【今日の歴史】1931年11月1日の事【人物】

【今日の歴史】1931年11月1日の事【人物】
いかりや長介
いかりや長介

いかりや 長介生誕日

いかりや 長介(1931年11月1日 – 2004年3月20日)は、日本のコメディアン、俳優、ベーシスト、タレント。「ザ・ドリフターズ」(略称:ドリフ)の3代目リーダー。
本名:碇矢 長一(いかりや ちょういち)。愛称は「長さん」。
ドリフ時代初期は芸名をいかり矢 長介(読み同じ)としていた。ドリフ映画で使われる呼び名は「ゴリラ」「下唇」。

東京府東京市本所区中之郷横川町(現在の東京都墨田区東駒形)生まれ。
渡辺プロダクションを経てイザワオフィスに所属していた。身長175.2cm。

生い立ち
4歳の時、母が結核で病没。
本所区横川国民学校(現在の墨田区立横川小学校)卒業。
国民学校時代の教師に書道家の井上有一がいる。
父・碇矢一郎(1908年 – 1995年)は築地の魚河岸で運搬の仕事に従事していた。
いかりやは自伝『だめだこりゃ』の中で、この父について「私に一番影響を与えた、傑作な人物」と語っている。

1944年、戦争の激化に伴って静岡県の吉原(現:富士市)へ疎開。
吉原第三中学校へ入学。翌年に同地で終戦を迎えた。
以後、父は86歳で亡くなるまで生涯この地から離れることはなかった。

ミュージシャンへ
中学を卒業後、東京都立本所高等学校に進学、同校を中途退学後、静岡の製紙工場(春日製紙)に勤めながら、同僚らとハワイアンバンドを組み、ダンスホールで活動していた。
当時のバンド仲間に元プロ野球選手の田村満がいる。

そもそも音楽を始めた動機が、女性に「モテたい」からだったという。

1959年にミュージシャンを目指して上京、最初の妻とともに新宿2丁目のアパートで暮らす。
ミッキー・カーチスも在籍していたロカビリーバンド「クレイジーウェスト」に参加後、カントリーウェスタンバンド「ジミー時田とマウンテン・プレイボーイズ」にベーシストとして加わり(ギタリストは寺内タケシ)、立川や横須賀や横田の米軍キャンプで巡業。

しかし1961年12月31日、巡業の往路で交通事故を起こして、「ジミー時田とマウンテン・プレイボーイズ」の所属事務所と関係が悪化する。

1962年、加藤茶と同時期に、小野ヤスシらが在籍していた「桜井輝夫とザ・ドリフターズ」に参加。
のちに桜井が引退しリーダーがいかりやに交代し「碇矢長一とザ・ドリフターズ」にグループ名を改称。
しかしその後、諸事情から小野らは独立してしまう。

1964年に仲本工事、高木ブー、荒井注を加えて「ザ・ドリフターズ」を再結成。
それとともに、ナベプロの傘下に入って、当時人気絶頂だったハナ肇とクレージーキャッツの後輩として、大々的に売り出した。

ただし、いかりや自身が後に自著のあとがきで「師匠に付いたことはない」と記述しているとおり、クレージーの直弟子であったわけではない(クレージーにはいかりやより年下のメンバーも含まれていた)。
なお、この時に「いかりや長介」名義での活動となった。

1966年にはビートルズの前座として日本武道館で公演。
仲本のヴォーカルで『のっぽのサリー』(Long Tall Sally)を演奏した。

ベーシストとしては、日本におけるチョッパー奏法の元祖と語られることがあるが、これは近田春夫の流したデマである。

実のところは、その頃にウッドベースからエレキベースへ転向したプレーヤーの間では、主流であった親指弾きである。
バンドマン時代に演奏していたカントリー&ウエスタンや、ロックンロールにチョッパー奏法はまったく必要ないし、チョッパーをしたこともないと、ドリフターズの元メンバーで親友のジャイアント吉田が語っている。

バンドマン時代を知らない若年層には、いかりやがベースを演奏する姿が新鮮だったことと、今となっては古典的な奏法により、「いかりや奏法」「いかりや弾き」「長介弾き」という言葉も生まれた。

