【今日の歴史】1853年3月19日の事【太平天国王朝樹立】

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太平天国博物館にある太平天国天王府
太平天国博物館にある太平天国天王府

太平天国王朝樹立

太平天国軍が江寧を陥落。
「天京」と改称して首都とし、太平天国の王朝を樹立。

太平天国の乱は、清朝の中国で、1851年に起こった大規模な反乱。
洪秀全を天王とし、キリスト教の信仰を紐帯とした組織太平天国によって起きた。

江寧攻略
先のアヘン戦争(1840年~1842年)で兵力を消耗し、アロー号戦争(1856年~1860年)をも同時進行で戦わなければならない正規軍は広大な国内に分散配置せざるを得ず、正面からぶつかる事も不可能だった。

そして、大衆を吸収して膨れあがった太平天国軍は清軍を打ち破った

しかし、ふくれあがった兵力によって、食料・火薬が底をついたため太平天国軍は永安を後にし、楊秀清の意見に従って北上し湖南省・湖北省を目指すこととなった。

清朝軍と衝突を繰り返しながら北上を続けたが、1852年6月湘江に到着した際に南王馮雲山が、9月長沙攻略の際には西王蕭朝貴が戦死した。

二王の戦死は太平天国首脳間の力関係を微妙に変化させ、後の「天京事変」の遠因となる。
しかし戦死直後は、清朝との交戦が弔い合戦の色合いを帯び、かえって志気を高める結果となった。

桂林・長沙(湖南省の省都)こそ結果的に攻略できなかったものの、12月下旬には漢陽・漢口を落城させ、ついに1853年(咸豊三年)1月には武昌を落とした

武昌は太平天国軍が最初に陥落させた省都(湖北省)であって、その占領は多大な金銀財宝をもたらした。

そしてまたもや楊秀清の意見により南京方面を目指すこととなり、水陸両軍を編成して長江を下り、3月19日太平天国軍は江寧(現在の南京)を陥落させ、ここを天京(てんけい)と改名し、太平天国の王朝を立てた

4月27日、英国のHMS Hermesが南京に到着し、英国公使George Bonhamが北王韋昌輝及び翼王石達開と会見した。

会見ではThomas Taylor Meadows(密迪乐)の通訳の元、英国が太平天国にも清国にも中立であることが告げられた。

太平天国軍膨張の理由
桂林を攻めた際には激戦故に5000人までに減少したにもかかわらず、その後南京を陥落させた時には、太平天国軍は20万以上の兵力にふくれあがり、水陸両軍を編成するまでに至っていた。

こうした急激な膨張は以下の理由による。

まず背景として清朝の増税があった。
さらに戦争における戦費調達や敗戦後の損害賠償を支払うために、清朝は法で定める何倍もの税を特に東南沿海部の地方から徴収した。

さらに「銀貴銭賤」現象も実質増税を民衆に強いた。

当時土地税は銀で納入することとなっていた(地丁銀制)ため、人々は銭を銀に両替して納めていた。

しかし諸外国との貿易により銀が国外へと流出すると銀と銭との交換レートが変動し、それまで銀一両=銭1000文だったのが銭2000文以上となった。

このような税の過大な負担に耐えかねた庶民が大挙して太平天国軍へ参加したことで、急激に組織は膨張した。

そしてこれもアヘン戦争の余波であるが、戦後多くの匪賊が横行し、これらを太平天国が吸収したことも膨張の要因である。

南京条約によって交易が広東一港に限定されなくなった結果、国内の物流ルートが激変し、それまで貨物輸送に関わっていた人々の多くが失業し匪賊化した。

また白蓮教徒の乱以後、たびたび組織された「郷勇」と呼ばれる臨時募集兵がアヘン戦争後に解散となって匪賊化していたのである。

太平天国軍の性格
軍は流賊的ではあったが、集団の性格は通常の流賊とは大きく異なっていた。

匪賊を吸収しても軍内の規律は厳正で高いモラルを有していた。

少なくとも南京建都まではその傾向が強かった

たとえば略奪行為そのものは言うまでもなく、勝手に民家に侵入することすら禁止され、「右足を民家に入れた者は右足を切る」といった厳罰主義でもって規律維持に当たったといわれる。

一方で清朝軍の方が賊軍じみた不正略奪行為を行なっていたという。

また志気の高さも太平天国軍の特徴である。

当時鎮圧に当たった欽差大臣賽尚阿や両広総督徐広縉のいずれもが、従来の匪賊たちと異なったものとして太平天国を捉え、その成員間の結束の強固なこと、死を恐れないことを上奏している。

天京事変(天京事件)
太平天国を時期的に区分するのであれば、この天京事変をもって前期と後期に分かつのが妥当といえる。

前期太平天国は、洪秀全楊秀清二人に運営されていたといってよい。

宗教的権威を担っていたのがキリストの弟たる前者で、実務を担っていたのが後者である。
両者は君臣関係にあった。

しかし一度楊秀清に「天父下凡」が起きると、両者の立場は逆転し、君主たる洪秀全が臣下の楊秀清に厳しく罰せられることになった。

元々「天父下凡」や「天兄下凡」は金田村時期に馮雲山が逮捕され、動揺した信者たちを沈静化するために用いられたのが始まりである。

その後清朝に対し決起することを決めたのもこの「天父下凡」の権威によってであった。

ただ当初は軍内部の規律維持や楊秀清独裁に反対する幹部の粛清に使用されたのがほとんどで、天王洪秀全自身に向けたものはまれだった。

それが天京に入城すると次第に回数が増えていく

その内容は洪秀全の妾の扱い方から楊秀清に対し洪秀全と同じく万歳を唱えるべし、といったことまで様々である。

表面上、楊秀清に恭順していた洪秀全は遂に彼の排除を決意する。

同じく楊秀清に圧迫されていた北王韋昌輝を唆し、1856年9月、早朝、楊秀清一族並びに配下の兵たちとその家族約4万人が虐殺された。

君主によるクーデターといって良い。
しばらく後に天京に入城した石達開はこの内部抗争に激しく怒り、韋昌輝の処分を洪秀全に求めた。

大報恩寺の塔を破壊して石達開らの進軍に備えたが、洪秀全によって韋昌輝らは粛清された。

洪秀全は、韋昌輝の首を石達開の陣営に送り、少しの間、石達開の協力体制がしかれることになる。
しかし洪秀全はすでに肉親以外を重用するつもりはなく石達開数ヶ月で天京を離脱し別行動を取るようになる。

太平天国は皮肉にも支配領域を安定させた途端、内紛が生じて弱体化し、金田村で決起した時の主要人物は洪秀全一人となった。
しかし太平天国がこのまま命運がつきることはなく、石達開らにかわる有能な将軍が幾人も輩出し、もうしばらく存続するのである。

やっぱ、歴史は面白い!

南京にある太平天国博物館
南京にある太平天国博物館

抜粋:http://ul.lc/5fj9(wikipedia)より

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