【今日の歴史】1976年11月2日の事

【今日の歴史】1976年11月2日の事
コンコルド(Concorde)は、イギリスとフランスが共同開発した超音速旅客機(SST; supersonic transport)であった。2003年に全機が退役した。
コンコルド(Concorde)は、イギリスとフランスが共同開発した超音速旅客機(SST; supersonic transport)であった。2003年に全機が退役した。

コンコルドの製造中止が決定

コンコルド(Concorde)は、イギリスとフランスが共同開発した超音速旅客機(SST; supersonic transport)であった。2003年に全機が退役した。

概要
エールフランス機 イギリスのBACとフランスのシュド・アビアシオンなどが共同で開発した超音速旅客機。
初飛行は1969年3月1日
原型機4機を含め、20機が製造された。

高度5万5,000から6万フィートという、通常の旅客機の飛行高度の2倍もの高度を、マッハ2.0で飛行した。
定期国際運航路線に就航した唯一の超音速民間旅客機でもあった。

開発当時は、世界中から発注があったものの、ソニックブームなどの環境問題、開発の遅滞やそれに伴う価格の高騰、また大量輸送と低コスト化の流れを受けてその多くがキャンセルとなった。
特にニューヨーク便就航に際しては激しい反対運動が展開され、法廷闘争にまで至った。
最終的にはエールフランスとブリティッシュ・エアウェイズの2社のみによる運行に留まる。

2000年7月25日に発生した墜落事故、2001年9月11日に発生したアメリカ同時多発テロによって、低迷していた航空需要下での収益性改善が望めなくなった事で、2003年5月にエールフランス、同年10月24日にブリティッシュ・エアウェイズが営業飛行を終了、2003年11月26日のヒースロー空港着陸をもって全機が退役した。

超音速飛行を追求した美しいデザインや、ほぼ唯一の超音速旅客機だったこともあり、現在でも根強い人気を持つ。

コンコルド墜落事故

コンコルド墜落事故
コンコルド墜落事故

コンコルド墜落事故(英: Air France Flight 4590)は、世界唯一の商業用超音速旅客機であったエールフランス所属のコンコルドが2000年に離陸直後に墜落した事故である。

なお、コンコルドの人身死亡事故としては唯一であるが、安全性に重大な疑念が生じたため当局により耐空証明が取り消され、長期にわたり運航停止した。
復帰後の2001年に発生したアメリカ同時多発テロによる世界的な航空不況により、コンコルドが退役したために最初にして最後の墜落事故となった。

事故の概要
2000年7月25日、フランス・パリのシャルル・ド・ゴール空港からアメリカ・ニューヨークに向けて離陸したエール・フランス4590便は、ドイツの旅行会社「ペーター・デイルマン・クルーズ」がチャーターした臨時便で、乗客の多くはニューヨークから豪華客船ドイッチュラントによるカリブ海クルーズでエクアドルに向かうツアーの途中で、殆どドイツ人だった.。
ツアーの代金は全部で140万円だった。
事故機となったコンコルド(機体記号F-BTSC)は、エール・フランスに引き渡された7番目の機体で、1975年に就航以来1994年までに9,000時間ほど飛行しており、1978~79年には映画『エアポート’80』の撮影に使用されていた。
機長は経験豊富なクリスチャン・マルティ(54歳)で、彼は冒険家としても有名であった。
13時30分までに全員が搭乗手続きを完了した。
出発前の点検で第2エンジンの逆噴射装置に軽微な問題が発覚し、部品の交換を必要とした。
これにより出発は1時間遅れた。
15時54分、乗客はコンコルドへの搭乗を開始し、16時35分に離陸の準備が完了した。管制塔は滑走路26R(全長4,000m)からの離陸を指示した。

墜落
16時40分、コンコルドは離陸を開始した。

コンコルドが時速323kmに到達したとき、管制塔からはコンコルドの後ろに黒煙が出現するのが目撃された。
機体は既に滑走路の半分を走り終え、残りの滑走路は2kmで停止するには不十分(3km必要)であった。

16時43分15秒、コンコルドは黒煙を引きながら離陸した。

操縦席からはその模様は観察できなかったが、管制塔からの緊急連絡で機体の状況がパイロットに伝えられた。また操縦席の警報も機体が深刻な状況にあることを伝えた。
操縦士は脚を収納しようとしたが動作しなかった。

