【今日の歴史】1503年12月14日の事【伝説ばかりの人】

【今日の歴史】1503年12月14日の事【伝説ばかりの人】
ミシェル・ド・ノートルダム
ミシェル・ド・ノートルダム

ノストラダムス爆誕!

ノストラダムス(Nostradamus、 – 1566年7月2日)は、ルネサンス期フランスの医師、占星術師、詩人。
また料理研究の著作も著している。日本では「ノストラダムスの大予言」の名で知られる詩集を著した。
彼の予言は、現在に至るまで多くの信奉者を生み出し、様々な論争を引き起こしてきた。

本名はミシェル・ド・ノートルダム (Michel de Nostredame) で、よく知られるノストラダムス(ミシェル・ノストラダムス)の名は、姓をラテン語風に綴ったものである。
しばしば、「ミシェル・ド・ノストラダムス」と表記されることもあるが、後述するように適切なものではない。

概要
ノストラダムスは改宗ユダヤ人を先祖とし、1503年にプロヴァンスで生まれ、おそらくアヴィニョン大学で教養科目を、モンペリエ大学で医学を、それぞれ学んだ。

南仏でのペスト流行時には、積極的に治療にあたり、後年その時の経験などを踏まえて『化粧品とジャム論』などを著した。

他方で、1550年頃から占星術師としての著述活動も始め、代表作『ミシェル・ノストラダムス師の予言集』などを著し、当時大いにもてはやされた。

王妃カトリーヌ・ド・メディシスら王族や有力者の中にも彼の予言を評価する者たちが現れ、1564年には、国王シャルル9世から「常任侍医兼顧問」に任命された。
その2年後、病気により62歳で没した。

彼の作品で特によく知られているのが、『ミシェル・ノストラダムス師の予言集』である(『諸世紀』という名称も流布しているが、適切なものではない)。

そこに収められた四行詩による予言は非常に難解であったため、後世様々に解釈され、その「的中例」が喧伝されてきた。
あわせて、ノストラダムス自身の生涯にも多くの伝説が積み重ねられてゆき、結果として、信奉者たちにより「大予言者ノストラダムス」が祭り上げられることとなった。

これに対する学術的な検証は長らくほとんど行われてこなかったが、現在では、伝説を極力排除した彼の生涯や、彼が予言観や未来観を形成する上で強い影響を受けたと考えられる文献なども、徐々に明らかになっている。

そうした知見を踏まえる形で、ルネサンス期の一人の人文主義者としてのノストラダムス像の形成や、彼の作品への文学的再評価などが、目下着実に行われつつある。

生涯

少年時代および遊学期
ノストラダムスは、1503年12月14日木曜日に、当時まだフランス王領に編入されて間もなかったプロヴァンス地方のサン=レミで生まれた。

幼い頃には母方の曾祖父ジャン・ド・サン=レミが教育係を務め、ノストラダムスに医学、数学、天文学ないし西洋占星術(加えて、ギリシャ語、ラテン語、カバラなどを含めることもある)の手ほどきをしたとも言われるが、ジャンは1504年頃に没していた可能性が高いため、彼が教育を施したとは考えられない。

父方ないし母方の祖父が教育係とされることもあるが、どちらも15世紀中に没しているので問題外である(これらは公文書類で確認できる)。

結局のところ、彼が幼い頃に誰からどのような教育を受けていたかは、明らかになっていない。

ノストラダムスは、15歳前後(1518年頃)にアヴィニョン大学に入学し、自由七科を学んだようである。
この点は実証的な伝記研究でも確実視されているものの、史料的な裏付けはなく、入学時期もはっきりしない。

在学中には、学友たちの前で、コペルニクスの『天球の回転について』の内容を20年以上先取りするかの如くに正確な地動説概念を語るなど、諸学問、特に天体の知識の卓抜さで知られていたとする「伝説」はあるが、裏付けとなる史料はなく、むしろノストラダムスの宇宙観は地動説と対置されるプトレマイオス的なものとも指摘されている。

