【今日の歴史】1823年3月12日の事【幕末三舟の一人】

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1860年渡米時にサンフランシスコにて撮影したもの。
1860年
渡米時にサンフランシスコにて
撮影したもの。

勝海舟生誕日

勝 海舟(かつ かいしゅう) / 勝 安芳(かつ やすよし)
文政6年1月30日1823年3月12日-明治32年(1899年)1月19日)は、江戸時代末期から明治時代初期の武士(幕臣)、政治家。

位階勲等爵位は正二位勲一等伯爵

山岡鉄舟、高橋泥舟と共に「幕末の三舟」と呼ばれる。

概要
幼名および通称麟太郎(りんたろう)。

諱は義邦 (よしくに)、明治維新後改名して安芳。

これは幕末に武家官位である「安房守」を名乗ったことから勝 安房(かつ あわ)として知られていたため、維新後は「安房」を避けて同音(あん−ほう)の「安芳」に代えたもの。

勝本人は「アホゥ」とも読めると言っている。

海舟は号で、佐久間象山直筆の書「海舟書屋」からとったものである。
海舟という号は元は誰のものであったかは分からないという。

父は旗本小普請組(41石)の勝小吉、母は信。

幕末の剣客・男谷信友は従兄弟に当たる。

家紋は丸に剣花菱。

丸に剣花菱
丸に剣花菱

10代の頃から島田虎之助に入門し剣術・禅を学び直心影流剣術の免許皆伝となる。

16歳で家督を継ぎ、弘化2年(1845年)から永井青崖に蘭学を学んで赤坂田町に私塾「氷解塾」を開く。

安政の改革で才能を見出され、長崎海軍伝習所に入所。

万延元年(1860年)には咸臨丸で渡米し、帰国後に軍艦奉行並となり神戸海軍操練所を開設。

戊辰戦争時には、幕府軍の軍事総裁となり、徹底抗戦を主張する小栗忠順に対し、早期停戦と江戸城無血開城を主張し実現。

明治維新後は、参議海軍卿枢密顧問官を歴任し、伯爵に叙せられた。

李鴻章を始めとする清国の政治家を高く評価し、明治6年(1873年)には不和だった福澤諭吉らの明六社へ参加興亜会(亜細亜協会)を支援。

また足尾銅山鉱毒事件の田中正造とも交友があり、哲学館(現:東洋大学)や専修学校(現:専修大学)の繁栄にも尽力し、専修学校に

「律は甲乙の科を増し、以て澆俗を正す。礼は升降の制を崇め、以て頽風を極(と)む」

という有名な言葉を贈って激励・鼓舞した。

逸話
トラウマ
9歳の頃
、狂犬に睾丸を噛まれて70日間(50日間とも)生死の境をさまよっている(「夢酔独言」)。

このとき父の小吉は水垢離(みずごり)をして息子の回復を祈願した。
これは後も勝のトラウマとなり、犬と出会うと前後を忘れてガタガタ震え出すほどであったという。

福澤諭吉との関係
木村喜毅の従者という肩書きにより自費で咸臨丸に乗ることができた福澤諭吉は、船酔いもせず病気もしなかった。

一方、勝は伝染病の疑いがあったため自室にこもりきり艦長らしさを発揮できなかった。
福澤はそれをただの船酔いだと考えていたようで、勝を非難する格好の材料としている。

海舟批判書状の『瘠我慢の説』への返事

「自分は古今一世の人物でなく、皆に批評されるほどのものでもないが、先年の我が行為にいろいろ御議論していただき忝ない」として、「行蔵は我に存す、毀誉は他人の主張、我に与らず我に関せずと存候(世に出るも出ないも自分がすること、それを誉める貶すは他人がすること、自分はあずかり知らぬことと考えています)」

咸臨丸の実情
和船出身の水夫が60人

士分にはベッドが与えられていたが水夫は大部屋に雑魚寝
着物も布団もずぶ濡れになり、航海中晴れた日はわずかで乾かす間もなかった。

咸臨丸
咸臨丸

そのため艦内に伝染病が流行し、14、5人の病人が出た(今でいう悪性のインフルエンザか)。
サンフランシスコ到着後には3人が死亡、現地で埋葬された。
ほかにも7人が帰りの出港までに完治せず、現地の病院に置き去りにせざるを得なかった。
病身の7人だけを残すのが忍びなかったのか、水夫の兄貴分だった吉松惣八という2名が自ら看病のため居残りを申し出た。
計9人の世話を艦長の勝海舟は現地の貿易商チャールズ・ウォルコット・ブルックスに託し、充分な金も置いていった。
ブルックスは初代駐日公使ハリスの友人で、親日家だった。

受爵の時
受爵の時の話を勝が亡くなった際に宮島誠一郎がこう話している。

授爵の時は、伊藤サンから手紙が来た。
勝が、御受けせぬであろうが、ドウゾ、君の尽力で、ススメてくれという事で。
固より好まない事は知れているが、また固より受けても相当の事と思うから、行った。
スルト、運動に出たという事でおばあさんが出てきて、断ったが、是非会って申さなければならぬことだからと言って、待っていたが、ドウしても還って来ぬ。
ヤット十二時頃になって、今帰りましたということであった。

