【今日の歴史】1722年4月5日の事【絶海の孤島発見】

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超有名なイースター島のモアイ像‎渋谷駅や蒲田駅にあるのはモヤイ像 www.logsoku.comより
超有名なイースター島のモアイ像
‎渋谷駅や蒲田駅にあるのはモヤイ像

www.logsoku.comより

イースター島発見

発見者ヤーコプ・ロッヘフェーン
(1659年2月1日 – 1729年1月31日)

オランダ(ネーデルラント連邦共和国)の航海者・探検家。
探検家となる前は公証人を経て、
1690年にハルデルワイク大学で法律を修め、1707年から1714年まで
バタビア(現在のジャカルタ)で裁判官として働いた。

経緯
ヤーコプは62歳にして土地を探すため、3艘の船で出発した。

ヤーコプ・ロッヘフェーン氏の肖像
ヤーコプ・ロッヘフェーン氏の肖像

1721年8月1日オーストラリア大陸を求めてオランダとオランダ西インド会社の3隻の帆船、Arend号、Thienhoven号、Afrikaansche Galey号からなる艦隊を率いた。

フォークランド諸島に寄航した後、ルメール海峡を通過し、南緯60度まで南下し、太平洋に入った。

ヤーコプ・ロッヘフェーンの辿った航路PDより
ヤーコプ・ロッヘフェーンの辿った航路
PDより

チリのバルディビア近くに上陸し、フアン・フェルナンデス諸島に1722年2月24日から3月17日まで滞在し、1722年4月5日のイースターの日にイースター島を発見し、2,000人から3,000人の住民を見たと報告した。

ツアモツ諸島、ソシエテ諸島、サモア経由でバタビアに達した。

バタビアでオランダ東インド会社(過去記事参照)の独占を犯したとして逮捕されるが、解放され補償が支払われた。
1723年に、オランダに戻った。

イースター島全図www.oceanmate.co.jpより
イースター島全図
www.oceanmate.co.jpより

イースター島
チリ領の太平洋上に位置する火山島。

現地語名はラパ・ヌイ(ラパ・ヌイ語: Rapa Nui)。
正式名はパスクア島(パスクアとう、スペイン語: Isla de Pascua)
“Pascua”は復活祭(イースター)を意味する。
日本では英称で呼ばれることが多い。

概要
モアイの建つ島である事は有名。

ポリネシア・トライアングルの東端に当たる。
周囲には殆ど島らしい島が存在しない絶海の孤島である。

ポリネシア・トライアングルblogs.yahoo.co.jpより
ポリネシア・トライアングル
blogs.yahoo.co.jpより

「ラパ・ヌイ」とはポリネシア系の先住民の言葉で「広い大地」(大きな端とも)という意味を持つ。

かつては、テ・ピト・オ・ヘヌア(世界のへそ)、マタ・キ・テ・ランギ(天を見る眼)などと呼ばれた。

これらの名前は、19世紀の後半に実際に島に辿り着けたポリネシア人が付けたものである。

ちなみに、アラスカからピラミッドとアラスカからイースター島の距離は同じで、その距離に黄金比1.618をかけると、イースター島からギザのピラミッドの距離になるそうです。
(ピラミッドって不思議!黄金比が不思議?どっちw)

概要
海底火山の噴火によって形成された島に最初の移民が辿り着いたのは4世紀~5世紀頃だとされている。

この移民は、遥か昔に中国大陸からの人類集団(漢民族の祖先集団)の南下に伴って台湾から玉突き的に押し出された人びとの一派、いわゆるポリネシア人である。

ポリネシア人の社会は、酋長を中心とする部族社会であり、酋長の権力は絶対で、厳然たる階級制度によって成り立っている。

部族社会を営むポリネシア人にとって、偉大なる祖先は崇拝の対象であり、神格化された王や勇者達の霊を部族の守り神として祀る習慣があった。

タヒチでは、マラエと呼ばれる祭壇が作られ、木あるいは石を素材とするシンボルが置かれた。

タヒチ島にあるマラエwww.pacificresorts.comより
タヒチ島にあるマラエ
www.pacificresorts.comより

イースター島でも同様に行われていたと想像できる。

化石や花粉の研究から、当時のラパ・ヌイは、世界でも有数の巨大椰子(チリサケヤシの同種もしくは近縁種(Paschalococos))が生い茂る、亜熱帯性雨林の島であったと考えられている。

