【今日の歴史】1935年11月8日の事

【今日の歴史】1935年11月8日の事
アラン・ドロンの若い頃
アラン・ドロンの若い頃

アラン・ドロン生誕日

アラン・ドロン(Alain Delon、1935年11月8日 – )はフランスの映画俳優。
1960年代から1980年代初めにかけ美男の代名詞的存在だった。
身長184センチメートル。

出生
1935年11月8日パリ郊外のオー=ド=セーヌ県ソーで生まれる。
父は小さな映画館を経営、母は後に結婚するナタリーと雰囲気の似た美人で、薬剤師の資格を持っていた。

4歳で両親が離婚し母方に預けられるも、再婚したシャルキュトリ(ハムやソーセージなど豚肉加工品専門の食品店)の義父と合わなかったこと、そして母親が新たに生れた娘(エディット)だけを可愛がった為にアランは除け者とされる。
更に追い討ちをかけるが如く実父も再婚、息子ジャン=フランソワ(後にアランの映画の製作に参加)が生まれていた。
それら家庭不和に因る愛情不足が所以で女生徒と度々問題を起こし寄宿学校を転々とし、最終的には手に負えない問題児として感化院に入れられ、一時的に鉄格子生活をも経験する羽目となった。
その後14歳より前述の食品店で働き始めた。

自分の居場所を求めていたアランは苦肉の策としてフランス外人部隊へ志願、未成年者は保護者の承諾が必要だったが、母は義父の言うがままに承諾した。
この一件で、母への憎しみが根深く残る事となり、次第に女性不信という形で表れていった。
こうして17歳で入隊し、マルセイユより貨物船に乗せられ、カービン銃の扱いだけを教わって落下傘部隊へ配属され第一次インドシナ戦争へ従軍する事となった。

1955年休戦条約によって20歳で無事除隊後はアメリカとメキシコを放浪、1956年に帰国後はパリのモンマルトルなど方々を転々とし、サン=ジェルマン=デ=プレに落ち着いた。

銀幕へのデビュー
翌1957年の夏、女優のブリジット・オーベールから「カンヌで映画祭が開催されるから、ぶらぶらしてみたら? あなたほどの美貌なら、監督の誰かから声が掛かるかもしれないわよ?」と言われた。

それがきっかけで、帰国後パリで知り合ったジャン=クロード・ブリアリと2人で、暑かったので上半身裸のままカンヌを歩いてみると、過去にロック・ハドソンを発掘したハリウッドの一流エージェント、ヘンリー・ウィルスンに「君はいい身体をしている…」とスカウトされ、三日後にローマのチネチッタ撮影所にて、映画『武器よさらば』撮影中のデヴィッド・O・セルズニックのスクリーンテストを受け合格し、アメリカでの成功に太鼓判を押され、英語の習得を条件に7年間の契約を持ち掛けられる。

しかし「私はフランス人なので、まずはフランスで勝負をしたい」と保留、女優エステラ・ブランの紹介で、イヴ・アレグレ監督の『女が事件にからむ時』(共演ジャン・ポール・ベルモンド)でデビュー。

1959年、『恋ひとすじに』で共演した西ドイツの若手スター、ロミー・シュナイダーと同棲し婚約するも、

1963年に破棄。

1960年
、ルネ・クレマン監督『太陽がいっぱい』に主演。ニーノ・ロータの曲と共に大ヒットし、世界的にその名を知られる。
その後もクレマン監督作品など、数多くのフランス映画・イタリア映画・アメリカ映画に出演し、自身が出演する作品のプロデュースも手がけるなどして活躍。

その後の女性遍歴
1963年、モロッコのカサブランカ出身で育った境遇が似ていたことや、人生経験豊かなところに惹かれ親しくなったナタリー・バルテルミー(本名はフランシス・カサノヴァで仏伊混血、ナタリー・ドロン)と結婚し1964年、生まれたばかりの息子アントワーヌ(後にアントニー・ドロンの名でデビュー)と三人でアメリカ合衆国のビバリーヒルズに滞在。

いくつかの映画に出演したり、アカデミー賞のプレゼンターにも立ったが、その頃のハリウッドでは美男よりもアウトローな男が脚光を浴び始めていたことから、時勢として受け入れられなかった。

1966年フランスへ帰国。
映画『サムライ』に出演したことにより、女優を続けたいと願うナタリーと対立しやがて離婚。
その後、ミレーユ・ダルクと長い愛人関係にあった。

1987年にドイツ人モデル、ナタリー・ヴァン・ブレーメンと出会い、籍は入れず、アヌーシュカとアラン・ファビアンの2子をもうけるが、2002年に別れた。

ドイツ人のモデル・歌手のニコとの関係も有名である。
ニコは1962年に長男クリスティアンを生むが、彼は未だに認知をしていない。
クリスティアンはドロンの実母に育てられたうえ、容姿もドロンそっくりである。

