【今日の歴史】1948年6月19日の事【誕生と死】

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文豪・太宰治
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目次

太宰 治

だざいおさむ
1909年(明治42年)6月19日~1948年(昭和23年)6月13日

日本の小説家である。
本名、津島 修治(つしま しゅうじ)

1936年(昭和11年)に最初の作品集『晩年』を刊行し、1948年(昭和23年)山崎富栄と共に玉川上水で入水自殺を完遂させた。
主な作品『走れメロス』『津軽』『お伽草紙』『斜陽』『人間失格』
その作風から坂口安吾、織田作之助、石川淳らとともに新戯作派、無頼派と称された。

山崎富栄出典:shisly.cocolog-nifty.com
山崎富栄
出典:shisly.cocolog-nifty.com

『人間失格』『桜桃』などを書きあげたのち、1948年(昭和23年)6月13日玉川上水で、愛人山崎富栄と入水自殺した。

2人の遺体は6日後6月19日奇しくも太宰の誕生日に発見され、この日は彼が死の直前に書いた短編「桜桃」にちなみ、太宰と同郷で生前交流のあった今官一により桜桃忌と名付けられた。

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引き揚げられた太宰と富栄の遺体
出典:20世紀2001大事件[CD-ROM]

この事件は当時からさまざまな憶測を生み、富栄による無理心中説狂言心中失敗説などが唱えられていた。

『朝日新聞』に連載中だったユーモア小説「グッド・バイ」が未完の遺作となった。

作品の13話が絶筆になったのは、キリスト教のジンクスを暗示した太宰の最後の洒落だったとする説(檀一雄)もある。

体調不良や一人息子がダウン症で知能に障害があったことを苦にしていたのが自殺のひとつの理由だったとする説もあった。

しかし、50回忌を目前に控えた1998年(平成10年)5月23日に、遺族らが公開した太宰の9枚からなる遺書では、美知子宛に

「誰よりも愛してゐました」

とし、続けて

「小説を書くのがいやになつたから死ぬのです」

自殺の動機を説明。

遺書はワラ半紙に毛筆で清書され、署名もあり、これまでの遺書は下書き原稿であったことが判った。

既成文壇に対する宣戦布告とも言うべき連載評論「如是我聞」の最終回は死後に掲載された。

東京・杉並区梅里の東京博善堀ノ内斎場にて荼毘に付される。

戒名は文綵院大猷治通居士。

太宰の墓がある東京都三鷹市の禅林寺では、太宰と富栄の遺体が引き揚げられた6月19日には毎年多くの愛好家が訪れている。

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東京都三鷹市の禅林寺
出典:ja.wikipedia.org

太宰の出身地・金木でも桜桃忌の行事を行っていた

「生誕地には生誕を祝う祭の方がふさわしい」

という遺族の要望もあり、生誕90周年となる1999年(平成11年)から

「太宰治生誕祭」

名称を改めた。

なお、著作権は1999年1月1日をもって消滅している。

抜粋:http://tiny.cc/56ijzx(wikipedia)より

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