初期のヨーロッパ人来航者は、「ホトゥ・マトゥア」という首長が、一族とともに2艘の大きなカヌーでラパ・ヌイに入植したという伝説を採取している。

モアイ時代
7世紀~8世紀頃に、プラットホーム状に作られた石の祭壇(アフ)作りが始まり、遅くとも10世紀頃にはモアイも作られるようになったとされる。

他のポリネシアの地域と違っていたのは、島が完全に孤立していたため外敵の脅威が全くなく、加工し易い軟らかな凝灰岩が大量に存在していたことである。

採石の中心は「ラノ・ララク」と呼ばれる直径約550mの噴火口跡で、現在でも完成前のあらゆる段階の石像が散乱する彫る道具とともに残されている。

ラノ・ララクblogs.yahoo.co.jpより
ラノ・ララク
blogs.yahoo.co.jpより

最初は1人の酋長の下、1つの部族として結束していたが、代を重ねるごとに有力者が分家し部族の数は増えて行った。

島の至る所に、それぞれの部族の集落ができ、アフもモアイも作られていった。

デザインも時代につれ変化する。

第1期のモアイは人の姿に近いもので下半身も作られている。

初期 モアイwww.geocities.jpより
初期 モアイ
www.geocities.jpより

第2期のモアイは、下半身がなく細長い手をお腹の辺りで組んでいる。

第2期 モアイringoon.jpより
第2期 モアイ
ringoon.jpより

第3期のモアイは、頭上に赤色凝灰石で作られた、プカオ(ラパヌイ語で髭あるいは髪飾り)と呼ばれる飾りものが乗せてある。

第3期 モアイ(女性型?)2r.ldblog.jpより
第3期 モアイ(女性型?)
2r.ldblog.jpより

第4期のモアイが、いわゆる一般にモアイといって想像する形態(全体的に長い顔、狭い額、長い鼻、くぼんだ眼窩、伸びた耳、尖った顎、一文字の口など)を備えるようになる。

半身が土に埋もれたラノ・ララクのモアイ第4期 モアイntooffice.blog21.fc2.comより
半身が土に埋もれた
ラノ・ララクのモアイ
第4期 モアイ
ntooffice.blog21.fc2.comより

モアイは比較的加工し易い素材である凝灰岩を玄武岩や黒曜石で作った石斧を用い製作されていったと考えられている。

当時作られたモアイや墳墓、石碑といった、考古学的に極めて重要な遺跡が数多く残されているが、この時期までが先史社会と考えてよく、ラパヌイ社会はこのあと転換期をむかえる。

よく、モアイは「海を背に立っている」と言われているが、正確には集落を守るように立っており、海沿いに建てられたモアイは海を背に、内陸部に建てられたモアイには海を向いているのもある。

祭壇の上に建てられたモアイの中で最大のものは、高さ7.8m、重さ80tにもなる。

島最大の遺跡「アフ・トンガリキ」は島の東端にあり、アフの長さは100m、その上に高さ5mを超える15体のモアイが並んでいる。

文明の崩壊
少なくとも10世紀~17世紀800年もの間モアイは作られ続けたが、18世紀以降は作られなくなり、その後は破壊されていった。

モアイ作りは突然終息する。

モアイを作り、運び、建てる為には大量の木材(椰子の木は木材としてはとてももろい為、すぐに使えなくなった)が必要で、大量伐採によって森が失われ、その結果、肥えた土が海に流出し、土地が痩せ衰え、人口爆発と深刻な食糧不足に陥り、耕作地域や漁場を巡って部族間に武力闘争が生じるようになる。

余談ではあるが、1994年公開ケビン・コスナー製作の「Rapa Nui」という映画があります。
時代が前後してしまっているのですが、モアイの作る様子がよくわかります。
時代の前後というのは、映画の時代に鳥人レースはまだないのですw
しかも、洞窟の絵は現在の人たちのいたずらで描かれたものですし~w
でも、現地ロケなので景色は圧巻です!
前述の通り時代考証がぼろぼろなので、人気が無くすぐに打ち切られました。
パラレルとして観ればいいのにね。
私はこの映画好きです。
特に恋人役の女性がw