それから、話すとイツモの調子ではなく、厳然として、その受けられぬ訳を答えた。
真に、功もなく、恐れ多いというのだ。
なかなかむつかしい。

それで、これではイカヌと思って、コッチモ勝流をキメテ、ソウ言った。

「勝サン、それはソウダガ、私は伊藤サンの使いだ。これが西郷ナラ、私も使いにはならんし、また自分で来るだろう。何しろ相手が伊藤サンだから、ソウイジメないでもイイではないか、モウこれで二時だが、ドウか受けて受けてくれ」と言ったら、ソレデようやくマトマッタ。」

なお、この明くる日の受爵に本人は行かず代理で済ませたようである。

亡くなった時
勝が亡くなる直前の様子について、長年女中を務めていた増田糸子がこう話している。

「あの日は、お湯からお上りなすって、大久保の帰るのは(大久保一翁の子供の帰朝)昨日だか、今日だっけと、仰しゃっただけで、それからハバカリからお出になって、モウ褥の方へいらっしゃらず、ココの所へ倒れていらっしゃいますから、ドウなすったかとビックリしました。
死ぬかも知れないよと仰しゃって、ショウガ湯を持って来いと仰しゃいましたが、間に合いませんから、ブランデーをもって参りました。
油あせが出るからと仰しゃいますので、お湯はその時モウ落としてしまいましたから、あちらで取って参りましたから、それで一度おふきなすったのです。
それで、奥さまに申し上げまして、コチラにお出でになりました時には、モウ何とも仰しゃらず、極く静かにお眠りでした。」

徳富蘇峰との関係
徳富蘇峰は明治20年代に赤坂氷川の勝海舟の邸内の借家(名義は勝の長女の嫁ぎ先の内田氏)に住み勝の教えを受け、勝を生涯の師の一人と仰いでいる。

蘇峰は

「勝先生と相見たのは先生の六十歳以後であり、立てば小兵で別段偉丈夫らしく見えぬが、ただ五尺の短身すべてエネルギーというべきもので、手を触れれば花火を飛ばすごとき心地がした。
先生が正面から人を叱りつけたことは見たこともなく、聞いたこともなかったが、その上げたり下げたり、人をひやかすことの辛辣手段に至っては、いかなる傑僧の毒話も及ぶところではない。
誰でも先生に面会すれば、一度は度肝を抜かれた。
先生は何人に対しても、出会い頭に真拳毒手を無遠慮に下した。
それを辛抱して先生の訓えを聴かんとする者には必ず親切、丁寧に、手を取らんばかりに教え導いてくれた。」

と書き残している。

上記のように勝の人となりを最大限に讃えている蘇峰だが、晩年の勝の放言には閉口することもあったようで、「惜しむらくはあまりにも多弁」とも書き残している。

記念碑

勝海舟生誕の碑
勝海舟生誕の碑

「勝海舟生誕地碑」
勝は父小吉の実家である男谷家で生まれた。

現在、跡地は両国公園となっており、公園内に碑が立っている。
洗足池のほとりに勝海舟晩年の邸宅「千束軒」があったが戦災で焼失し、現在は勝夫妻の墓が残っている。

勝夫妻の墓
勝夫妻の墓

となりには勝が自費で建設した「西郷南洲留魂碑」がある。

西郷南洲留魂碑
西郷南洲留魂碑

そのとなりには勝海舟と西郷隆盛の江戸城無血開城の偉業をたたえた徳富蘇峰の詩碑が建立されている。

徳富蘇峰の詩碑
徳富蘇峰の詩碑

「西郷南洲勝海舟会見之地」碑(東京都港区芝)
江戸城無血開城を取り決めた勝西郷会談が行われた薩摩藩邸跡地に建っている。

「西郷南洲勝海舟会見之地」碑
「西郷南洲勝海舟会見之地」碑

「勝海舟銅像」(東京都墨田区吾妻橋)
墨田区区役所前の「うるおい広場」に、2003年7月21日(海の日)、今日の東京の発展の基礎を作った勝海舟の功績を顕彰するために、有志(勝海舟の銅像を建てる会)一般からの寄付金などで建てられた。

勝海舟像(墨田区役所)
勝海舟像(墨田区役所)

末裔問題
愛人と隠し子がいたが、正妻・民子は異腹の九人の子供を分け隔てなく可愛がり、屋敷の人々から「おたみさま」と呼ばれて慕われた。

だが民子は遺言で「勝のそばに埋めてくださるな。わたしは小鹿のそばがいい」と言い残したが、遺言の希望は聞き入れられず養子の精の一存で勝の隣に葬られてしまった。

財務省事務次官の勝栄二郎および世界銀行副総裁の勝茂夫の兄弟は曾孫に当たるという伝説が、霞ヶ関などで流布されていたが、栄二郎は雑誌の取材に対して海舟との関係を完全に否定している。

抜粋:http://ul.lc/5eu4(wikipedia)より

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