【今日の歴史】710年4月13日の事【遷都の理由】

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平城京  3DCGイラストレーション 制作:占部浩(c)Urabe Hiroshi
平城京
3DCGイラストレーション
制作:占部浩(c)Urabe Hiroshi

平城京に遷都

奈良時代の日本の首都。
いわゆる「奈良の都」である。
唐の都「長安」や北魏洛陽城などを模倣して建造されたとされ、
現在の奈良県奈良市及び大和郡山市近辺に位置していた。

歴史
藤原京から平城京への遷都は文武天皇在世中の707年(慶雲4年)に審議が始まり、708年(和銅元年)には元明天皇により遷都の詔が出された。

しかし、710年4月13日(和銅3年3月10日)に遷都された時には、内裏と大極殿、その他の官舎が整備された程度と考えられており、寺院や邸宅は、山城国の長岡京に遷都するまでの間に、段階的に造営されていったと考えられている。

740年(天平12年)、恭仁京や難波京への遷都によって平城京は一時的に放棄されるが、745年(天平17年)には、再び平城京に遷都され、その後784年(延暦3年)、長岡京に遷都されるまで政治の中心地であった。

山城国に遷都したのちは南都(なんと)とも呼ばれた。

810年(弘仁元年)9月6日、平城上皇によって平安京を廃し平城京へ再び遷都する詔が出された。

これに対し嵯峨天皇が迅速に兵を動かし、9月12日、平城上皇は剃髪した(薬子の変)

これによって平城京への再遷都は実現することはなかった。

ここでミステイク。
810年(弘仁元年)9月6日とあるが、旧歴(ユリウス暦)810年9月6日とすれば、大同5年8月4日だし、現歴(グレゴリオ歴)810年9月6日は大同5年7月30日?
和暦、弘仁元年は9月19日からのはず、旧暦でも810年10月20日、現歴でも810年10月24日?

単純に810年(大同5年)9月6日の間違いだな。
だって薬子の変が大同5年だもんw

最近間違いが多いぞウィキ君って、前からかw
私が調べなおしているのもそう言う理由からでもある。
だから、転載ではなく、抜粋なのだ。

まあ、それはさておき。

薬子の変(くすこのへん)とは
大同5年(810年)平城上皇嵯峨天皇とが対立するが、嵯峨天皇側が迅速に兵を動かしたことによって、平城上皇が出家して決着する。
平城上皇の愛妾の尚侍・藤原薬子(ふじわらのくすこ)や、その兄である参議・藤原仲成ふじわらのなかなり)らが処罰された。

簡単に言うと、何で平城上皇がせっかく一生懸命造った長岡京を捨てるだ!(建前)って、2人が反乱を起こしたわけ。
なぜなら、長岡京造営の責任者が
藤原種継(ふじわらのたねつぐ)2人の親父だったからだ(本音)。
長岡京遷都の翌年785年9月23日に藤原種継は暗殺されているので尚更?

なお名称について、かつては藤原薬子らが中心となって乱を起こしたものと考えられており、「薬子の変」という名称が一般的であった。

しかし、律令制下の太上天皇制度が王権を分掌していることに起因して事件が発生した、という評価がなされるようになり、2003年頃から一部の高等学校用教科書では「平城太上天皇の変」という表現がなされている。

藤原種継暗殺事件とは
遷都後間もない延暦4年9月23日(785年11月3日)夜、種継は造宮監督中に矢で射られ、翌日薨去。

桓武天皇が大和国に出かけた留守の間の事件だった。

暗殺犯として大伴竹良らがまず逮捕され、取調べの末大伴継人佐伯高成ら十数名が捕縛されて斬首となった。

事件直前の8月28日に死去した大伴家持首謀者として官籍から除名された。

事件に連座して流罪となった者も五百枝王藤原雄依紀白麻呂大伴永主など複数にのぼった。

この後、関係者の大半が死亡したらしい。(謎・謎・謎)

