【今日の歴史】1974年8月28日の事

【今日の歴史】1974年8月28日の事
アップライトピアノ
アップライトピアノ

ピアノ騒音殺人事件

ピアノ騒音殺人事件とは、1974年8月28日の朝に神奈川県平塚市で発生した殺人事件。
ピアノの騒音を理由として母子3人が殺害された。
近隣騒音殺人事件の第1号として知られている。

1973年11月以降から神奈川県の県営住宅に住み音に敏感だった男性O(当時46歳)は階下のA宅でのピアノの音がうるさいとAに苦情を訴えていたが、A家では特に対策をとっていなかったため、OはA一家がわざと騒音を立てていると思い込むようになり殺害を決意。
1974年8月28日の午前9時10分頃、Oは階下のA宅に侵入、ピアノの練習をしていた子供2人(それぞれ8歳と4歳)と母親(33歳)を殺害し、襖に「謝罪の言葉がない」などの苦情を書き散らし逃亡した。
Oは自殺を試みるが失敗し、3日後の8月31日に出頭して殺人容疑で逮捕された。

調査
裁判ではOの部屋の騒音を計測した市職員が証人として出廷。
1回目は午後2時の測定では周囲の暗騒音の中央値が44ホンであり、階下で弾くピアノの音を測定できなかった。
2回目は午前7時30分から測定したが、窓を開けた状態でも上限値44ホンであった。
1971年5月に閣議決定された「騒音に関わる環境基準」では、住宅地において昼間50ホン以下、朝夕45ホン以下、夜40ホン以下であったため、階下のピアノの音は閣議決定の環境基準値以内であった。
ただし、この時ピアノを弾いた時間は約15分ぐらいであり、しかもピアノは警察関係者が弾いていたことが後に判明している。
用いられた測定方法は神奈川県の公害防止条例に基づくものであるが、条例では40ないし45ホンの場合に人体に対する影響は「睡眠がさまたげられる、病気のとき寝ていられない」と規定されていた。

その後
被告人となったOを精神鑑定した医師が出廷し、Oは精神病症状は見られず、知能も普通であり、責任能力はあるが、道徳感情が鈍麻した精神病質に該当すると述べた。

1975年8月11日、検察側は論告で「事件は計画的犯罪であり、殺害方法は残虐。ピアノの音が不快であるという犯行の動機に酌量の余地はない。
極悪非道の犯罪であり、極刑をもって挑む以外にはない」と述べて死刑を求刑。
同年10月20日、Oに対して死刑判決が下された。

しかし、事件がマスコミによって大々的に報道されたことで、全国から騒音被害者などによる助命嘆願活動が行われた。
1976年5月、Oに対して精神鑑定が実施され、責任能力なしの判断が下った。
同年10月、「拘置所内の騒音に耐えられず、死にたい」との理由でOは控訴を取り下げ。
1977年に死刑が確定した。拡大自殺ともいえる控訴取り下げによる死刑確定であった。

しかし、2014年時点でOの死刑は執行されておらず、東京拘置所に収監中である。
また、再審請求も確認されていない。
Oは犯行事実に関して冤罪疑惑がない死刑囚としては2014年時点で最古参の死刑確定囚である

詳細
Oが住んでいた団地の自治会では、ピアノの練習は昼の間だけ、音量は絞る、窓は締め切るなどの規則を作られていたが、全住居人が守っていたわけではなかった。
Oは以前からステレオやペットの鳴き声などで近隣住民とトラブルになったほど悩まされており、事件直前には、窓やドアの開閉音すら苦痛に感じて、通院するほど精神的に追い詰められていた。
特に、A家に対しては日曜大工や子供の遊ぶ声にも抗議しており、子供の睡眠中は静かにして欲しいとの貼り紙をみて、「自分の家では迷惑な騒音を出しているにもかかわらず、周りには静かにしろというのは言語道断」と考え、犯行を決意したと後に語っている。

Oは自分が音に対して病的であるとの自覚はあったが、殺人を犯したことについては1977年2月9日の被告人質問の際にも「自分こそが被害者」との姿勢を崩さなかった。

昭和40年代の高度経済成長の恩恵で暮らしが豊かになる中で、団地などの集合住宅では騒音被害が問題となっていたことから、「ピアノ公害」という言葉さえ生まれていた。

豆知識
この事件を受け、住宅・都市整備公団(現・独立行政法人都市再生機構)は床厚を150mmに増やした。

また、アップライトピアノに弱音装置が取り付けられた。

この事件以降、騒音などによる事件や訴訟が頻発しており、多くの専門家はこの事件を「日本人の騒音に対する考え方が劇的に変化した事件」としている。

抜粋:http://ul.lc/4w9g(wikipedia)より

 

歴史的な事件カテゴリの最新記事

Verified by MonsterInsights