このアヴィニョン大学在学は、1520年に中断を余儀なくされたと推測されている。

ペストの影響でアヴィニョン大学をはじめとする南仏の大学の講義が停止されたからである。

このことは、1521年から1529年まで各地を遍歴し、薬草の採取や関連する知識の収集につとめたと、後に本人が語ったこととも矛盾しない。

他方で、遍歴に先立って、ノストラダムスがモンペリエ大学医学部で医師の資格を取得したとする説もあるが、現在では虚構の可能性が高いと考えられている。

この説は、後にノストラダムスの秘書になったジャン=エメ・ド・シャヴィニーによるものだが、史料による確認が取れず、ノストラダムス自身が後の私信で、医学と判断占星術の研究歴を1521年頃から起算していることとも整合していない。
史料的に裏付けられる同大学入学は遍歴の後である。

モンペリエとアジャンでの日々
現在のモンペリエ大学医学部 1521年からの約8年にわたる遍歴を経て、ノストラダムスは1529年10月23日にモンペリエ大学医学部に入学した。
この時点で、薬剤師の資格は取得していたようであり、その後研究を重ねて医学博士号を取得したとされる。
ただし、記録は確認されておらず、むしろ当時の学生出納簿にはノストラダムスの名を抹消した形跡があり、この傍には在学中に医師たちを悪く言ったかどで告発された旨の記述がある。この点、はっきりと大学から除籍されたと位置づける者もいる。

また、当時の正式な薬剤師に求められた要件(数年間に及ぶ徒弟修業期間や同業者組合内の試験)を、ノストラダムスが満たしていた形跡が見られないことから、入学前に薬剤師資格を保持していたこと自体を疑問視する者もいる。

この頃の「伝説」としては、博士号取得後に請われて同大学の教授として教鞭を執ったが、その未来を先取りするかのような治療法のせいで保守的な教授たちとの間で軋轢が生まれ、1年で辞職したというものがある。
しかし、それは17世紀以降に言われるようになったにすぎず、それを裏付ける史料は見つかっていないどころか、上記のように博士号取得に至る過程自体もはっきりしていない。

従来博士号を取得したとされてきたこの時期の前後に、エラスムスに比肩しうる学者として知られていた、アジャンのジュール・セザール・スカリジェの招きを受けたこともあり、ノストラダムスはアジャンへと移住した。

彼はアジャンで開業医として医療に携わる傍ら、博識のスカリジェから多くを学んだらしい。

また、1531年にアジャンのアンリエット・ダンコスと結婚したことが、1990年代に発見された結婚契約書から窺える。

この発見によって、従来謎だった最初の妻の名前も明らかになったが、慎重な見方をする論者もいる。
実際のところ、この時期既にアジャンにいたのだとすれば、モンペリエで3年間研究して博士号を取得したとされた通説との間に、齟齬を来すことになる。

結婚契約書の真偽はなお検討の余地があるとしても、アジャン滞在中に最初の結婚をし、子供をもうけたことは、確実視されている。

しかし、1534年頃に妻子ともに亡くなったようである。

この死因にはペストが有力視されているが、実態は全く不明である。
この後に妻の実家から持参金などをめぐって訴訟を起こされたという話もあるが、これも定かではない。

同じ頃には、元来気難しい性格であったスカリジェとの仲も険悪なものになっていった。

さらには、1538年春にトゥールーズの異端審問官から召喚を受けたようである。
この理由は「聖人を冒涜した」事を問題視されたという程度にしか分かっていない。
怠惰な姿勢で聖母マリア像を作っていた職人に、そんなやり方では悪魔の像が出来てしまうと注意したところ、逆恨みを招いて聖母を悪魔呼ばわりした人物とされてしまったという説もあるが、これはトルネ=シャヴィニーらが19世紀になって言い出した話のようである。

このほか、アジャンのプロテスタント医師サラザンが召喚された際に、交流のあったノストラダムスにも累が及んだとする説もある。

こうした諸状況の悪化によってノストラダムスは再度の遍歴を決心したとされるが、上述の通り裏付けとなる史料に乏しく、詳細は不明である。

ひとまず、妻子と死別したらしいこと、少なくともそれが一因となって旅に出たらしいことは確実視されている。

実際、1530年代後半以降、彼の足取りは一時的に途絶える。

この頃の伝説としては、オルヴァル修道院 (Abbaye d’Orval) に立ち寄って予言を書き残したというものがあり、19世紀に出現した偽書「オリヴァリウスの予言」や「オルヴァルの予言」と結びつけられることもあるが、資料的裏付けを持たない。

