927年2月1日 – 1995年4月10日)
ドイツ民主共和国(東ドイツ)の軍人、スパイ。
西ドイツ首相ヴィリー・ブラントの秘書になりすまして
諜報活動に従事、ドイツ史上最も成功したスパイと言われる。
ギヨーム事件
ギュンター・ギヨームが東ドイツ情報機関のスパイとして逮捕され、その発覚によりブラント首相が辞任に追い込まれた事件。
潜入
1950年、東ベルリンで「人民と世界」社の編集員となる。
この年から1956年まで、ギヨームはドイツ民主共和国(東ドイツ)の国家保安省(シュタージ)にスカウトされ、西ドイツに潜入するための訓練を受けていた。
1951年、同じくシュタージの工作員教育を受けていた秘書のクリステル・ボームと結婚。
二人は一男をもうけている。
1952年、ドイツ社会主義統一党(SED)に入党。
1956年、シュタージの諜報員ギュンターとクリステルのギヨーム夫妻は身分を隠して亡命を装い(難民を偽装?)して西ドイツに入国した。
西ドイツに移住し、フランクフルトに住んで喫茶店を経営。
1957年、ドイツ社会民主党(SPD)に入党。
クリステルは同党ヘッセン州南部地区事務所の秘書となった。
1964年から党の指導員として政治活動に従事。
フランクフルト地区の党事務局長となり、1968年からはフランクフルト市議会SPD議員団の事務局長となる。
同年市議会議員に当選。
1965年のドイツ連邦議会選挙に際しては、地元選挙区のSPD候補であるゲオルク・レーバー連邦交通相の選挙戦に従事、高い得票を得て、組織運営の才を発揮した。
レーバーの推薦でギヨームは連邦首相府の経済・財政・社会政策担当秘書となり、ヴィリー・ブラント首相の信頼を勝ち取った。
1970年1月28日から首相官房で働き始る。
1972年、その勤勉さと事務能力を買われてブラントの個人秘書になる。
こうして彼は西ドイツ首相の極秘文書や内輪の会議の内容、西ドイツの政策、特に「東方政策」の内容は東ドイツに筒抜けになった。
さらには私生活までを知りうる立場となった。
1973年5月24日、西ドイツの連邦憲法擁護庁に、ギヨームがシュタージのスパイ「ゲオルグ」であることを示唆する報告書が提出された。
ギヨームは、11ヶ月の間監視下に置かれたが、現行犯逮捕されるようなミスを犯さず、シュタージのエージェントと接触を続けた。
翌1974年1月、西ドイツの検察は、証拠不十分のためギヨームに対する逮捕令状の申請を却下した。
しかし捜査は継続された。
逮捕
1974年4月24日、ギヨームはスパイ容疑で逮捕された。
ギヨームは彼を逮捕した捜査官に対し、
「私はドイツ民主共和国国家人民軍の将校で、国家保安省職員である。将校としての私の名誉を尊重することを望む」
と、自らがスパイであることを認めた。
この事件は直ちに大きく報道され、ブラント首相の辞任の原因ともなった。
1975年12月15日、ギヨームは禁固15年(妻クリステルは8年)を言い渡された。
1981年10月、西ドイツのエージェント8人と交換で釈放された(妻クリステルは6人と交換)。
東西ドイツ間のスパイ捕虜交換により東ドイツに戻り、公式に
「平和の偵察者 Kundschafter des Friedens」
として顕彰を受けた。
夫妻はカール・マルクス勲章を受章し、ギヨームは国家保安省大佐、クリステルは同中佐に昇進した。
ギヨームはシュタージの工作員養成学校に名誉客員教官として招かれた。
1985年、ポツダム法科高等専門学校 (国家保安省大学校) はギヨームに対し
「平和の保障と東ドイツ国家の強化に対する格別の貢献」
により、名誉法学博士号を授与した。
英雄となったギヨームは一方、シュタージで看護婦として働くエルケ・ブレールと不倫関係になり、東ドイツへの帰還後間もない1981年12月に夫妻は離婚。
1986年にギヨームは15歳年下のエルケと結婚し、その姓ブレールを名乗るようになった。
1986年と1988年に回顧録「告白」を発表。
東西ドイツ統一後はブランデンブルク州エッガースラントの自宅でひっそりと暮らし、1995年4月10日に腎臓癌のためでベルリンの病院で一人の男の人生が幕を閉じた。
人には色々な人生があります。
人生とは言わば人の歴史です。
この人にとって自分の人生はどうだったのでしょうか?
本人以外知る由もありませんが、晩年を考えると本当は静かな人生を求めていたのかも知れませんね。
地球を一つの生命体と考えれば、私達は地球という人生の中に住んでいます。
それはとても長く未だ終ってはいません。
私達はその人生の一部として益となっているでしょうか?
それとも、害となっているでしょうか?
すこし、感傷的になってしまいました。
すみません。。。
人間は歴史からもっと学ぶべきだと思います。
歴史は私達の教科書と成り得るものだと思っています。
だから歴史は楽しく、また面白いのです!
長々とすいませんでした。。。
家族
ギヨームと妻クリステルの一人息子ピエールは両親逮捕後の1975年に東ベルリンへ移り、写真ジャーナリストとしての教育を受けた。
彼はベルリンの壁崩壊直前の1988年に西ドイツへの移住を申請し、家族と共に移住した。
シュタージが有名な「ギヨーム」の名での西側への移住を許さなかったため、彼は母の旧姓を取ってピエール・ボーム (Pierre Boom) と名乗った。
2004年に彼は「知らない父」という回顧録を出版している。
同年3月、ギヨームの前妻クリステルは心臓病のためこの世を去った。
シュタージ(Stasi)とは
ドイツ民主共和国(東ドイツ)の秘密警察・諜報機関である国家保安省(Ministry for State Security、略号MfS)の通称である。
現在本部が在ったこの場所はシュタージミュージアム(シュタージ博物館)となっている。
英語の「state security」に相当するドイツ語の「Staatssicherheit」の部分を読んで 「Stasi」 と呼ばれた。
徹底した監視態勢で東ドイツ国民を震え上がらせるばかりでなく、西ドイツにもスパイを送り込み、東西両ドイツ国民から恐れられた。
全盛期には対人口比で同じドイツ(ナチス政権下)のゲシュタポ、ソ連のKGBをしのぐ監視網を敷いたとされている。
抜粋:http://tiny.cc/93mdxx(wikipedia)より
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