ただし、特別に個性的で画期的な奏法を行っているという意味ではない(スティングも同様の奏法で演奏することで知られている)。

しかし、日本で初めてフェンダー製のエレキベースを使用したベーシストであることは、ベースプレーヤーとして特筆すべきことである。

なお、親指引きをはじめた経緯としては、事務所の後輩であるザ・ワイルドワンズのベーシスト:島英二の証言では、島の勧めでピック奏法をしようと思ったが、ピックを持っていてはコントに支障が出るためとのことである。

晩年出演したテレビCM(キリン・ラガー)に、エレクトリック・アップライト・ベースを演奏する姿があった。
本人もこれをいたく気に入っていたようで、その写真が遺影に使われた。

バンド時代のあだ名は「幡随院長兵衛」をもじって「バンス院長兵衛」。

バンスとは、バンドの符丁でギャラの前借り(advanceより)のこと。
当時のいかりやは、借金がかさんでいた。長兵衛は本名の長一から。いかりや逝去の際、バンド時代から親交の深かった立川談志が、追悼コメントで「ヤツ(いかりや長介)を今時『長兵衛』と呼ぶのも、もう俺ぐらいしかいないだろ(=それだけ付き合いが古かった)」と語っていた。

コメディアンへ
TBSの『8時だョ!全員集合』や、フジテレビの『ドリフ大爆笑』で大人気となった。

ドリフ時代のギャラ配分は、途中から6(いかりや):1:1:1:1だったためメンバーに嫌われていた。
それをネタにしたコントもしたことがある。
また、加藤らがアパートに住んでいて金もない時に、いかりやがBMWを乗り回していたため、頭にきて車に小便をかけていたとも語っていた。

『全員集合』が開始された頃に、『ルパン三世』の声優として有名な山田康雄に演技指導を受けていたというエピソードもあり、それが縁でルパンの収録スタジオへ挨拶に行ったり、山田が『全員集合』の冒頭のコントに出演したという。
また、プライベートで山田と飲みに行くこともしばしばあったという。

『全員集合』の打ち合わせは2日前の木曜日に行われていたが(これを木曜会議と言う)、いかりやを中心にネタが決められていて、いかりやがネタを思いつくまで皆が黙っていることが多かった。
他の作家がアイデアを出しても、「つまらねぇ」と却下することも多かった。

いかりやは著書で、「彼らのネタは机の上でしか考えてないようなネタや、また面白くてもドリフではできないネタばかりだった」と述べている(加藤茶も後に「他の作家が考えたネタより、自分達で考えたネタの方が観客には受けた」とコメントしている)。
本人も「あの時は無我夢中で、鬼の形相になっていたかもしれない」と認めている。
当時、駆け出しだった高田文夫は『全員集合』のスタッフとして参加していたが、打ち合わせのあまりにも静かで重い空気に耐えられず、逃げ出したことをスポーツ紙の連載で書いている。

志村けんも「自分の考えたネタをいかりやさんに見せる時が一番緊張した」と、いかりやの死後のインタビューで述べている。
ただし、いかりやは著書で志村のネタ作りの才能、および積極的にネタを見せに来る姿勢を高く評価しており、ドリフターズに志村を加入させた一因でもあったと語っている。

お笑いとしての代表的なギャグは、下唇を突き出し右手を上げる「オイッスー!」、コント終了後の「だめだこりゃ」、「次いってみよー!」など。

唇をよくギャグにされていたが、「年を取るとともに唇の横の肉が弛んだり引っ張られていって、普通になっていった」(加藤談)という。

ドリフでは自らをボス=抑圧的な憎まれキャラに見立てた上での各キャラクター構築をし、主にツッコミ役を演じていた。
典型的なツッコミタイプのコメディアンであるが、『ドリフ大爆笑』の人気コーナー「ばか兄弟」(仲本とのコンビによるコント)シリーズでは見事なボケを演じた。
いかりやに対し加藤や志村らが反撃に出るといったスタイルのコントで、日頃のうっぷんからか志村は半ば本気でいかりやを攻撃していたが(時には加藤が楽屋オチ的にそのことを指摘するツッコミを入れた)、いかりやはむしろそれを良しとして受け入れていた。
60歳を超えてからも大量の水を被ったり、体を張って金たらいや一斗缶を頭に受けるギャグをして、笑いをとっていたのは特筆に値する。

