【今日の歴史】1971年7月31日の事【拉致・不審船事件】

1971年7月31日夜に石川県加賀市で起きた北朝鮮の不審船及び工作員侵入事件
1971年7月31日夜に石川県加賀市で起きた北朝鮮の不審船及び工作員侵入事件

加賀市沖不審船事件

かがしおきふしんせんじけん
1971年7月31日夜
石川県加賀市で起きた
北朝鮮の不審船及び工作員侵入事件である。

概要
31日夜、同市篠原新町の浜辺から沖を眺めていた地元住民が、定置網付近を通る不審船らしき船を見つけ、警察に通報

間もなく現場に警察が到着し、地元住民と動向を見守った。

不審船は少しずつ浜辺に接近し、やがて着岸した。

工作員らしき2名の人影が降り立ち、辺りを詮索するようにしながら警察や地元住民の近くに接近してくる。

ここで警察が初めて声をあげ、侵入を気づかれた工作員は慌てて船に戻って逃亡していくが、地元住民との協力で1人は逮捕した。

残る1人は船に戻ったが、侵入時とはかけ離れた速さで船は沖に向かっていく。

これは更に沖合にとどまっていた母船からロープが装着されていた為だった。

逮捕された北朝鮮の工作員「航行に迷った末の不時着」と供述したが、所持品の中から毒薬入りの瓶乱数表などが見つかり押収されている。

一方、船を引き戻した母船陸地に向かってサーチライトを照らした。

その明るさに銃撃される危険性を感じた人々は一斉にテトラポットや民家の陰に隠れた。

しかし母船は間もなくサーチライトを消すと轟音を出して沖に消えて行った。

北朝鮮による日本人拉致問題を早くから取材してきた朝日放送のプロデューサー石高健次は、自身の著書の中で

工作員が侵入するポイントとして能登半島が格好の的になっている。

と述べた上で、侵入した工作員を逮捕した事例としてこの事件を取り上げている。

著書横田めぐみの拉致事案から先に記載されているが、石高の取材で横田めぐみが失踪したと思われる時刻より少し後に、加賀市の不審船が出した轟音を近所の人達も聞いていたことが分かっている。

石高単純に轟音というだけで拉致との直接的な関係は断言できないが、不審船や工作員の侵入に際し、このような轟音を聞いた人がいる可能性を示唆している。

政府認定拉致事件

宇出津(うしつ)事件
1977年9月19日拉致
東京都三鷹市役所勤務警備員男性、久米裕1925年2月17日 – 当時52歳
石川県宇出津海岸付近にて失踪。

北朝鮮側は、三鷹市役所勤務警備員男性の入国を完全否認しているが、北朝鮮工作員に包摂され土台人にされた在日朝鮮人・李秋吉

45歳から50歳位の日本人独身男性を探せ。

との指示を受け、かねてから知り合いであった三鷹市役所勤務警備員男性を海岸に連れ出し、不審船(工作船)で迎えに来た別の北朝鮮工作員に同人を引き渡した事実が判明している。

この1件だけで「拉致したのは13人だけ」との北朝鮮の主張は嘘であることが分かると指摘されている。

警視庁公安部石川県警察は主犯格の金世鎬(キム・セホ)を国際指名手配し、北朝鮮に対し所在の確認と身柄の引き渡しを要求している。

なおこの事件で石川県警察警備部は押収した乱数表から暗号の解読に成功したことが評価され、1979年に警察庁長官賞を受賞している。

この事実長年秘匿事項とされ、単に朝鮮半島に向けて不法に出国をした日本人がいたという小さな話題として報道された。

このことが、日本海沿岸部に居住する国民の防犯意識を弛緩させ、後述の拉致事件を招いたとする論調も一部にある。

ただし、乱数表およびその解読の事実を公開した場合は、工作員による事件関係者の抹殺や、新たな情報の収集困難を招き、ひいては事件解決が困難になるリスクも伴い、警察庁の立場からは安易に公開に踏み切るわけにはいかない事情があったことも考慮する必要がある。

少女拉致事案
1977年11月15日拉致
新潟の女子中学生、横田めぐみ(1964年10月5日 – 当時13歳)
新潟県新潟市において新潟市立寄居中学校からの下校途中に自宅付近(現中央区西大畑町、新潟大学付属新潟小学校前)にて失踪。

新潟県警察は、失踪直後から誘拐事件として捜査を行ったが、何の手がかりも得られなかった。

北朝鮮側の説明によれば、新潟市の女子中学生、横田めぐみは1986年に結婚し、1987年に一児(キム・ウンギョン)を出産するも、1994年4月(2002年10月の報告では「1993年3月」としていたが後に訂正)に入院先の病院で自殺1997年に火葬したとしている。