離陸から15秒後、高度はわずか30mで、すでに飛行に支障が発生していた。

機長は緊急着陸のため5km先にあるルブールジェ空港に向かおうと高度を上げようとしたが、エンジン推力低下やエレボンのコントロール消失により、高度が低下し、やや左にそれて飛行した。
やがて機首を上にした状態で失速し、離陸から2分後の16時45分にシャルル・ドゴール空港から南西約9,500m離れたヴァル=ドワーズ県ゴネスにあったオテルイッシモ(ホテル名)の別館レストランの敷地の北側に現地時間午後4時44分に後部から墜落し巨大なキノコ雲が発生した。
機体は南の方角に砕け散って炎に包まれた。
機体の前半部を除く殆どの部分が焼失し、オテルイッシモの別館(40室)も全焼した。
この事故により乗員9名、乗客100名の搭乗者109名全員と墜落現場付近にいた4名のあわせて113名が死亡し、10名以上が負傷する大惨事になった。
火災の鎮火まで3時間を必要とした。

事故原因
原因を作ったコンチネンタル航空のDC-10 事故機は離陸前点検で左翼内側の第2エンジンに異常が発見され、逆噴射装置の部品を交換していたことで予定よりも出発が遅れており、この点も事故原因との関連が疑われた。
また該当機にはツアー客以外の荷物19個が積まれたことが判っており、テロの可能性も検討されたが、事故の原因を決定的にしたのが滑走路に残されたタイヤの破片であった。

フランス運輸省事故調査局は2001年1月5日に事故原因として、まず離陸中に2番タイヤが破裂したことを挙げた。
車輪はダンロップ製、タイヤはグッドイヤー製で1996年からコンコルドに使用されるようになった。
事故機は時速323kmで離陸滑走中にタイヤが破裂し空気圧と遠心力で吹き飛んだタイヤの破片のうち、重量4.5kgの比較的大きな破片が主翼下面の5番燃料タンク外壁に衝突した。
衝突部は大きく陥没しただけで貫通しなかったが、主翼内部の燃料タンクにその衝撃が伝わり、圧力によって燃料タンクの前部が破裂し激しい燃料漏出(毎秒75リットル)が起きた。
漏出した燃料は霧状となって主翼下面を流れ即座に発火した。これによってアルミ製の主翼は徐々に溶解し、主翼のエレボンも脱落、エンジンの推力も徐々に失われた。
クルーは高度を上げようと努めたが高度60mから上昇することはできなかった。
やがて機体はバランスを失い、機首を高く上げて失速したと断定された。

また同報告書ではタイヤ破裂の原因として、タイヤ破片に残った金属片が食い込んだ跡に注目した。

その痕跡に一致するチタン製金属部品(長さ43cm 幅2.5cm)も程なく滑走路脇から回収された。
これにより離陸滑走中に金属片を踏んだことでタイヤが破裂したと結論付けた。
タイヤ破裂の原因とみられる金属部品について、5週間かけて検索をしたところDC-10のエンジン部品の一つ(スラストリバースの構成部品)と判明した。
事故機が離陸する5分前に同じ滑走路を離陸したアメリカのコンチネンタル航空のDC-10のエンジン部分を確認したところ、第2エンジンの該当部品が脱落して無くなっていることが確認された。

事故の原因を作ったDC-10
フランス事故調査当局は問題の金属片を落下させたとみられるDC-10の主翼を調査し、機材の消耗が著しく、メーカーが定める耐久基準をも満たしていなかったと結論づけた。
問題の部品は正規の部品ではなく(正規の部品は柔らかい合金製であった)、部品メーカーで30年前に製作されたものであった。
事故発生の16日前に取り付けたにもかかわらず落下しており、コンチネンタル航空に整備ミスがあったと指摘した。

そのためエールフランスと保険会社は、2000年11月にコンチネンタル航空を相手取り損害賠償訴訟を起こした。
一方、コンチネンタル側は自社の金属片であったことを否定している。
フランスの司法当局も2004年12月に事故はコンチネンタル航空の整備ミスが事故の根本原因だったと結論、2005年3月にコンチネンタルの刑事告発に踏み切った。

開発
コンコルドのプロトタイプ機 各国が超音速旅客機開発競争にしのぎを削る中、イギリスはブリストル223、フランスはシュド・シュペル・カラベルなどの超音速旅客機の研究を独自に行っていた。
1962年に英仏両国はそれまで独自に行っていた開発を共同で行う方針に転換した。
イギリスからはBAC、フランスからはシュド・アビアシオンが開発に参加した。

開発の主導権や名称などについて2国間での対立はあったものの、1969年3月2日に原型機が初飛行に成功、同年10月1日には音速の壁を突破した。
オージー翼を採用した独特の形状を持ち、高迎え角になる離着陸時に下方視界確保のため機首が折れ曲がるなどの特徴を持ち、マッハ2の超音速で巡航するコンコルドの勇姿は未来を感じさせた。