モアイは目に霊力(マナ)が宿ると考えられていたため、相手の部族を攻撃する場合、守り神であるモアイをうつ伏せに倒し、目の部分を粉々に破壊した。

その後もこの「モアイ倒し戦争」50年ほど続き、森林伐採は結果として家屋やカヌーなどのインフラ整備を不可能にし、ヨーロッパ人が到達したときは島民の生活は石器時代と殆ど変わらないものになっていた。

ヨーロッパ人到達後
1722年の復活祭の夜、オランダ海軍提督のヤーコプ・ロッヘフェーンが、南太平洋上に浮かぶ小さな島を発見する。

発見した日がイースターのため「イースター島」と名前が付いたと言われている。

この島に上陸したロッヘフェーンは、1000体を超えるモアイと、その前で火を焚き地に頭を着けて祈りを捧げる島人の姿を目の当たりにする。

1774年には、イギリス人探検家のジェームズ・クックも上陸している。

クックは倒れ壊されたモアイ像の数々を目にしたが、島のモアイの半数ほどがまだ直立していたと云う。

そして山肌には作りかけのモアイ像が、まるで作業を急に止めてしまったかのように放置されていた。

ジェームズ・クックとは?
イギリスの海軍士官、海洋探検家、海図製作者。

通称キャプテン・クック。
太平洋に3回の航海を行い、オーストラリア東海岸に到達、ハワイ諸島を発見し、自筆原稿による世界周航の航海日誌を残し(第2回航海)、ニューファンドランド島とニュージーランドの海図を作製した。
史上初めて壊血病による死者を出さずに世界周航を成し遂げた。
第3回航海の途上、ハワイ島で先住民との争いによって1779年に落命。
第2回航海(1772年 – 1775年)の帰路航海で1774年にトンガ、イースター島、ニューカレドニア、バヌアツに上陸している。

ロンドン海軍博物館所蔵のクックの公式肖像画ja.wikipedia.orgより
ロンドン海軍博物館所蔵の
クックの公式肖像画
ja.wikipedia.orgより

伝承では1840年頃に最後のモアイが倒されたとされる。

18世紀~19世紀にかけてペルー副王領政府の依頼を受けたアイルランド人のジョセフ・バーンや、タヒチのフランス人の手によって、住民らが奴隷として連れ出された。

また外部から持ち込まれた天然痘が猛威を振るった結果、人口は更に激減し先住民は絶滅寸前まで追い込まれ、1872年当時の島民数はわずか111人であった。

1888年チリ領になり現在に至るが、1937年に軍艦建造の財源捻出目的で、サラ・イ・ゴメス島とともに売却が検討され、アメリカ合衆国、イギリス、日本に対して打診があった。

地理
チリの首都であるサンティアゴから西へ3,700kmタヒチから東へ4,000kmほどの太平洋上に位置し、ペルー海流が周辺海域は渦巻き、近海は海産資源豊富な漁場であり、とくにカタクチイワシが多く捕れる。

イースター島の位置Googleマップより
イースター島の位置
Googleマップより

全周は60kmほどで、面積は180平方kmであり、北海道利尻島とほぼ同じ大きさである。

最も近いサラ・イ・ゴメス島でも東北東に415km離れている絶海の孤島であり、人の住む最も近い島であるピトケアン島までは約2,000kmの距離がある。

乾燥した気候で年間降雨量は1,250ミリメートルと少ないものの、バナナ、サトウキビなどの栽培には十分である。

一方、河川がないため灌漑用水の確保はしにくく、タロイモ栽培などには適していない。

地質
マグマの噴出によって造られた小さな火山島であり、上空から見ると三角形をした島の各頂点には、カウ山カティキ山テレバカ山の3つの休火山がある。

イースター島全図www.aquanotes.comより
イースター島全図
www.aquanotes.comより

島の北部にあるテレバカ山(海抜507m、海底からは約2千mの高さがある)が島の大部分を占め、他の2つの他に多数の噴火口や火口湖がある。

ガラパゴスやハワイと同じ玄武岩で鉄分が多く75万年前に形成され、最新の噴火は約10万年前とされるが、20世紀前半に水蒸気の噴出が記録されている。

文化
住民はポリネシアで唯一文字を持っていた。

ラパヌイ文字(ロンゴロンゴ文字)と呼ばれる絵文字がこれに当たる。(古代インダス文字に似ているらしい。)

