パリのエトワール凱旋門が落成
エトワール凱旋門(がいせんもん)
Arc de triomphe de l’Étoile
英:arch of triumph, triumphal arch
フランス・パリのシャンゼリゼ通りの西端、
8区・シャルル・ド・ゴール広場にある凱旋門である。
アウステルリッツの戦いに勝利した記念に
1806年、ナポレオン・ボナパルトの命によって
建設が始まった。
ルイ・フィリップの王政復古時代、
1836年7月29日に完成した。
建設に約30年費やした事になる。
アウステルリッツの戦いとは
1805年12月2日にオーストリア領(現チェコ領)モラヴィアのブルノ近郊の町アウステルリッツ(現在のスラフコフ・ウ・ブルナ)郊外で、ナポレオン・ボナパルト率いるフランス軍が、ロシア・オーストリア連合軍を破った戦いである。
ナポレオンは凱旋門が完成する前(1821年5月5日)に既に死去しており、死因としては公式には胃癌と発表されたが、ヒ素による暗殺の可能性も指摘された。
そして、彼がこの門をくぐったのは、遺骸が1840年にフランスに返還されパリのオテル・デ・ザンヴァリッド(廃兵院)に改葬される時であった。
ナポレオン・ボナパルトの詳しい事に関しては、Wikipediaナポレオン・ボナパルトの項を参照お願い致します。
(きっと、面白いです。)
概要
パリの象徴的な建造物の一つで、単に凱旋門と言えばこのエトワール凱旋門を指すことも多く、世界有数の観光名所となっている。
シャンゼリゼ通りの地下入口から地下道を通って近づける。
料金を払えば、らせん階段を上まで登ることもできる。
エレベーターもあるが、基本的に体の不自由な人のために使われている。
この凱旋門を中心に、シャンゼリゼ通りを始め、12本の通りが放射状に延びておりその形が地図上で光り輝く「星=étoile」のように見えるので、この広場は「星の広場(エトワール広場) la place de l’Etoile」と呼ばれていた。
そのため、「エトワール広場の凱旋門」の意味の「Arc de triomphe de l’Etoile」との正式名称がある。
但し、現在この広場は「シャルル・ド・ゴール広場 la place de Charles de Gaulle」と名称が変更になっている。
なお、「凱旋門 Arc de triomphe (アルク・ド・トリヨーンフ)」の直訳が「戦勝のアーチ」であることでも分かるように、「凱旋門」自体は戦勝記念碑である。
日本でこんな大きい戦勝記念碑作ってたら、大変だったな…
色んな意味で。。。
そのため、凱旋門はパリだけでもカルーゼル門、サン・ドニ門、サン・マルタン門など多数存在する。
因みに、後述のシャンゼリゼ通りのエトワール凱旋門の延長線上のラ・デファンスには「新凱旋門 グランダルシュ」 (la Grande Arche、またはl’Arche de la Défense) があるが、これは戦勝記念碑ではないので、正式名称に “triomphe” が付いていない。
すなわち「凱旋門」ではない。
しかし、シャンゼリゼ通りの都市軸上にある、カルーゼル凱旋門・エトワール凱旋門に続く第3番目の「門(arc, arche)」であるとの認識があるため、フランスの国の標語である「Liberté, Égalité, Fraternité」(自由、平等、友愛)から、「La Grande Arche de la Fraternité」(直訳 – 友愛の大アーチ)との正式名称を持つ。
豆知識
日本では、「凱旋門」=「エトワール凱旋門」を示す固有名詞と化してしまったため、実際は凱旋門ではないグランダルシュにまで「新凱旋門」と名づけてしまった。
大馬鹿である。。。
エトワール凱旋門の建築様式としては、古代ローマの凱旋門に範を取ったもので、新古典主義の代表作の一つ。
エトワール凱旋門の下には、第一次世界大戦の無名戦士の墓がある。
そして、地下通路からのみ凱旋門に辿り着ける(怖ぃ…
メトロ・
第二次世界大戦ではナチス・ドイツのパリ占領に際してハーケンクロイツが掲げられ、ドイツ軍兵士が凱旋した。
抜粋:http://ul.lc/4trs(wikipedia)より
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