なお同時にアメリカでも超音速旅客機の開発が行われ、ボーイングやロッキード、マクドネル・ダグラスなどによる提案が行われた結果、より高速、大型のボーイング2707の開発が進んでいたが、その後開発がキャンセルされた。

就航
その後ソニックブームやオイルショックによる燃料費高騰などを受けて多くの航空会社が発注をキャンセルしたものの、1976年1月21日から定期的な運航を開始し、この日にエールフランスはパリ-ダカール-リオデジャネイロ線に、ブリティッシュ・エアウェイズはロンドン-バーレーン線に就航させ、間もなく他の路線にも就航させた。

商業的失敗
アメリカ合衆国テキサス州訪問にブリティッシュ・エアウェイズのコンコルドを使用したイギリスのエリザベス2世女王とエディンバラ公夫妻(1991年5月20日) 一時は上記のとおり世界中から受注したもののキャンセルが相次ぎ、製造は最終的には英仏の航空会社向けの量産16機(これ以外に原型機が4機)のみが行われたに過ぎず、商業的には失敗に終わった。

開発当時は「250機で採算ラインに乗る」ともいわれたが、採算ラインに乗ることはなく1976年11月2日に製造中止が決定された。
不人気だった理由には以下のようなものがある。

通常よりも長い滑走距離を必要とすること、またその騒音およびソニックブームの影響を避けるために航路や乗り入れ先を選ぶコンコルドは、限られた航路に就航できたにすぎなかった。さらに「ソニックブームを発生させるため」との理由でアメリカをはじめとするいくつかの国では、超音速飛行を海上でしか認めなかった。
また、アメリカのジョン・F・ケネディ国際空港への離着陸が認められるまでにも、裁判による決着を要した。 飛行距離が短いことに加えて上記の諸事情から、大西洋は飛び越せても途中給油無しでは太平洋を越えられず、日本や香港などへの極東路線を開拓できなかった。
乗客の定員が100人と少なく、運賃は他機種のファーストクラスの約20%増しと高額であったため、乗客はごく限られていた。
経済的にも収益が上がらない上、オイルショックによる燃料価格の高騰がこれに拍車をかけた。
旅客機による飛行が、エグゼクティブ層向けから運賃が安くなることで大衆化するにつれ、航空業界はボーイング747のように低コストでかつ大量輸送が可能な機体を重視するようになった。

これらの理由により、最終的にエールフランスとブリティッシュ・エアウェイズの2社のみによる運行にとどまった上、1990年代には需要と収益性が高い大西洋横断路線への定期運行に集約された。
これらの定期便は飛行時間短縮を望む富裕層や準富裕層顧客を中心に利用されたほか、余剰機材も団体客向けのチャーター便や、英仏両国の政府専用機としてチャーターされた。

わずか2社により十数機が使用されていたのみだが人気を博したため、エールフランスとブリティッシュ・エアウェイズの2社ともに両社のイメージリーダーとして各種広告に使用した。
さらに高い人気を受けて、1990年代後半には、21世紀に入っても継続使用できるように様々な近代化改修を行うことも検討された。

終焉
2000年7月25日、エールフランス機(Model No.101、登録番号F-BTSC)がパリのシャルル・ド・ゴール国際空港を離陸時に、滑走路上に落ちていたコンチネンタル航空のマクドネル・ダグラスDC-10型機から脱落した部品により主脚のタイヤが破裂し、タイヤ片が主翼下面に当たり燃料タンクを破損、直後に漏れ出た燃料に引火、そのまま炎上・墜落した。
地上で巻き込まれた犠牲者を含め113人が死亡するという大惨事になった。
小さなトラブルは頻繁にあったが、1969年の初飛行以来大規模な事故は初めてだった。
エールフランスは即日、ブリティッシュ・エアウェイズもイギリスの航空当局がコンコルドの耐空証明を取り消すことが確実視されたことにより8月15日に、運航停止を決定した。

事故調査に続いて、燃料タンクのケブラー繊維の補強、耐パンク性を強化したミシュラン製のタイヤ、燃焼装置の隔離処理等の改修を受けた後、2001年11月7日に運航が再開された。
しかし燃費が悪く航空機関士が必要なコックピットなど、旧式のシステムであるコンコルドの運航はコストがかかり、直前にアメリカで発生した同時多発テロで低迷していた航空需要下では収益性の改善は望み薄となった。

2003年4月10日、ブリティッシュ・エアウェイズとエールフランスは同年10月をもってコンコルドの商用運航を停止することを発表した。
エールフランス機は5月、ブリティッシュ・エアウェイズ機も2003年10月24日に最後の営業飛行を終え、後継機もなく超音速旅客機は姿を消した。

