フォンニィ・フォンニャットの虐殺
概要
1968年2月12日、フォンニィ・フォンニャット村を訪れた韓国海兵隊第2海兵師団(青龍部隊)第1大隊は婦女子を集めると至近距離から銃殺、刺殺し火を付け立ち去った。
ところが、その日のうちにアメリカ海兵隊員4名、南ベトナム兵26名からなる部隊が現場に到着してしまった。
アメリカ・ベトナム兵は生存者へ手当を施し、病院へ搬送した。
また、J・ボーン伍長によって事件現場の撮影が行われた。
事件後に生き残った村人たちは犠牲者の遺体を国道1号線に並べて抗議の意思を示した。
当時のフォンニィ・フォンニャット村はアメリカ海兵隊と友好関係にあり、村の男たちはアメリカと同盟関係にある南ベトナム軍に参加していた。
続く2月25日には韓国海兵隊によってハミの虐殺が引き起こされ、ハミ村の婦女子・老人135名が虐殺された。
ハミの虐殺とは
1968年2月25日、韓国軍が135人もの民間人が無差別に殺害した事件。
事件を受けてアメリカ陸軍参謀総長ウィリアム・ウェストモーランド大将が韓国軍に調査報告を繰り返し求め続けたため、韓国軍は韓国海兵隊の軍服を着たベトコンによる陰謀であったとアメリカ軍に報告した。
フォンニィ・フォンニャットの虐殺当時の韓国では韓国政府が行った聞慶虐殺事件、保導連盟事件では共産主義者に罪を着せることで虐殺事件を闇に葬りさることに成功していた。
韓国軍からの報告を受け取ったアメリカ軍では、アメリカ軍監察官のロバート・モレヘッド・コック大佐による調査が行われ、1970年1月10日に韓国海兵隊による虐殺事件であったことを明らかにした報告書が提出された。
2000年11月に行われた、ハンギョレ新聞による蔡命新ベトナム派遣軍最高司令官へのインタビューでは、蔡命新中将はアメリカ人はゲリラ戦に無知であったために韓国側と対立することがあったが、最終的にはアメリカ軍は韓国軍の戦術を取り入れるようになったと述べている。
蔡 命新とは
大韓民国の陸軍軍人。ベトナム派遣軍最高司令官、初代大韓テコンドー連盟会長、ブラジル大使など歴任した人物。
事件翌月にはアメリカ軍の一小隊によってソンミの虐殺が引き起こされたがアメリカ軍は軍法会議を開き実行犯を処罰した。
この事件について蔡命新は戦争では普通のことであるとして実行犯を擁護する発言を行っている。
ソンミの虐殺とは
1968年3月16日、クアンガイ省ソンミ村(現在ティンケー村)で米軍部隊チャーリー中隊第1小隊により無抵抗の住民504人が虐殺された事件。
ソンミ村虐殺のさなか、ヒュー・トンプソン・ジュニア准士官が操縦するヘリコプターが村落上空を通りがかり、多数の死者と民間人への攻撃を目撃。
自ら米軍側トップの説得に当たり、さらなる犠牲を防いだ。
負傷した子供らの救出にも尽力した。
韓国軍によって引き起こされた数々の虐殺によって、少なくとも民間人9,000人が殺害されており、あるいは、30万人を超す犠牲者の数だったとも言われている。
アメリカ軍内部では、韓国軍を完全な後方部隊とするか、南ベトナム民族解放戦線が完全に支配していて、誰を殺しても問題とされない地域に配置転換するべきである、とした検討が行われた。
韓国兵は残忍なやり方で女性を強姦してから殺害するケースが多く、アンリン郡の村人によれば、韓国軍はとりわけ女性にとって恐怖の的だった。
また妊婦や子供は井戸に落とし、助けを求める声を無視して手榴弾を投げ込んだ。
生き残った村人はバラバラになった遺体を井戸から引き上げ、盛り土をしただけの簡単な墓に家族の遺体を葬った。
1969年2月には事件の遺族達によって南ベトナム議会に賠償を求める請願書が提出されている。
2000年には蔡命新将軍は数々の事件について、我々は誰にも償いをする必要はないと述べている。
2013年8月、クォン・キヒョン大韓民国国防部スポークスマンはグローバル・ポストに対して、「韓国軍が組織的に民間人虐殺を行うことは不可能」「ベトナム女性への性的搾取はない」と、ベトナム戦争当時の韓国軍によるベトナム人虐殺・女性凌辱を否定した。
抜粋:http://ul.lc/5ce1(wikipedia)より