もともと種継と早良親王は不仲であったとされているが、早良が実際に事件にかかわっていたのかどうかは真偽が定かでない。

しかし家持は生前春宮大夫であり、高成や他の逮捕者の中にも皇太子の家政機関である春宮坊の官人が複数いたことは事実である。

遷都推進の中心人物で、桓武天皇からの信頼が厚い種継だったからこそ、妬まれ狙われたのではないかと、勝手に推測w

都市計画の概要
平城京南北に長い長方形で、中央の朱雀大路を軸として右京左京に分かれ、さらに左京の傾斜地に外京(げきょう)が設けられている。

東西軸には一条から九条大路、南北軸には朱雀大路と左京一坊から四坊、右京一坊から四坊の大通りが設置された条坊制の都市計画である。

平城京 条坊図www1.kcn.ne.jpより
平城京 条坊図
www1.kcn.ne.jpより

各大通りの間隔は約532メートル、大通りで囲まれた部分(坊)は、堀と築地(ついじ)によって区画され、さらにその中を、東西・南北に3つの道で区切って町とした。

京域は東西約4.3キロメートル(外京を含めて6.3キロメートル)、南北約4.7キロメートル(北辺坊を除く)に及ぶ。

平城京の市街区域は、大和盆地中央部を南北に縦断する大和の古道下ツ道・中ツ道を基準としている。

下ツ道跡の碑平成20年7月にかしはら万葉ホール(小房町)の南側にある公園内に設置http://www3.pref.nara.jpより
下ツ道跡の碑
平成20年7月に
かしはら万葉ホール(小房町)の
南側にある公園内に設置
http://www3.pref.nara.jpより

下ツ道が朱雀大路に当たり、中ツ道が東四坊大路(ただし少しずれる)に当たる。

二条大路から五条大路にかけては、三坊分の条坊区画が東四坊大路より東に張り出しており、これを外京と呼ぶ。
また、右京の北辺は二町分が北に張り出しており、これを北辺坊と称する。

平城京 条坊図www1.kcn.ne.jpより
平城京 条坊図
説明との兼ね合いのため再びw
www1.kcn.ne.jpより

市街地の宅地は、位階によって大きさが決められ、貴族が占める4町の物を筆頭として、2町・1町・1/2町・1/4町・1/8町・1/16町・1/32町などの宅地が与えられた。

土地は公有制であるため、原則的には天皇から与えられた物であった。

平城宮の東側の一坊大路と二坊大路の間には、4町の宅地を占有した藤原不比等長屋王(過去記事参照)藤原仲麻呂の邸が集まっていた。

唐の都の長安を模倣して作られたというのが一般的な定説である。

しかし先行する藤原京の場合大内裏に当たる部分が中心に位置しており、北端に置いたのは北魏洛陽城などをモデルとした、日本独自の発展形ではないかという見方もある。

平城京の建築物
大極殿(再建) 平城宮(内裏)は朱雀大路の北端に位置し、そこに朱雀門が設置された。

朱雀門美しい、美しすぎる~!www.k9life.comより
朱雀門
美しい、美しすぎる~!
www.k9life.comより

平城宮は平城京造営当初から同じ位置に存在した。

その中心建物で、朱雀門の北にあった大極殿740年の恭仁京遷都の際に取り壊され、745年の平城京遷都後に旧位置の東側(壬生門の北)に再建された。

総工費180億円の大極殿出典:たくたくコラム Blog出張所さんより
総工費180億円の大極殿
出典:たくたくコラム
Blog出張所さんより

朱雀大路の南端には羅城門があり、九条大路の南辺には京を取り囲む羅城があった。

ただし、実際には羅城は羅城門に接続する極一部しか築かれなかったのではないかとする説が有力である。

京内寺院の主要なものは、大安寺薬師寺興福寺元興寺(以上を四大寺と称した)で、これらは藤原京から遷都に際して移転されたものである。

東大寺は東京極大路に接した京域の東外にあり、聖武天皇によって天平勝宝4年(752年)に創建西大寺は右京の北方に位置し、称徳天皇により天平神護元年(765年)に創建された。

これらに法隆寺を加えて七大寺(南都七大寺)と称する。

この他、海龍王寺法華寺唐招提寺菅原寺(喜光寺)新薬師寺紀寺(子院が残る)西隆寺(廃寺)などがあった。

2006年3月10日、大和郡山市教育委員会らが、平城京が十条大路まで造られていたのは確実であると発表した。

下三橋遺跡で発見された道路の遺構に加え、羅城(城壁)跡の一部が発見されたことに依る。

この羅城は中国の都城の様な土壁ではなく、南面だけは高い築地塀があったが他は簡単な瓦葺きの板塀ではないかと推定されている。

発掘・調査
北浦定政が、自力で平城京の推定地を調査し、水田の畦や道路に街の痕跡が残ることを見つけ、1852年(嘉永5)『平城宮大内裏跡坪割之図』にまとめた。

北浦定政「平城宮大内裏跡坪割之図」(へいじょうきゅうだいだいりあとつぼわりのず)出典:たまたま日記さん
北浦定政
「平城宮大内裏跡坪割之図」
(へいじょうきゅうだいだいりあとつぼわりのず)
出典:たまたま日記さん