医師としての活動
ノストラダムスがこのような格好をしていたかは定かではないが、可能性は指摘されている。

長い放浪を続けたノストラダムスは、1544年にマルセイユの医師ルイ・セールに師事したとされ、翌年には3人の囚人の診察をした記録がある。

そして、1546年に同じ南仏の都市エクスでペストが流行した時には、治療のために同市へ赴いた。
これについてノストラダムス自身は、エクスの議会 (senat) と人々からペストの鎮圧を要請されたと語っている。
そして、エクスの古文書館には、1546年6月にノストラダムスに契約金を支払ったことが記載されたエクス市出納係ポール・ボナンの会計簿と、その時のノストラダムスの契約書が残っている。

伝説では、この時にノストラダムスは鼠がペストを媒介することを見抜き、鼠退治を命じたという。
また、伝統的な治療である瀉血を否定し、かわりにアルコール消毒や熱湯消毒を先取りするかのように、酒や熱湯で住居や通りを清め、更にはキリスト教では忌避されていた火葬すらも指示したとされる。

しかし、後年ノストラダムス自身が『化粧品とジャム論』で述懐しているこの時の様子に、当時の医学知識の範囲を超えるものはなく、瀉血を試みた形跡もある。
患者の隔離をはじめとする初歩的な公衆衛生上の方策を取っていた可能性は指摘されているが、それは当時として一般的に行われていたことで、ノストラダムスに固有のものではない。

化粧品とジャム論』には、その時に用いた治療薬の処方も載っているが、イトスギのおがくず、すりつぶしたバラ、丁子などを原料とするその薬の効能は疑問視されている。

また、それらの原料には中世から用いられていた伝統的なものがいくつも含まれている。

結局のところ、彼の医療活動とペスト沈静化の因果関係は不明瞭なままである。
現時点で確実に言えるのは、当時は医師達も尻込みする傾向の強かったペストの流行地に、果敢に乗り込んで治療に尽力した人物ということだけであり、その実効性を評価しうるだけの材料には乏しい。

なお、ノストラダムスが何度もペスト流行地に赴いていたにもかかわらず、自身がペストで命を落とすことがなかった理由としては、免疫が出来ていた可能性も指摘されている。

その後、ノストラダムスはプロヴァンス州サロン・ド・クロー(現サロン=ド=プロヴァンス、以下「サロン」と略記)に落ち着き、1547年11月11日にこの地で未亡人アンヌ・ポンサルドと再婚した。

ノストラダムスは終生この街で過ごすことになるが、1年程度の旅行で家を空けることは何度かあった。

最初の旅行は、再婚後間もなく行われたイタリア旅行であり、処方箋などからはヴェネツィア、ジェノヴァ、サヴォーナなどを回ったらしいことが窺える。

この旅行中の出来事としては、以下のような「伝説」が有名である。

ノストラダムスはこの旅行中、ある修道士たちの一団に出会った時に、そのうちの一人の前で恭しくひざまずいた上で、その修道士が将来ローマ教皇となることを示唆したために、周囲の失笑を買った。
しかし、その修道士フェリーチェ・ペレッティは、ノストラダムスの死から20年程のちにシクストゥス5世として即位し、予言の正しさが証明されたのだという。
この出会いにも裏付けはなく、後世の創作とされており、フラウィウス・ヨセフスの『ユダヤ古代誌』の二番煎じという指摘もある。

予言者としての成功
1550年代に入ると、ノストラダムスはサロンの名士として、公共の泉の碑銘を起草したり、クラポンヌ運河の建設に出資したりするようになる。
こうした活動と並行して、翌年1年間を予言した暦書(アルマナック)の刊行を始めるなど、予言者としての著述活動も本格化させていく。

暦書は大変評判になり、ノストラダムスは、より先の未来を視野に入れた著作『予言集』の執筆に着手する。

1555年5月に初版が出された『ミシェル・ノストラダムス師の予言集』は、4巻の途中までしかない不完全なもの(完全版は全10巻)ではあったが、大きな反響を呼び起こしたとされている。

