サリュート1号打ち上げ
1971年4月19日にソビエト連邦によって
打ち上げられた世界初の宇宙ステーションである。
ソユーズ10号の失敗の後、ソユーズ11号によって3人の宇宙飛行士が訪れ、3週間の滞在の間に各種の実験・観測や、無重力環境が人体に与える影響の調査が行われた。
ソユーズ10号の失敗
コールサインは「Granite(花崗岩)」
サリュート1号へのドッキングを試みるが失敗し、ステーションに入ることなく地球に帰還。
ソユーズ11号の失敗
コールサインは「ヤンタル(琥珀)」
サリュート1号へのドッキングに初めて成功したが…。
これらの失敗によりステーションは無人のまま軌道上にとどまり、同年10月11日に大気圏に再突入して廃棄された。
ロシア語でサリュート(салют)は「敬礼」を意味する。
設計
サリュートには非軍事目的のDOS(積算吸収線量の計測)と軍事目的のアルマース(OPS=軌道有人ステーション)の2つの型式があった。
サリュート1号はDOSステーションで、表向きには非軍事用だったが、実際には軍事的な任務も行った。
サリュート1号は、元々は第52設計局 (OKB-52) を統括するウラジミール・チェロメイがアルマースとして開発を進めていた。
しかし、宇宙ステーションの完成を急ぐ政府の意向により、ヴァシーリー・ミシン率いる第1設計局(OKB-1)が途中から開発に参加し、DOSステーションとして建造が進められた。
サリュート1号は太さの異なる円筒が連なった形をしていた。
長さは13mで、最大直径は4mだった。
与圧区画の体積は99m3、質量は18トンに達した。
電力供給用の太陽電池パネルはソユーズ宇宙船から流用したものを4枚用いた。
ステーションは4つの区画から構成されていた。
ソユーズとのドッキングに使用される移乗区画・生活や実験の場である主要区画・生命維持装置などのステーションの機能を支える装置を載せた補助区画・ステーションの軌道を保持するための機関区画であった。
機関区画はソユーズ宇宙船のサービスモジュールと共通の設計になっていた。
サリュート1号に搭載された主要な装置として、オリオン1宇宙天文台と呼ばれるものがあった。
オリオン1は主鏡直径28cmの紫外線望遠鏡を中心とした天体観測装置で、200-380ナノメートル の波長領域(近紫外線)のスペクトルを5nmの解像度で得ることができた。
近紫外線とは
UV-A ・UV-B・UV-Cの波長領域が近紫外線
UV-A (波長 315–380 nm)
太陽光線由来のもののうち、5.6%が大気を通過する。
冬季及び朝夕でもあまり減衰しない。
皮膚の真皮層に作用し蛋白質を変性させる。
皮膚の弾性を失わせ老化を促進する。
細胞の物質交代の進行に関係しており、細胞の機能を活性化させる。
また、UV-Bによって生成されたメラニン色素を酸化させて褐色に変化させる。
UV-B (波長 280–315 nm)
太陽光線の由来のもののうち、0.5%が大気を通過する。
表皮層に作用するが、色素細胞がメラニンを生成し防御反応を取る。
これがいわゆる日焼けである。
この際ビタミンDを生成する。
サンバーン (sunburn)。
UV-C (波長 200–280 nm)
オゾン層で守られている地表には通常は到達しない。
強い殺菌作用があり、生体に対する破壊性が最も強い。
地球温暖化やハロン系物質によりオゾン層が破壊されると、地表に到達してあらゆる生物相に著しい影響が出ることが懸念されている。
サリュート1号運用
サリュート1号は、1971年4月19日にバイコヌール宇宙基地からプロトン8K82Kロケットを使用(別名UR-500、RD-253エンジン6基の1段目とRD-0210エンジン4基の2段目を持つ2段式)して打ち上げられた。
軌道投入は予定通りに進んだが、科学機器ベイを覆うカバーが分離できず、計画されていた観測の一部が行えなくなった。
しかしソユーズによる滞在員の打ち上げは当初の計画通りに行うことになった。
「ソユーズ10号」
1971年4月23日に打ち上げられた。
ウラジーミル・シャタロフ、アレクセイ・エリセーエフ、ニコライ・ルカビシュニコフの3名をステーションまで送ることができたが、ドッキングには成功しなかった。
ソユーズは物理的にサリュートへ結合することが出来たものの、宇宙飛行士らが安全にステーションに入ることが出来るほどではなかった。
さらにソユーズのハッチがサリュートから抜けなくなってしまった。