さらに関野貞は、大極殿の基壇を見つけ、平城宮の復元研究を深めて、その成果を『平城宮及大内裏考』として1907年(明治40)に発表した。

棚田嘉十朗によって「奈良大極殿保存会」が設立され、1924年から平城宮の発掘調査が行われた。

1959年以降は、奈良国立文化財研究所が発掘を継続している。

大内裏に相当する辺り現在の近鉄奈良線大和西大寺駅と新大宮駅の中間にあり、1922年には史跡に指定、1952年には特別史跡(平城宮跡(へいじょうきゅうせき))として保存されている。

特別史跡(平城宮跡)出典:オヤジチャリダー日記
世界遺産(平城宮跡)
考古遺跡としては日本初
出典:オヤジチャリダー日記

1998年(平成10年)12月、「古都奈良の文化財」として東大寺などと共に世界遺産に登録された。

さらに1978年に平城京左京三条二坊宮跡庭園が特別史跡、および1992年特別名勝に指定されている。

また朱雀大路の一部(二条-三条あたり)が1984年に史跡に指定されている。

平城宮のすぐ東南の左京三条二坊に、敷地4町の長屋王の邸宅 っ過去記事参照があった。
出土した木簡は3万点を超える数であり、その解読の結果、長屋王家の生活が明らかになった。

1967年に、外京に奈良時代の庭園が発見された。

東西70メートル、南北100メートルにわたるもので、その中に、池を掘り、橋をかけ、建物を建てていた。

「続日本紀」にある「東院の玉殿、葺くに瑠璃の瓦を以てす」という記事のとおり、釉薬をかけた瓦がまとまって出土した。

このことから、発見された庭園は、東院庭園と呼ばれている。

その他
平城京はシルクロードの終着点でもあることから、国際的な都市であった。

京内には新羅、遠くはインド周辺の人々までみられたという。
その時代をうかがわせるのが東大寺正倉院の宝物などである。

正倉院展 宝物出典:mahono28.blog.fc2.com
正倉院展 宝物
出典:mahono28.blog.fc2.com

桓武天皇が、平城京から長岡京へ遷都を決めた理由として、平城京の地理的条件と用水インフラの不便さがあった。

平城京は大きな川から離れているため、大量輸送できる大きな船が使えず、食料などを効率的に運ぶことが困難であった。

比較的小さな川は流れていたが、人口10万人を抱えていた当時、常に水が不足していた。

生活排水や排泄物は、道路の脇に作られた溝に捨てられ、川からの水で流される仕組みになっていた。
しかし、水がほとんど流れないため汚物が溜まり、衛生状態は限界に達していた。

なお、平城京が模範とした長安も、大運河から離れていることによる水運の不便さが一因となって五代以降洛陽・開封などに首都の地位を奪われている。

近年の説としては平城京の外港であった難波津における土砂の堆積と三国川(現在の神崎川)の工事による淀川との接続が首都の所在地を大和国(飛鳥京・藤原京・平城京)から山城国(長岡京・平安京)に変えたとする説がある。

古代の日本の東西間の交通は西国より水路で難波津に上陸し、奈良盆地を横断して鈴鹿関を通って伊勢湾を横断して東国に向かう経路が採用されており、大和国はその中継地点であった。

ところが、8世紀に入ると土砂の堆積で難波に船を着けることが困難になったことで西国との交通に支障が生じ、東国との交通においても馬の同伴が困難な伊勢湾横断が敬遠され、尾張国から美濃国の不破関を目指す不正規な迂回ルートが用いられるようになっていった。

こうした中で難波津-大和国-鈴鹿関(東海道)ルートの優位性が失われ、代わりに淀川-山城国-不破関(東山道)ルートが採用されるようになると、首都もそのルートの中継地点である山城国に移ったとするものである。

都からの駅路の時代変遷出典:www.bell.jp
都からの駅路の時代変遷
出典:www.bell.jp

この三国川の工事に合わせるかのように長岡京への遷都と平城京・難波宮の廃止が行われていることから指摘されている。

なお、平城京遷都に際しては田上山(たなかみやま、現在の大津市)のヒノキを大量に伐採して用いた。

このため田上山(たなかみやま)ははげ山となり、江戸時代から現在に至るまで緑化が続けられているがいまだ植生は回復していない。

ちなみに、日本一有名なトパーズの産地でもあるw

抜粋:http://tiny.cc/jmwywx(wikipedia)より

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