日本での反響
日本での人気は絶大で、美男子の代名詞ともなった。

また、女性のみならず、前述の『太陽がいっぱい』『さらば友よ』そして『冒険者たち』『サムライ』『地下室のメロディー』などで幅広い層のファンを獲得した。
彼のファッションや映画のセリフ、立ち居振舞い、サングラス、煙草の吸い方などに憧れたり、真似をする男性達が続出した。

1963年(昭和38年)、4月1日から4月10日まで東京・丸の内の東京商工会議所ホールで開催された第3回フランス映画祭(後援は在日フランス大使館ほか)のため初来日。
日本のファン達の大歓迎をうけた。他にドロンと共に映画祭に参加したのは、映画監督のフランソワ・トリュフォー、セルジュ・ブールギニョン、女優のマリー・ラフォレ、アレクサンドラ・スチュワルト、フランソワーズ・ブリヨン(Françoise Brion)らであった。

1963年4月6日と1964年(昭和39年)6月9日、フジテレビ『スター千一夜』に出演。

同6月13日にはNHK『夢であいましょう』に出演。映像は現存しないが、司会を務めていたデザイナーの中島弘子と番組セット内で撮ったカラー写真が現存する。

1976年の太田裕美のヒット曲『赤いハイヒール』(作詞・松本隆)では、少女がボーイフレンドをアラン・ドロンと比べるという描写がある。
また、1977年の榊原郁恵のヒット曲『アル・パシーノ+(たす)アラン・ドロン<(より)あなた』(作詞・森雪之丞)でも名前が登場している。
日本ではCMにも出演しており、ダーバンやマツダ・カペラのCMが特に有名(カペラにはCM出演のみならずアランドロン・バージョンすら存在した)。

2010年には生誕75周年を記念して、「アラン・ドロン生誕75周年記念映画祭」が東京や京都で開催された。

その他の活動
1970年代より、自身の名をブランド名にした香水のプロデュースに注力、ことに男性用香水「SAMOURAI」・「SHOGUN」・「47SAMOURAI」は日本古来の風土・文化にインスピレーションされたネーミング・ボトルとパッケージのデザイン・調香から日本でも絶大な人気・好評を博している。

1990年鈴鹿サーキットで行われたF-1グランプリにフランス人ドライバーのアラン・プロストを応援しに来日している。

1993年、スイスで行われた女優オードリー・ヘプバーンの葬儀に参列。
それまで交流があったことは一切報じられておらず、また、日本では長年人気投票の外国男優・外国女優部門の1位を獲得してきた人気俳優同士だったため、日本中を驚かせた。彼は「僕は彼女を尊敬していた」と交流を語った。

1998年公開の『ハーフ・ア・チャンス』を最後に映画からの引退を公言した(『SMAP×SMAP』でその理由を「映画でやりたい事は全てやりきったから」と発言) が、復帰してテレビドラマや映画、舞台など幅広く俳優活動を継続しており、2007年にはベストセラー小説『マディソン郡の橋』の舞台化作品への出演が決まっている。

日本での人気も半世紀近くを迎えた2007年10月8日、『SMAP×SMAP 秋の超豪華 アラン・ドロンも来ちゃいましたスペシャル!!!』(関西テレビ・フジテレビ)の「BISTRO SMAP」に登場した。
出演した理由を「50年経ったし、そろそろ日本に来てもいいかな、と思って」「(日本には)昼飯を食べるためだけに来た。」とユーモアたっぷりに語り、前日の夜に日本に到着し、撮影日の午後9時に帰途に発つ、という強行スケジュールだった。
彼が料理絡みの番組に出たのは日本の料理番組に出演した一度だけで、「招待してくれてうれしい」とのことだった。
また、番組内では各出演映画の名場面や上記の44年前の初来日の時の貴重なニュースフィルム(モノクロ)なども紹介された。
「前菜はパッパルデッレの冷製パスタ、メインはマルセイユ風ブイヤベース、デザートはチョコレートスフレ」と注文はかなり細かく、試食の感想も「マルセイユの味じゃない」(通訳から冷製パスタだけ伝えられたためスパゲッティーを使ったところ)「パッパルデッレは平麺なんだけど…」と手厳しかったが、「でも美味しい。」と大筋では堪能していたようだ。

また、フィルムデビュー50周年を記念して、2007年11月8日の72歳の誕生日から、2003年 – 2004年にフランスとドイツ共同制作で製作されたドラマ『アラン・ドロンの刑事フランク・リーヴァ』がWOWOWで放送された。

大の格闘技好きであり、ドロン自ら格闘技の興行を主催した事もある。
また、同じフランス人のK-1トップファイタージェロム・レ・バンナとは友人であり、映画で共演した事もある。

エピソード
1964年東京オリンピックのメインスタジアム(新宿区霞ヶ丘町)の落成式に出席し併せて国立代々木競技場を訪問、そして開通したばかりの東京モノレールに試乗した。