以後、民間人が航空路線で超音速飛行を体験する事は不可能になった。

なお、航空路線でなければ民間人向けに超音速戦闘機の体験飛行が行われているため、超音速飛行を体験すること自体は可能ではある。
また、2011年6月20日エアバスの親会社が2050年をめどに新たな音速を超える航空機を開発することを発表した。

一時はヴァージン・アトランティック航空がブリティッシュ・エアウェイズのコンコルドを1機1ポンドで買い取ると表明した。
ヴァージン・アトランティック航空はコンコルドを買い取る事に熱心だった模様で、機内販売グッズとしてヴァージン・アトランティック航空カラーリングのコンコルド模型を限定販売していた。
しかし、ブリティッシュ・エアウェイズはこの申し出を拒絶した。
英仏両国で就役していたコンコルド各機は、イギリスやフランス、アメリカをはじめとする世界各地の航空関連博物館に売却・寄贈され、今も往時の姿を示している。

名称
「コンコルド」という名称は、フランス語の「concorde」と英語の「concord」、両単語とも「協調」や「調和」を意味し、ローマ神話のコンコルディアに由来している。
しかしフランス側の強い希望により、フランス語式の「concorde」表記が、英語・フランス語の両言語における共通の正式スペリングとなった。
ただし、英語圏での発音は、フランス語式の「concorde(コンコルド)」よりはむしろ、英語の「concord(コンコード)」の読みに近い。

日本におけるコンコルド
関西国際空港に飛来したエールフランスのコンコルド(1994年9月5日) 日本の日本航空も国際線向けに3機の導入を計画し、1965年に仮発注を行った。

就航時を想定した2種類の塗装案も作成されてマスメディアに公開され、各種記念品も製作されるなど大々的な広報、広告活動が行われた。
この際に日本航空が展示用として銀座の模型店・天賞堂に発注した1/35スケールの大型模型が存在する。
白地の胴体に赤と青のライン、尾翼には鶴丸マークという当時の日本航空旅客機の標準塗色に仕上げられたこの模型は1968年に完成して日本航空に納入された。
なお同社はその後他の大手航空会社と同様にコンコルドの導入をキャンセルした。
大型模型は同社より神田の交通博物館に寄贈されて長らく展示された。

1972年6月12日には羽田空港にもデモンストレーションのため飛来し、午前10時15分に羽田空港へ到着した時には航空機マニア約5,000名が見物に訪れた。

日本航空が発注をキャンセルした上に、大陸間横断のような長距離飛行が不可能だったこともあり、エールフランスとブリティッシュ・エアウェイズの両社ともに日本への定期路線に就航させることはなかったが、その後も数回にわたりエールフランスのコンコルドが日本国内へ飛来した。

1979年6月27日には日本で初めての開催となる東京サミットに出席するフランスのヴァレリー・ジスカール・デスタン大統領の搭乗機として羽田空港に飛来した。
また1990年には「’90長崎旅博覧会」のイベント(チャーター便)として長崎空港に飛来したほか、1994年には開港翌日の関西国際空港に飛来した。

日本へ来たのは以下の5回で、デモフライトと、エールフランスの運航によるものである。

1972/6/12-6/15 羽田空港へデモフライト(登録記号:G-BSST)

1986/5/4-5/7 羽田空港 東京サミット エールフランスによるフランス大統領特別機として2機が来訪(登録記号:F-BVFAとF-BVFB)

1989/2/23-2/25 羽田空港 エールフランスによる昭和天皇の大喪の礼へのフランス大統領特別機(登録記号:F-BVFC)

1990/9/2-9/3 長崎空港 エールフランスによるチャーター便(登録記号:F-BVFF)

1994/9/5 関西国際空港 エールフランスによるチャーター便(登録記号:F-BVFC)で開港記念によるメモリアルフライトである。

関西空港展望ホールにはコンコルドの名を冠したレストランがある。

豆知識
デモ飛行を行うブリティッシュ・エアウェイズのコンコルドフランク・プゥルセル、C・M・シェーンベルク共同作曲の『夢の飛行(コンコルド)』という、コンコルドをテーマにした楽曲がある。

フランク・プゥルセル・グランド・オーケストラの演奏によるこの曲では、効果音としてエンジン音(左右方向に飛び去る音)が使われており、曲自体もこのエンジン音から始まる。

1973年6月に、アフリカで見られた皆既日食の調査のために使用されたことがある。
その際、コンコルドに添乗した科学調査団が、機内から「UFOのようなもの」を撮影、フランス放送協会のテレビ放送でその写真が公開されたことがある。

映画「ワイルド・ギース」でリチャード・バートン演じるフォークナー大佐がイギリスヒースロー空港に到着する際の乗機として登場する。

抜粋:http://ul.lc/54pg(wikipedia)より

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