そのわずか2か月ほど後に当たる1555年7月に、国王アンリ2世とカトリーヌ・ド・メディシスからの招待を受けた。

『予言集』の評判が王宮に届いたことが一因とされることが多いが、暦書の評判に基づくものであって、『予言集』はそもそも関係がなかったという指摘もある。

翌月に王宮で行われた謁見は成功裏に終わったようだが、会見内容は不明である。

翌年にノストラダムスが書いたものをもとに、むしろ会見では予言能力を疑われるような不手際があったのではないかという指摘もある。

カトリーヌはそれとは別に、ノストラダムスを個人的に呼んで子供たちの未来を占わせたとされ、四人の御子息はみな王になるという答えを得たという。

四男エルキュールが早世したことでこれは外れたが、「御子息から四人の王が生まれる」という予言だったとする説もある。

この場合、三男アンリはフランス王となる前にポーランド王となっていたため、正確な予言だったことになる。
しかし、後にヴェネツィア大使ジョヴァンニ・ミキエリ1561年にまとめた報告書などでは、宮廷ではノストラダムスの「王子たちがみな王になる」という予言の噂が広まっていたとあり、「四人の王が生まれる」という予言は確認が取れていない。

この件に限らず、カトリーヌとの対話は色々取り沙汰されるが、後出の唯一の例外を除いては、対話の内容を伝える史料は存在していない。

1557年には『ガレノスの釈義』を出版した。
ノストラダムスは医師としての活動を縮小していたようだが、1559年の処方箋も現存している。

1559年6月30日、アンリ2世の妹マルグリットと娘エリザベートがそれぞれ結婚することを祝う宴に際して行われた馬上槍試合で、アンリ2世は対戦相手のモンゴムリ伯の槍が右目に刺さって致命傷を負い、7月10日に没した。

現代では、しばしばこれがノストラダムスの予言通りだったとして大いに話題になったとされるが、現在的中例として有名な詩が取り沙汰されたのは、実際には17世紀に入ってからのことであった。
なお、ノストラダムスは、1556年1月13日付けで国王と王妃への献呈文をそれぞれ作成し、1557年向けの暦書に収録したが、このうちカトリーヌ宛ての献辞では、1559年を「世界的な平和」の年と予言していた。

晩年
アンリ2世亡き後に王位に就いたフランソワ2世は病弱で、早くも1560年後半の宮廷では、ノストラダムスの予言を引用しつつ、王が年内に没すると噂されていたという。

実際にフランソワ2世はこの年のうちに没し、ノストラダムスの名声は更に高まったようである。

このエピソードは、ヴェネツィア大使ミケーレ・スリャーノやトスカナ大使ニッコロ・トルナブオーニらの外交書簡にも記載があるので、史実だったと考えられる。
ただし、この噂話についても、かなり尾ひれがついていたという指摘はある。

なお、この頃のノストラダムス本人は、王侯貴族などの有力者を相手に占星術師として相談に乗っていたことが、現存する往復書簡からは明らかになっている。
事実、1564年に依頼されて作成した、神聖ローマ皇帝マクシミリアン2世の子ルドルフのホロスコープも現存している。

こうした予言に対しては、前出のカトリーヌのように心酔していた有力者もいた。
彼女の場合、ノストラダムスを世界一の狡猾漢呼ばわりしているスペイン大使ドン・フランセス・デ・アルバの本国宛の書簡にも、その心酔ぶりを揶揄しているくだりを見いだすことができる。
しかし他方で、ノストラダムス自身の往復書簡の中では、顧客や出版業者から、予言の曖昧さや冗長さにしばしば苦情も出されていたことが明らかになっている。

ときに、フランソワ2世の後を継いだ弟の国王シャルル9世は、フランス各地をまわる大巡幸の一環として、1564年10月17日に母后カトリーヌともどもサロンの街を訪れた。

現在のアンペリ城 ノストラダムスは国王親子とサロンのアンペリ城 で会見をした。

カトリーヌがモンモランシー公に宛てた書簡で言及しているおかげで、この時の会見内容は例外的に伝わっている。
それによればノストラダムスは、モンモランシー公が90歳まで生きること、そしてシャルルも同じだけ長生きすることを予言したという(前者は3年後に公が75歳で没したことで外れ、後者はシャルルが10年後に23歳で没したことで外れた)。

他方、ノストラダムスは、国王よりもむしろ随行していた少年に関心を示し、国王親子のいないところで、その少年がいずれフランスの王になると予言し、周囲を当惑させたというエピソードもある。