弟子に、志村けん、すわしんじ、小泉孝太郎らがいた。

清水キョウイチ郎は、元弟子を自称していたが、いかりやの関係者からも「そんなの知らない」という証言があるため、詳細は不明(清水自身は「『渋谷とんぼ』という芸名を付けてもらう寸前に、離れてしまったので、向こうは覚えていないかも知れない。
でも当時数十人居たボーヤ(弟子)の中で、芸名を付けてもらうところまで行くのは、ほとんどいなかった」とコメントしている)。

俳優、タレントへ
1985年、『8時だョ!全員集合』終了後、俳優、タレントとして活動を始めた。

1987年のNHK大河ドラマ『独眼竜政宗』が俳優としてブレイクするきっかけとなった。

1994年より始まった日本テレビの火曜サスペンス劇場・『取調室』シリーズでは、佐賀県警本部捜査一課の警部補・水木正一郎を演じ、佐賀県の観光振興をするとともに、本人はこの作品をライフワークと語っていた。

1992年~1996年のドラマ版『サザエさん』(フジテレビ)では波平を演じ、1997年に出演した『踊る大捜査線』(同局)和久平八郎役では、『全員集合』を見たことがない若いファンからも人気を博す。

1999年には、『踊る大捜査線 THE MOVIE』で第22回日本アカデミー賞最優秀助演男優賞を受賞。

2000年2月、荒井注が急逝した際、弔辞を読んだのはいかりやであった。
弔辞の最後、いかりやは荒井に対して「じゃあいずれ」と締めくくった。

ドリフ時代は、「ゴリラ」や「下唇が長い」などと散々な言われようだったが、最晩年期には、貫禄のあるファッションに様変わりした。
ゴリラと評されることについて、いかりやは『知ってるつもり!?』(日本テレビ)にて、「ゴリラのようなたくましい動物に例えられて、非常に光栄」と語っている。

作家の小林信彦が1970年代前半に『日本の喜劇人』を著したころはドリフの最盛期であったが、ほとんど触れていない。
ただ、いかりや本人に会った際に「娘がファンで」と話したところ「相当に趣味の悪いお子さんですなあ」と返されたエピソード、俳優として高度成長期に取り残されたような人物を演じると良い味を出すのではという論評のみを記している。

晩年の闘病とその後
2003年5月末、「原発不明頚部リンパ節がん」により緊急入院。闘病生活の末、同年7月17日に一旦退院する。

翌々日には『踊る大捜査線 THE MOVIE 2 レインボーブリッジを封鎖せよ!』の映画舞台挨拶に参加。

同年8月6日に『SMAP×SMAP』(関西テレビ・フジテレビ系、「ビストロスマップ」ゲスト)の収録でテレビ仕事復帰。

同年秋、ドラマ『あなたの隣に誰かいる』(フジテレビ系)にも出演するが、同年12月23日に放送された『40周年だよ!ドリフ大爆笑スペシャル』(フジテレビ系)が、いかりやにとって生涯最後のテレビ出演(仕事)となり、2004年4月公開の映画『恋人はスナイパー THE MOVIE』が遺作となった。

長男・浩一の話によると、実は7月の退院直後に担当医から、「いかりやの余命はもって数ヶ月」であると宣告されていたという。
この事実は、いかりや本人には告知されていなかった。

2004年3月15日、がんの転移が判明し東京都 港区の東京慈恵会医科大学附属病院に再入院した。

2004年3月20日、死去。72歳没。

通夜会場の周辺には多くのファンが訪れていたが、午後8時になると同時に数ヶ所で、ファンが持ち込んだテープによりいかりやの「8時だョ!」という掛け声が流れ、即座に周囲のファンが「全員集合!」と合わせた。

3月24日、告別式。喪主は長男・碇矢浩一、弔辞はドリフの最古参加メンバーである加藤が読んだ。
ドリフ時代に仲が悪かったと言われる高木は、葬儀で「バカヤロー!」と叫びながら大泣きしていたという。
出棺の際バッハ作曲のG線上のアリアの曲を流しながら、『8時だョ!全員集合』のファンは「長さーん」、「オイッスー」、『踊る大捜査線』のファンは「和久さーん」、「和久さーんお疲れ様」と涙ながらに叫んだ。
無言で直立不動の最敬礼をしていた者もいた。
また、最後まで涙を抑えていた加藤は出棺の霊柩車のクラクションの音と共に目頭を押さえたという。
遺体は品川区の桐ヶ谷斎場で荼毘に付され、その後遺骨は東京都葛飾区に所在する蓮昌寺に納骨された。

