【今日の歴史】1954年9月14日の事

【今日の歴史】1954年9月14日の事
二十四の瞳
二十四の瞳

映画「二十四の瞳」公開

『二十四の瞳』(にじゅうの ひとみ)は、1954年(昭和29年)に公開された松竹大船撮影所製作、木下惠介監督・脚本、高峰秀子主演による日本映画である。昭和29年度芸術祭参加作品。

日本が第二次世界大戦を突き進んだ歴史のうねりに、否応なく飲み込まれていく女性教師と生徒たちの苦難と悲劇を通して、戦争の悲壮さを描いた作品である。

1952年(昭和27年)に発表された壺井栄の小説『二十四の瞳』が原作であり、この2年後映画が公開された。なお、1987年(昭和62年)、朝間義隆監督により再度映画化された。

映画「二十四の瞳」
第二次世界大戦の終結から7年後、1952年(昭和27年)、この戦争が女性教師と生徒たちにもたらした数多くの苦難と悲劇を描いた原作「二十四の瞳」が発表された。映画は、この原作同様、1928年(昭和3年)から1946年(昭和21年)までの18年間を描いている。撮影は、原作発表の翌年1953年(昭和28年)春から1954年(昭和29年)春にかけて行われ、その年の9月14日に公開された。

同年度のキネマ旬報ベスト・テンでは第1位にランクインされた(第2位は同じく木下惠介監督作『女の園』、第3位は黒澤明監督作『七人の侍』であった)。また本作は、ブルーリボン賞作品賞、毎日映画コンクール日本映画大賞も受賞している。1955年度のゴールデングローブ賞 外国語映画賞を受賞。1999年にキネマ旬報社が発表した「映画人が選ぶオールタイムベスト100・日本映画編」では8位にランクインされている(同じ順位に仁義なき戦い)。2007年にはデジタルリマスター版がリバイバル上映された。

原作者、監督(兼脚本)、カメラマン、美術、そして主演女優をはじめ、子役を除き、スタッフ・キャスト全員が、第二次世界大戦の戦時下を生きた人々である。[2]言論の自由のない軍国主義を突き進んだ日本、そして、敗戦によりそこから解放された日本、2つの時代の日本を生き、その空気感の違いを身を持って知るスタッフ・キャストたちにより制作された映画である。

壺井栄の原作では、その冒頭で、舞台を「瀬戸内海べりの一寒村」としており、全ページを通じて、一切、舞台の具体的な地名は出てこない。しかし、この映画では、原作者壺井栄の故郷が香川県小豆島であることから、物語の舞台を「小豆島」と設定した。ロケも同地で行われた。そのため、この映画のヒット以降は、「二十四の瞳」と、原作にはない「小豆島」の2つが結びついて広く認識されるようになった。

なお、1987年(昭和62年)には朝間義隆監督によってリメイクされた。脚本は1954年版と同じく木下惠介であり、木下は、リメイク版公開の11年後、1998年(平成10年)に他界した。

あらすじ
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【ここから】

1928年(昭和3年)、大石先生は新任の女教師として小豆島の岬の分教場に赴任する。
一年生12人の子供たちの受け持ちとなり、田舎の古い慣習に苦労しながらも、良い先生になろうとする大石先生。
ある日、大石先生は子供のいたずらによる落とし穴に落ちてアキレス腱を断裂、長期間学校を休んでしまうが、先生に会いたい一心の子供たちは遠い道のりを泣きながら見舞いに来てくれる。
しばらくして、大石先生は本校に転勤する。
その頃から、軍国主義の色濃くなり、不況も厳しくなって、登校を続けられない子供も出てくる。
やがて、結婚した先生は軍国教育はいやだと退職してしまう。

戦争が始まり、男の子の半数は戦死し、大石先生の夫も戦死してしまう。
また、母親と末娘も相次いで世を去る。

長かった苦しい戦争も終わり、大石先生はまた分教場に戻り教鞭を取ることになる。
教え子の中にはかつての教え子の子供もいた。
その名前を読み上げるだけで泣いてしまう先生に、子供たちは「泣きミソ先生」とあだ名をつけた。

そんな時、かつての教え子たちの同窓会が開かれる。
その席で、戦争で失明した磯吉は一年生のときの記念写真を指差しながら(オリジナル版では指差す位置がずれ、涙を誘う)全員の位置を示す。
真新しい自転車を贈られ、大石先生は胸が一杯になり、涙が溢れてきた。
その自転車に乗って大石先生は分教場に向かう。

【ここまで】

豆知識
小豆島には、この1987年版「二十四の瞳」映画撮影時のオープンセットを活用した「二十四の瞳映画村」がある。

子役には、1年生役と、その後の成長した6年生役を選ぶにあたり、全国からよく似た兄弟、姉妹を募集。
3600組7200人の子どもたちの中から、12組24人が選ばれた。
大人になってからの役者も、その子どもたちとよく似た役者を選んだ。これにより、1年生から6年生へ、そして大人へと、子役たちの自然な成長ぶりを演出している。

24人は撮影終了後も「瞳の会」と称して時おり同窓会を行い、木下監督の葬儀にも多くが参列した。

この小説は、これまで9回映像化された。
映画化は2回、テレビドラマ化は6回、テレビアニメ化は1回。

監督(兼脚本)の木下惠介は、1940年(昭和15年)に、兵士として中国戦線に行き、同戦線にて負傷、翌年帰国した軍隊経験者でもある。

抜粋:http://ul.lc/4xwb(wikipedia)より

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