日本のテレビコマーシャルでは「ダーバン」に出演、「『ダーバン』最高の仕立ての洋服です」をフランス語で語っていた。
当時ヨーロッパにおいて大スターがCMに出演することは前代未聞であり、彼はレナウンからの出演依頼を頑なに断り続けていたが、映画「レッド・サン」の撮影中、共演者である三船敏郎とチャールズ・ブロンソンからの説得に応じ快諾、こうして1971年5月より「ダーバン」のCM撮影は始められた。

ドロンの友人であるジェロム・レ・バンナは、2006年9月30日にK-1 WORLD GP開幕戦のメインイベントでチェ・ホンマンと対戦予定だった。しかし、バンナはドロンと共に映画『アステリックス』シリーズの最新作に出演中であり、バンナのマネージャーがバンナ本人の承諾を得る前に「撮影が終わる11月2日までは格闘技の試合はもちろん、スパーリングなどの怪我しやすい練習もしてはいけない」という契約を映画会社と結んでしまった事によって欠場が濃厚となっていた。
しかし、バンナは開幕戦の半年以上前から、K-1主催者とフジテレビに映画撮影のため、開幕戦に出場できない事を伝えていたにも関わらず、フジテレビから「出場しなければ契約を解除する」という理不尽な通告をされ、K-1ファイター人生の危機に陥っていた。
そこでドロンが「君は戦うために生まれてきた男だ。そんな契約は気にせず、日本で試合をしてきなさい。後の事はこっちで何とかするから」と言ってバンナを撮影地のスペインから送り出した事により、何とか開幕戦当日の試合開始6時間前に来日を果たした。
そしてホンマン戦で勝利した後、リング上でマイクを握ったバンナは「快く送り出してくれたアラン・ドロンに感謝します」とコメントした(しかし、通訳者はこの言葉は省略した)

カンヌ映画祭にて、香取慎吾と携帯電話カメラでツーショット写真を撮った。
『SMAP×SMAP』で香取がいつもの仮装の代わりに、この画像を引き伸ばしてパネルにしたのを見たアランは「写真写りが悪いね。カメラ変えたら?」と発言。
この発言はある程度予想済みだったようで、それを受けたのか、香取はカメラマンにデジタルカメラを持たせて、他のメンバーを尻目に再びツーショットを撮影した。
『SMAP×SMAP』で、もうすぐ72歳になるのに若いことに対して若さの秘訣を聞かれたところ、「女性だ」と即答した。また、「カッコイイ男性は?」と聞かれた時は「三船敏郎」と答えた後、「でも、カッコイイ男性より美しい女性ですよ」と答えた。
ちなみに、好きになる女性のタイプは「容姿とかではなく心にくるかどうかで、人種や国籍は関係ない」という趣旨の発言をしている。

三船敏郎を尊敬しており、三船をイメージしてsamuraiという名の香水や映画を作った。

『SMAP×SMAP』で、木村拓哉 と稲垣吾郎に対し、「(俳優をしている、という点については)君達と私は似ているが、私は料理ができない。私にできるのは、俳優と子作りだけだ。あと、悪戯も」と言った。
その後、料理対決に勝った香取慎吾と草彅剛にプレゼントを渡す際、アラン・ドロンモデルの時計を腕から外して腕の日焼け跡を見せ「一つしかない」ように思わせて香取にあげた後、おもむろにポケットをまさぐって同じ時計を草彅にあげる、という悪戯をした。

チョコレート好き。好きなチョコレート菓子はスフレ。

日本一のソープランド街として知られる吉原を訪れたこともあり、その時のお相手は、丸千代というソープ嬢であった。(丸千代嬢が在籍していた店は、「世界一の二枚目が遊んだ店」として、たちまち全国的に有名となり、丸千代嬢への予約は、「ドロンと兄弟」を目指す客で札止め状態となった。)

1987年、モロッコでの15年間の投獄の末、脱走したマリカ・ウフキルは逃走中に自分達の事実を伝えるため政治家やアーティストに20通ばかりの手紙を送ったが、返事があったのはアラン・ドロンただ一人だった。
モロッコと利害関係のあるアラン・ドロンは弁護士を通じて「政治的立場をとるつもりはないが、マリカ・ウフキル達に友情を伝えてくれと言い、物資面の援助や裁判費用も払う用意がある」と伝え、マリカ・ウフキルはこの厚意に心底感動したと語っている。

アラン・ドロンの日本語吹き替えの声優は野沢那智が長く務めていた。

受賞歴
ゴールデングローブ賞
1964年 有望若手男優賞 『山猫』 – ノミネート

ダヴィッド・ディ・ドナテッロ賞
1972年 特別賞 – 受賞

セザール賞
1977年 最優秀男優賞 『パリの灯は遠く』 – ノミネート
1978年 最優秀男優賞 『チェイサー』 – ノミネート
1985年 最優秀男優賞 『真夜中のミラージュ』 – 受賞

ベルリン国際映画祭
1995年 名誉金熊賞 – 受賞

抜粋:http://ul.lc/55az(wikipedia)より

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