この少年はナヴァル家のアンリで、のちにアンリ4世としてフランス王位に就くことになった。

このエピソードが史実かどうかは定かでないが、パリ市民ピエール・ド・レトワルの日記(1589年)にも見出すことができる。

さて、大巡幸中のシャルル9世は、その後アルルに逗留した折にノストラダムスを呼び出し、彼に「常任侍医兼顧問」の称号を下賜したようである。

なお、これは名誉上のものであり、ノストラダムスが宮廷に出仕したわけではない。

また、彼が国王から何らかの称号を賜ったのは、これが唯一である。

後にノストラダムスの伝記を書いた秘書のジャン=エメ・ド・シャヴィニーが「アンリ2世、フランソワ2世、シャルル9世の顧問兼医師」と誇張して紹介していたこともあり、あたかもノストラダムスが一定時期宮廷に出仕していたかの如くに書かれることもあるが、事実に反する

ノストラダムスの墓があるサン=ローラン参事会管理聖堂 その後のノストラダムスは、痛風もしくはリウマチと思われる症状に苦しめられていたようであり、1565年12月13日付の私信では、リウマチの症状のせいで21日も眠れないと述べている。

ただし、後述する『王太后への書簡』が1566年12月22日付なので、少なくともその時点では、手紙を書ける程度に症状が改善していたと推測されている。

そして1566年6月には死期を悟ったのか、公証人を呼んで遺言書を作成した。

7月1日夜には秘書シャヴィニーに「夜明けに生きている私を見ることはないだろう」と語ったとされる。

ノストラダムスは予兆詩で寝台と長椅子の間で死ぬことを予言しており、翌朝予言通りに寝台と長椅子の間で倒れているのが発見されたというエピソードが有名である。
しかし、ノストラダムスの死と予兆詩を最初に結びつけたシャヴィニーは、寝台と長椅子の間で倒れていたなどとは述べておらず、ノストラダムスの死を発見した長男セザールもそのようなことは語っていない。
そもそも、当該の予兆詩は発表当時の文献が残っておらず、同じ年のイタリア語訳版との対照をもとに、現在知られている詩篇が大幅に改竄されている可能性まで指摘されている。


ノストラダムスは遺言書において、サロン市のフランシスコ会修道院付属聖堂の中でも、大扉と祭壇の間の壁に葬られることを希望した。

1582年に妻アンヌが亡くなったときにも、同じ場所に葬られたという。

当時、教会などの建物に埋葬されることは珍しくはなかったが、他人から踏まれる床に葬られることで自身の謙譲さを示すという立場をとらなかったため、壁が選ばれたと指摘されている。
当時、ノストラダムスは立った姿勢で葬られたという説もあるが、ノストラダムスの遺言書などにはそのような指示はなく、現在確認できる根拠からそれを裏付けることは出来ない。

フランス革命中の1793年頃に、墓が暴かれた。

暴いたのはマルセイユ連盟兵で、ノストラダムスの墓を暴くと不幸が訪れるというある種の都市伝説が存在していたことについて、好奇心から検証しようとしたのだという。

伝説ではノストラダムスの首には、墓暴きのあった年の書かれたメダルが掛けられていたなどといわれるが、史実としての裏付けがない。

この種の伝説の元祖は17世紀には登場していたという指摘もある。
また、それから半世紀と経たないうちに、暴いた者がエクスの暴動に巻き込まれ、死体が街灯に吊るされたという話が出回るようになったが、実態は不明である。

その後、19世紀初頭にサロン市長ダヴィドが中心となって骨が集められたが、あまり多くは集められなかったらしい。

その骨は市内のサン=ローラン参事会管理聖堂 (La Collégiale Saint-Laurent) の聖処女礼拝堂に安置し直された。

なお、ノストラダムスの遺言書でフランシスコ会修道院付属聖堂を埋葬場所に指定した箇所は、当初サン=ローラン参事会管理教会のノートルダム礼拝堂と書いた後で訂正されたものだった。

現在もその礼拝堂は残っており、ノストラダムスの骨は壁の奥の壺に収められているというが、それが本当にノストラダムスの骨なのかどうか、疑問視する見解もある。

抜粋:http://ul.lc/58g7(wikipedia)より

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