【今日の歴史】1846年9月23日の事

【今日の歴史】1846年9月23日の事
探査機「ボイジャー2号」が撮影した海王星
探査機「ボイジャー2号」が撮影した海王星

 ガレが海王星を発見

ガレは1845年に博士論文を完成した。この論文は、オーレ・レーマーが1706年10月20日から10月23日にかけて行なった恒星と惑星の子午線通過の観測について、解析と批評を加えたものだった。
1845年頃、ガレはこの論文をユルバン・ルヴェリエに送ったが、これに対するルヴェリエの返信は1年後の1846年9月18日になってようやく届けられた。この手紙はガレの元に9月23日に着き、その中でルヴェリエは、天王星の摂動の原因として存在が予測される新惑星を見つけるために、空のある領域を観測して欲しいと書いていた。

上司のエンケはこの予測に否定的だったが、ガレにこの日の夜の観測を許可した。
この夜の観測で、ガレはルヴェリエの記述に合致する天体を発見し、続く2夜の観測によってこの天体が惑星であることが確認された。

その後、ルヴェリエと、どちらが海王星の発見者か、ということで争っていたが、現在では、この2人の共同であるということで落ち着いている。

ヨハン・ゴットフリート・ガレ
(1812年6月9日 – 1910年7月10日)はドイツの天文学者。ベルリン天文台で学生のハインリヒ・ルイス・ダレストとともに1846年9月23日に初めて海王星を観測し、これが新惑星であることを確認した。海王星の観測にあたっては、捜索領域を決定するためにユルバン・ルヴェリエの計算を用いた。

ガレは1835年、ベルリン天文台の完成後すぐにヨハン・フランツ・エンケの助手として働き始めた。
1851年に彼はブレスラウ(現在のポーランド・ヴロツワフ)に移り、ブレスラウ大学の天文学教授とこの地の天文台の台長に就任した。

ガレは生涯を通じて彗星を研究し、1894年に、息子のアンドレアス・ガレとともに、414個の彗星のリストを発表した。ガレ自身も、1839年12月2日から1840年3月6日までの短い期間に3個の彗星を発見している。
また、小惑星の視差が太陽系の距離決定に使えることを指摘した[1]。小惑星の視差による距離決定はガレの死後20年目に実現している。

ガレの業績にちなんで、月のクレーター、火星のクレーター、及び海王星の環に、ガレの名が付けられている。

ユルバン・ジャン・ジョセフ・ルヴェリエ
(1811年3月11日 – 1877年9月23日)はフランスの数学者、天文学者。
未発見であった海王星の位置を計算によって予言した。天体力学を専門とし、生涯の大部分をパリ天文台で過ごした。ルヴェリエは1811年、フランス西部のサン=ローで生まれた。

ルヴェリエの最も有名な業績は、天文計算と観測のみによる海王星の発見である。
数学者フランソワ・アラゴの勧めによって、ルヴェリエは天王星の軌道運動の観測結果とケプラーの法則やニュートン力学から予言される運動との間の矛盾を説明するための計算を行った。
彼と同時期にイギリスのアダムズも同じ計算を行っていたが、互いに相手の研究については知らなかった。
ルヴェリエは計算結果をドイツのガレに報告し、1846年9月にガレは新しい惑星を発見した。
発見位置はみずがめ座にあり、ルヴェリエの予言から1度以内の位置で見つかった(今日では海王星の発見者はこの三者であるとされているが、海王星発見の業績に関して三者の貢献をどう評価するかは今も議論がある)。

この発見に勇気付けられたためか、ルヴェリエは当時原因が不明であった水星の軌道の変動(近日点の移動)についても他の惑星の影響であると主張した。
(この惑星はバルカンという仮の名前で呼ばれた。)
これによって数多くの間違った観測報告が行われたが、後に1915年になってアルベルト・アインシュタインがこの特異な運動は一般相対性理論によって説明できることを示した。

クリミア戦争の際、暴風で黒海の英仏艦隊が壊滅したのを受けてヨーロッパ中の気象情報を収集して天気図を作成。その結果から、天気予報の必要性を政府に進言したことでも知られる。

ルヴェリエは1868年と1876年に英国王立天文学会ゴールドメダルを受賞した。
二度目の受賞の翌1877年、パリで死去した。

豆知識
パリ天文台の正面玄関に、ルヴェリエの銅像が建てられている。
また、エッフェル塔にその名が刻まれている。
月と火星のクレーターや海王星の環にルヴェリエの名前が付けられている。
また小惑星(1997)ルヴェリエも彼にちなんで命名されている。

抜粋:http://ul.lc/4yw0(wikipedia)より





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