2004年11月の日朝実務者協議を通じ、横田めぐみ本人の「遺骨」として提供された骨の一部からは、DNA鑑定の結果、別人のDNAが検出された。
遺体は未確認。

2006年6月29日に行なわれた会見で、横田めぐみの夫とされる金英男は、「めぐみは1994年に自殺した」と述べた。

この発言について、彼女の両親である横田滋・横田早紀江夫妻は

予想通りの証言。
こういうことを平気で言わせる国(北朝鮮)にはらわたが煮えくり返るばかりだ。

とした。
また、安倍晋三内閣官房長官(当時)

発言内容は信憑性がない。

とした。

1997年には、朝鮮労働党書記の一人が朝鮮総連を通さずに直接当時の橋本龍太郎政権に対し非公式に横田めぐみの生存を伝えたという報道がなされたことがあり(通知が事実であれば当然のことながら1994年死亡という自らの説明と矛盾する)、横田めぐみの火葬をしたとされる「オボンサン火葬場」も、火葬をした1997年当時には無く1999年に建設されたものだと複数の脱北者が証言している。

また、帰国した地村富貴恵

(自殺より後の)1994年6月にめぐみさんが隣に引っ越してきた。

と証言している。

他、2002年に20歳頃の物として娘から渡されたとされる横田めぐみの写真を民間の専門家が鑑定したところ、北朝鮮側の説明と違い、自殺した年齢より後の30歳代後半という結果が出たという。

また2011年には、韓国自由先進党議員の朴宣映が脱北者から得た北朝鮮高官の話として、

横田めぐみは生存しており、知ってはいけないことを知りすぎたため日本に帰すことができず、他人の遺骨を日本側に渡した。

とする証言を日本政府に伝えている。

さらに週刊朝鮮の報道によって2005年に作成された北朝鮮平壌市民名簿横田めぐみとみられる記載があったことも確認されている。

なお、失踪直後に自宅近くの日本海の方から暴走族の爆音に似た音を近隣住民の多くが聞いていることがわかっており、ジャーナリストの石高健次は、1971年の加賀市沖不審船事件同様不審船から発せられた船舶用ディーゼルエンジンの音ではないかと推測している。

横田めぐみに関して中国では、彼女は病死したのでもなく事故死でもなく自殺でもなく、処刑され、骨は他の処刑者と一緒に火葬したため行方が知れず、故に偽物の骨を提出したという見方もある。

横田めぐみは北朝鮮で金賢姫の同僚工作員金淑姫に日本語の指導を行っていたとされる。

また、金正恩の母が早くに亡くなったため、彼を育て上げたのは横田めぐみとの説がある。

李恩恵(リ・ウネ)拉致事案
1978年6月29日頃拉致
東京の飲食店員、田口八重子(1955年8月10日 – 当時22歳)
1987年11月の大韓航空機爆破事件で有罪判決を受けた北朝鮮のスパイ(諜報員)金賢姫(キム・ヒョンヒ)は、「李恩恵(リ・ウネ)」という女性から日本人の立ち居振る舞いを学んだと主張している。

この李恩恵については金賢姫の供述を基に似顔絵が作られ、1988年頃全国各地

昭和55年以前に行方不明になったこの女性を知りませんか。

というポスターが貼られている。

その後埼玉県警察警備部の調べで1991年に、「李恩恵」が行方不明となった田口八重子と同一人物であると推定されている。

しかし彼女の家庭が複雑な事情を抱えており、まだ幼い子供のことを考えた家族からの要請で実名での報道を控えてほしいとの要請があり、特定には時間を要した。

日本の警察庁から2人の担当官がソウルへ行き、ソウル大使館政治部の警察庁出身の者を同行させ金賢姫と面会した。

教育に当たった李恩恵という女性は拉致された田口八重子ではないかということで、同年輩の女性の顔写真10枚ほどが準備された。

田口八重子の写真をこの中に混入し、

このなかに教育に当たった女性がいるか。

金賢姫に示した。

1枚1枚写真を見ていた彼女は田口八重子の顔写真を見て

この人です!