戒名は瑞雲院法道日長居士。

加藤茶の弔辞
長さん…。随分急いで向こうに行っちゃったんだね。あんた、最後の最後に嘘ついたよなぁ。去年の12月に『大爆笑』のオープニング撮るときに久しぶりに会って、「40周年の記念で『全員集合』と『大爆笑』、この2本撮りたいね」って。長さん「いいね」って、「やろうよ」って、そう言ったよね。うちのメンバー4人もその気になってたんだよね。だけどその約束を守れないうちに逝っちゃったね。

40年間一生懸命、一生懸命走ってきて絶対に妥協を許さない長さんだったよな。でも40年間本当に気を抜かないで一生懸命やってきたんだと思う。本当にご苦労さん。これから俺たち4人でドリフターズまだやっていくよ。あんたが残した、財産だからね。

荒井注さんが亡くなった時、長さん言ってたよな。「俺も、もうじきそっちに行くから、一緒に酒飲もう」って。本当にそんな日が来てしまったな。でもちょっと早すぎたんじゃないか? もう少し我慢してほしかったな。まぁ2人してつもる話もあるだろうけど、あまり深酒しないように。 それから、いきなりそっちから「全員集合!」と言われても俺たち4人は集まれないからね。たぶんそのうち本当に「全員集合」になるかもしれないけど、その時はやっぱりまた向こうでコントをやろうよ。

40年間本当にありがとう。そしてご苦労さんでした。何も心配なくゆっくり休んでちょうだい。さよなら。

没後の功績
いかりやの死去は、3月20日の死去当日はテレビの速報テロップで伝えられ、翌日の3月21日の19時のNHKニュース7でトップで報じられた。

2004年の没後まもなく、第一回喜劇人大賞「特別功労賞」を受賞。

3月27日には、TBSで追悼番組『長さんだョ!全員集合』が放送された。番組は土曜日の20時(午後8時)をまたいで放送されたこともあり、時計の秒針が20時を刻むのと同時に『8時だョ!全員集合!!』と当時の全員集合のオープニング映像も流し、追悼した。さらに、NHK、フジテレビ、テレビ朝日でも追悼番組が相次いで放送された。

2004年に静岡県富士市から市民感謝状が贈られ記念の展示会が開催された。
また、佐賀県は取調室シリーズで佐賀県の観光アピールを全国的にした事で、佐賀県出身・在住のいかりやのファンが佐賀県知事に多数陳情し、佐賀県知事と佐賀県警察本部長が感謝状を贈った。

なお、いかりやは佐賀県警のポスターにも生前、広報用で使われていた。

2005年、静岡県富士市吉原の商店街の一角が「長さん小路」と命名された。

七回忌になる2010年3月にも、「8時だョ!全員集合 DVDBOX最終盤」が発売され、フジテレビで「懐かしのいかりや長介大爆笑スペシャル!!」TBSでも「ドリフ伝説最終章 8時だョ! 全員集合 大笑い4時間スペシャル」が放送された。

エピソード
「8時だョ!全員集合」出演中の1980年9月、声帯ポリープの手術を受け、その直後の13日と20日の放送は出演したものの、当のいかりや本人は手術直後と言う事もあり、声を出せない状態であった。
このため本来いかりやがするはずだった役割は他のドリフのメンバーが持ち回りで務めた。

しかし、この様な状況であったにも拘らず、いかりやは「全員集合」のオープニング(特に本来いかりやが『行けぇー!』や『よろしくぅ!』と言うべき箇所)で見事な口笛を披露。

声は出なくともいかりや自身の存在感を改めて誇示する形となり、視聴者を大いに唸らせた。

抜粋:http://ul.lc/57m4(wikipedia)より

だめだこりゃ (新潮文庫)
いかりや長介という生き方 (幻冬舎文庫)
8時だョ!全員集合伝説 (双葉文庫)

歴史的な事件カテゴリの最新記事

Verified by MonsterInsights