最終的にソユーズをサリュートから切り離すことが出来たが、これによって大気圏突入時にカプセル内部の空気が汚染され、ルカビシュニコフが気絶した。
そして、24日にラガンダ北西120kmに着陸し、3人は無事に回復した。
「ソユーズ11号」
1971年6月6日、3人の飛行士を乗せたソユーズ11号が打ち上げられ、6月7日にサリュート1号とドッキングした。
乗員がステーション内に入ると煙の臭いが充満していた。
空気が浄化されるまでの間、宇宙飛行士はソユーズで睡眠をとった。
8日にソユーズは待機モードに移され、本格的なステーションの運用が始まった。
地上では、世界初の宇宙ステーションの運用開始として大々的に報じられた。
ソユーズ11号の乗員は宇宙ステーションの姿勢制御や軌道変更を行った。
サリュート1号のカバーの分離に失敗していたため一部の観測はできなかったが、それ以外の実験は比較的順調に進んだ。
オリオン1の紫外線望遠鏡によってシリウスとケンタウルス座β星の紫外線スペクトルが測定され、地球表面や大気圏の観測も行われた。
長期の宇宙滞在が人体に与える影響を調べることも重要な任務の一つだった。
6月29日、23日間の滞在を終えた3人はソユーズ11号に乗ってサリュートから離れ、6月30日に地上に帰還した。
しかし乗員はカプセル内で遺体となって発見された。
調査の結果、大気圏突入直前にカプセルの空気が抜けていたことが判明した。
当時のソユーズ宇宙船の帰還モジュールは、3人のクルーが宇宙服を着たまま乗り込める構造になっていなかった。
ソユーズ10号がサリュートとのドッキングに失敗した後、11号のクルーを2人に減らして宇宙服を着せ、ドッキング前に船外活動を行ってドッキングシステムを点検することも提案されていたが、クルー候補たちは船外活動の訓練を受けていなかったため却下された。
3人に対しては盛大な国葬が行われ、モスクワの赤の広場にある共同墓地に葬られた。
アメリカ人宇宙飛行士のトーマス・スタッフォードは葬儀で棺を担いだ一人である。
3人の名前は、月のクレーター、小惑星番号1789番から1791番の小惑星(ドブロボルスキー、ボルコフ、パツァーエフ)にも付けられている。
この事故の後、ソユーズは2人乗り専用になり、全面的に改造され、発射と着陸の時には宇宙服を着用するようになった。
1980年に初の有人飛行が行われたソユーズTからは再び3人乗りになったが、帰還モジュールには3人が宇宙服を着て搭乗できる広いスペースが設けられた。
「ソユーズ12号」
ソユーズ12号はサリュート1号とドッキングする計画だったが、11号の事故を受けて中止された。
実際のソユーズ12号は、安全性を改善した新型ソユーズのテスト飛行として打ち上げられた。
サリュート1号再突入
無人となったステーションは設計寿命の3ヶ月を過ぎても運用された。
推進剤の消費量や空力特性のデータが集められ、以後の参考になった。
1971年7・8月には、空気抵抗による落下を防ぐ目的でより高い軌道へ移動するためのエンジン噴射が行われた。
しかし同年10月に電子機器が故障し、大気圏に安全に突入できなくなる恐れが生じたため、10月11日に軌道修正を行って太平洋上の大気圏に突入した。
また、4年後のこの日インド初の人工衛星アリヤバータが打ち上げられる。
名前はインドの天文学者、アリヤバータに由来する。
1975年4月19日、ソビエト連邦によってカプースチン・ヤールからコスモス3Mロケットで打ち上げられた。
そして、世界は宇宙開発時代に突入していった。
ソユーズ11号逸話
ソユーズ11号には当初
アレクセイ・レオーノフ
ワレリー・クバソフ
ピョートル・コロディン
の3人が搭乗予定だった。
打ち上げの4日前に行われたX線検査でクバソフが結核に感染していることが発見され、規定によりバックアップ・クルーの3人と交代になった。
レオーノフは問題のバルブがしばしば誤作動を起こしていたことを認識していた。
突入前の宇宙船との交信で、自動ではなく手動でバルブを操作するようにとアドバイスしていた。
しかし結局クルーは自動でバルブを動作させ、死亡事故に至った。
レオーノフは自分がソユーズ11号に乗っていれば事故は起こらなかったと自責の念にかられたという。
更に、クルー交代の原因となったクバソフの結核は、その後、誤診であった事が判明した。
抜粋
http://is.gd/RZEejF(wikipedia)
http://is.gd/nkJNHx(wikipedia)より