と言ったという。

李恩恵拉致された田口八重子であることが確認された。

2009年3月金賢姫は田口八重子の親族と釜山で面会した。

北朝鮮側の説明によれば、東京都の飲食店員、女性は1984年に大阪府、中華料理店勤務、調理師(男性、43歳)の日本人拉致被害者と結婚、1986年の同男性の病死後、すぐに自動車事故で死亡したとしている。

しかし、北朝鮮側遺体が洪水で流失したとしており、遺体の確認はされていない。

また、李恩恵なる人物の存在を否定している。

アベック拉致事案(福井県)
1978年7月7 – 8日拉致
小浜の大工見習い、地村保志(1955年6月4日 – 当時23歳)
被服店(ブティック)店員、濱本富貴惠(1955年6月8日 – 当時23歳)
1978年7月7日、福井県小浜市で拉致。
2人は1979年に結婚。

2002年10月日本に「一時帰国」として返されたが、本人の意思を確認した上で、日本政府が強く保護し北朝鮮に返さなかった。

2004年5月22日日朝首脳会談の結果を受け、娘1人と息子2人も日本に帰国を果たした。

アベック拉致事案(新潟県)
1978年7月31日拉致
中央大学法学部生、蓮池薫(1957年9月29日 – 当時20歳)
化粧品会社社員、奥土祐木子(1956年4月15日 – 当時22歳)
新潟県柏崎市で拉致。

ちょっと出かける。
すぐ帰る。

と言って外出したまま消息を絶つ。

同様に化粧品会社社員女性も外出したまま両名が拉致される。

2人は1980年5月に結婚2002年10月に地村らと共に日本に帰国。

2004年5月残された子供(1男1女)も日本に帰国を果たした。

アベック拉致事案(鹿児島県)
1978年8月12日拉致
電電公社職員、市川修一(1954年10月27日 – 当時23歳)
鹿児島の事務員、増元るみ子(1953年11月1日 – 失踪時24歳)
鹿児島県日置郡、吹上浜キャンプ場で拉致。

北朝鮮側の説明によれば、2人は1979年7月(2002年10月の報告では「1979年4月」としていたが後に訂正)に結婚したが電電公社職員、男性は1979年9月という涼しい時期に海水浴場で心臓麻痺により死亡。

鹿児島の事務員女性1981年に27歳の若さで心臓麻痺で死亡したとしている。

しかし、北朝鮮側は、両人とも遺体が洪水で流失したとしており、遺体の確認はなされていない。

さっきから、都合良すぎね?

一方、北朝鮮元工作員・安明進は、北朝鮮が死亡したとした日時の後、1988年から1991年にかけて

何回も二人を見た。

証言している。

母娘拉致事案(新潟県)(娘)
1978年8月12日拉致
佐渡の准看護婦、曽我ひとみ(1959年5月17日 – 当時19歳)
新潟県真野町(現佐渡市)において母親と2人で買い物に出かけた帰り道、佐渡で拉致。

1980年8月に元アメリカ兵チャールズ・ジェンキンスと結婚1983年6月に長女出産1985年7月に次女出産

2002年10月に日本に帰国。

夫および2人の娘については、2004年5月の日朝首脳会談の結果を踏まえ、夫と子ども(2女)は北朝鮮政府の与えた虚偽情報に基づき日本行きを拒否していた。

いわゆる、洗脳ね。

2004年7月9日、インドネシアのジャカルタにて再会し、7月18日一家4人で日本に帰国。

北朝鮮は、曽我ミヨシ(46歳)については、

日本国内の請負業者が拉致し曽我ひとみ一人を受け取った。

と主張しているが、日本政府は、曽我ミヨシを拉致認定している。

母娘拉致事案(新潟県)(母)
1978年8月12日拉致
佐渡の准看護師の母、曽我ミヨシ(1931年12月28日 – 当時46歳)
佐渡で上記の准看護婦、曽我ひとみと買い物帰りに同時に失踪。

北朝鮮側は、佐渡の准看護婦の母(失踪時46歳)は北朝鮮に入国していない旨を主張し関与を否定

消息は全く不明。

欧州における日本人男性拉致容疑事案
1980年拉致
京都外国語大学大学院生、松木薫(1953年6月13日 – 当時26歳)
1980年5月頃、欧州にて失踪。

北朝鮮側情報では、本人が北朝鮮行きの勧めに応じたとしている。

1980年6月にスペインのマドリードにて拉致。

松木は、石岡亨と共に「よど号ハイジャック事件」の犯人グループの妻2人(森順子・若林佐喜子)により拉致されたことが警察の調べで判明している。

北朝鮮側情報では、1996年8月23日に自動車事故で死亡したとしている。

だから~…。

2002年9月派遣された日本政府調査チームは、北朝鮮側より「松木のもの」とする遺骨の提供を受けたが、法医学的鑑定の結果、別人のものであることが確認されている。

また、2004年11月の日朝実務者協議の際に先方から提供された松木の「遺骨」である可能性があるとされた骨の一部からも、DNA鑑定の結果、別人のDNAが検出された。