ロンゴロンゴの本来の呼称は、「コハウ・モトゥ・モ・ロンゴロンゴ」=「詠唱のために彫られた線」であり、略して「コハウ・ロンゴロンゴ」=「詠唱のための線」と呼ばれるようになったと言われている。
ロンゴロンゴが言語を書き表した「文字」であることが証明されれば、人類史上において数少ない、独自に発達した文字体系の一つであることになる。

この絵文字は古代文字によく見られる牛耕式と呼ばれる方法で書かれ、文字板のテキストは左下の隅から始まり、右に読み進んだ後、読み手は文字板を180度回転させて次の行を読む、ということである。偶数行の絵文字が逆さになっている。
と、ja.wikipediaに書かれているが、テキストが左下に始まり左上に終わるロンゴロンゴは「倒立牛耕式」である。

板や石に書かれ、かつては木材に刻まれたものが多数存在したようである。

ロンゴロンゴ文字の木板www.pacal.deより
ロンゴロンゴ文字の木板
www.pacal.deより

宣教師らが「悪魔の文字」であるとして破壊したという俗説があるが、実際は過度の伐採により木材が常に不足している島の住民たちによって、薪や釣り糸のリールとなり、多数の文字資料が失われたという。
そのため、現在はわずか26点しか存在しない。

また、現在のラパ・ヌイ人は、フランス人の奴隷狩りによりタヒチに連れ去られ、戻ってきた人々の子孫であり、現行のラパ・ヌイ語はタヒチ語の影響を強く受けた言語である。

古代ラパ・ヌイ語についてはヨーロッパ人による貧弱な記録をたどるほかは、現行のラパ・ヌイ語から復元する以外、知る手立ては存在しない。

したがって、未だに解読されていない文字が多く有る。

ラパ・ヌイの先住民が最初に外国から来た船で西洋人と接した時、文字の存在を知り、その有効性を学び、そこから真似て自らの文字を作り上げたとする説が極めて有力である。

そのため、ラパヌイ文字をポリネシアの古来からの書記言語と断定することはできない。

その他
閉鎖された空間に存在した文明が、無計画な開発と環境破壊を続けた結果、資源を消費し尽くして最後にはほぼ消滅したという歴史は、現代文明の未来への警鐘として言及されることが多い。

現在のイースター島
島全体が、ラパ・ヌイ国立公園としてチリ政府により国立公園に登録されている。
また1995年に世界遺産に登録されている。

現在のイースター島(ラパ・ヌイ島)Googleマップより
現在のイースター島
(ラパ・ヌイ島)
Googleマップより

交通 
島の人口は約4000人。
島内には、チリ海軍が駐留し、数ヶ月に1度は物資とともに海兵隊もやって来る。

鉄道は敷設されていないが、主要道路については舗装されており、島内の主な交通手段としては、乗り合いバスもしくはタクシーが、主な公共交通手段として、島民や観光客に利用されている。

観光客には、レンタカー、レンタルバイクも利用されることが多い。

島内には、レストラン、ホテル、ディスコ、ガソリンスタンド、ビデオレンタルショップ、学校、病院、博物館、郵便局、放送局(テレビ局3局、ラジオ局1局)等の施設が整っており、島の暮らしは至って現代的である。

島外
ラン航空が、マタベリ国際空港とサンティアゴ、リマ、タヒチのパペーテとの間に定期便を運航している。

近隣諸島との間には貨客船も運航されている。

なお、マタベリ国際空港の滑走路は、島の規模には不釣合いな3,300mと長大なものであるが、これはかつてNASAがスペースシャトルをヴァンデンバーグ空軍基地から打ち上げる計画を持っていたため、その際の緊急着陸地 のひとつとして整備されたものである。

チャレンジャー号爆発事故によってこの計画も中止されたため、緊急着陸地のリストから外された。

イースター島の謎【普通書籍】
イースター島【電子書籍】
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抜粋
http://go.ascii.jp/dfp(wikipedia)
http://go.ascii.jp/dfr(wikipedia)より

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