・・・

1980年5月頃拉致
日本大学学生、石岡亨(1957年6月29日 – 当時22歳)
1980年5月頃、欧州にて失踪。

北朝鮮側情報では、本人が北朝鮮行きの勧めに応じたとされ1980年6月スペインにて拉致。

1980年4月にスペインの動物園よど号メンバーの妻2人(森順子・若林佐喜子)と一緒に撮影された写真が存在する。

また、石岡亨のパスポートが北朝鮮によって偽造パスポートの原本に利用され、発効日が同じで旅券番号が異なる偽造パスポートが北朝鮮工作員やよど号グループの柴田泰弘や日本赤軍の戸平和夫が使用していたことが確認されている。

北朝鮮側によれば、1985年12月に拉致被害者と結婚、1986年に長女誕生するが、1988年11月4日ガス中毒で一家全員死亡したとしている。

1995年8月に北朝鮮側は遺体が洪水で流失したと説明しており、遺体の確認はされていない。

全部、洪水…

警視庁公安部は「よど号」犯人の妻の森順子・若林佐喜子を国際指名手配し、北朝鮮に対し所在の確認と身柄の引き渡しを求めている。

欧州における日本人女性拉致容疑事案
1983年7月頃拉致
神戸市外国語大学学生、有本恵子(1960年1月12日 – 当時23歳)
欧州にて失踪。

有本の拉致については、「よど号」ハイジャック犯の柴田泰弘の妻となった八尾恵が、2002年3月12日

私が有本恵子さんを騙して北朝鮮に連れていきました。

東京地裁で証言している。

警視庁公安部は「よど号」犯人の魚本公博を国際指名手配し、北朝鮮に対し所在の確認と身柄の引き渡しを要求している。

北朝鮮側の説明によれば、有本は1985年に石岡と結婚、一児をもうけるも、1988年にガス中毒で一家3人全員が死亡したとしている。

しかし、北朝鮮側遺体が洪水で流失したとしており、遺体の確認はされていない。

ガス中毒と洪水…。

辛光洙(シン・グァンス)事件
1980年6月頃拉致
大阪府鶴橋中華料理店「宝海楼」勤務の調理師、原敕晁(1936年8月2日 – 当時43歳)
宮崎県青島海岸から拉致された本件については北朝鮮工作員、辛光洙(シン・グァンス)が韓国当局に対し中華料理店勤務、調理師男性の拉致を認める証言をしている。

本件に関連し警視庁公安部は辛光洙を国際指名手配した。

辛光洙1999年12月31日恩赦により釈放。

金大中政権「非転向長期囚送還」により翌2000年9月2日北朝鮮に送還された。

北朝鮮政府は、拉致実行犯は処罰したと説明しているが、一方で辛光洙は拉致実行後に金正日から大きな功績があったとして「国旗勲章1級」を授与され、英雄として北朝鮮の記念切手にもなっている。

北朝鮮側の説明によれば、原敕晁は李恩恵(リ・ウネ)拉致事案の田口八重子と1984年に結婚するも1986年に肝硬変で死亡したとしている。

しかし、北朝鮮側1995年7月遺体が洪水で流失したとしており、遺体の確認はされていない。

何でも洪水のせい・・・

北朝鮮側情報では、本人の金儲けと歯科治療の意向を受け、1980年6月17日 宮崎市青島海岸から連れ去った。

警視庁公安部は「宝海楼」の家宅捜索を実施後、工作員の辛光洙・共犯者の金吉旭・指示役で工作機関副部長の姜海龍を国際指名手配し、北朝鮮に対し所在の確認と身柄の引き渡しを要求している。

元飲食店店員拉致容疑事案
1978年6月頃元ラーメン店店員、田中実(1949年7月28日 – 28歳)
兵庫県神戸市灘区出身。
1978年6月、北朝鮮からの指示を受けた同店の店主である在日朝鮮人土台人によって、日本国外に連れ出された後、北朝鮮に送り込まれた。

北朝鮮側は、田中が北朝鮮内に入国したことは確認できなかったと主張している。

別の北朝鮮の元工作員が1996年

北朝鮮工作員と『土台人』のラーメン店店主に誘い出され、ウィーン経由で連れて行かれた。

と告白している。

抜粋:http://ul.lc/4u0h(wikipedia)より

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