【今日の歴史】1940年5月3日の事【音の開拓者】

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コニー・プランクちなみに、コニースタジオは豚小屋を改造して作った出典:amass.jp
コニー・プランク
ちなみに、コニースタジオは豚小屋を改造して作った
出典:amass.jp

コニー・プランク生誕日

Konrad ‘Conny’ Plank
1940年5月3日 – 1987年12月18日)
20世紀後半で最も重要とされた音楽録音プロデューサー
の一人である。
彼の音楽エンジニアとプロデューサーとしての優れた才能は、
戦後のヨーロッパにおいてポピュラー音楽の
レコーディング方法を革新することに貢献し、
プログレッシブ・ロックや電子音楽、前衛音楽…
という広いジャンルにおいて重要な変革をもたらした。

プランク「クラウト・ロック」として知られるジャンルを定義する上で欠くことのできない重大な存在であり、彼の業績はスタジオ音楽制作とエンジニア技術にも大きな影響を及ぼしている。

プランクと彼がドイツで一緒に仕事をしたバンドは、メインストリームのロックアーティストにかなり影響を及ぼした。

彼らはプランクの「音楽制作技術」「非常に特徴的な音響追求」の側面を普及させた。

1980年代新世代のエレクトリック・ポップ・バンドはコンピュータ化された電子楽器を使うと共に、プランクの仕事でよく使われているアイデアを用い、自分たちも同じような新しい音楽ができることを実感した。

略歴
1940年、ドイツ南西部の町ヒュッチェンハウゼン(Hütschenhausen)に生まれる。

1960年代カールハインツ・シュトックハウゼンのスタジオで働く。

カールハインツ・シュトックハウゼン2004年3月頃ja.wikipedia.org
カールハインツ・シュトックハウゼン
2004年3月頃
ja.wikipedia.org

その後マレーネ・ディートリッヒの音楽スタッフとして参加しサウンドマンとして商業音楽家としてスタートを切った。
当時から電子音楽の可能性の熱心な信奉者であり、驚くべき電子的な音響効果を生み出すことのできる人物だった。

しかし、「大きな金属製の容器や他の工業製品をパーカッション楽器として用いる」といった、従来の音や自然音を混ぜ合わせて型にはまらない効果を与えることも彼はすでによく知っていた。

永遠のヒロイン、マレーネ・ディートリッヒ出典:suwiun3.seesaa.net
永遠のヒロイン、マレーネ・ディートリッヒ
出典:suwiun3.seesaa.net

【ちょこ豆】
マレーネ・ディートリッヒ
ドイツ出身の女優・歌手。
本名はマリー・マグダレーネ・ディートリッヒ(Marie Magdalene Dietrich)であるが、彼女はファーストネームとミドルネームを合わせて1つの名前としている事で現在良く知られている。
つまりMarie Magdaleneの紫文字部分を合わせ、マレーネ・ディートリッヒ(Marlene Dietrich)とした。

彼はマルチトラック録音の可能性を引き出した、ヨーロッパを代表するプロデューサーの一人である。

それは単なるギミック以上のものであり、歌詞や楽曲にドラマチックな効果を与えることに大きく寄与した。

彼はミキシングの際にしばしば粗野とも思えるような音楽的効果や「音と空白との対比」を好んだ。

最も優れた功績とは、その当時の商業的なポップ・ロック界をすっかり埋め尽くしていた、なめらかで心地よいばかりで退屈な音楽に対して、あからさまに反旗を翻したということである。

プランクはエコー、リバーブ、他の電子音、ミックス音、音の均一化や編集、テープを使った効果等を既成概念に捕われること無くに組み合わせて用いた。

リー・ペリー(リー・スクラッチ・ペリー)のようなジャマイカ音楽の先駆者による作品に影響を受けたと思われるが、確かにこれらのレゲエやダブの制作技術に端緒を見出せるような音楽スタイルの革新の流れに適応できたヨーロッパで最初のプロデューサーの一人であったと思われる。

プランクは

(特にドラム音についてだが)「激しく重みに逆らうがごとき音」

1970年代におけるロック音楽の録音を席巻した

「重く鳴り響くドラム音」

といった、非常に「生演奏」に近い音を生み出す有名なプロデューサーの一人であった。

プランクの作りだす開放感のあるガランガランと鳴り響くドラムとパーカッションの音は疑うまでもなくスティーブ・リリーホワイトやヒュー・パジャム 、 ニック・ローニーのようなプロデューサー・エンジニアに深い影響を与えた。

1970年代イギリスの音楽プレスによって「クラウト・ロック」と見下されていた彼の技術はドイツのプログレッシブ・ロックや実験音楽の世界において、レコーディング現場のプロデューサーやエンジニアという重要な地位に就いていた。

ドイツの有名なクラスターのメンバーであるディーター・メビウスハンス・ヨアヒム・ローデリウス(レデリウス)との交友は1970年に始まりプランクが亡くなるまで続いた。

ローデリウス(左)とメビウス(右)出典:www.ntticc.or.jp
ローデリウス(左)とメビウス(右)
出典:www.ntticc.or.jp

彼の業績は音楽に意欲的なミュージシャンやエンジニアに影響を及ぼしている。

そのもっとも著名な例デヴィッド・ボウイブライアン・イーノである。

ボウイとイーノは1970年代末の「ベルリン三部作」である『ロウ、『ヒーローズ』、『ロジャー』というアルバムを共に制作した。

イーノ(左)とボウイ(右)
イーノ(左)とボウイ(右)

ボウイの歌である「ヒーローズ」は感動的でドラマチックな効果を高めるためにリードボーカルをマルチトラック録音されたシンセサイザーとフィードバック・ギターの反響する背後のトラック音に対応させている。

ボウイや(特に)イーノを経由する形で、1970年代末から1980年代におけるニュー・ウェイヴに大きな影響を与えた。

またイーノはディーヴォのアルバムをプロデュースし、トーキング・ヘッズデヴィッド・バーンと実りのあるコラボレーションを行い、アイルランドのバンドU2と長い期間に渡り成功したパートナーシップを築くこととなった。

彼はディーター・メビウスと組んでスタジオ・アルバムを制作している。そのアルバムは『Ludwig’s Law』である。

1980年代、プランクは新しい世代のエレクトリック・ポップとニュー・ウェイヴのアーティストに大人気となっていた。

スコーピオンズClannadキリング・ジョークといったアーティストとポップやロックの作品制作にも参加した。

プランクの最後の仕事は、ユーリズミックスの「リベンジ(Revenge)・ツアー」と題されたコンサートをレコーディングすることだった。

ケルンにある彼のスタジオは、彼の死後は妻のクリスタ・ファストと息子によって存続され、Phewのソロ・アルバム(『Our Likeness』)などの作品を産み出したが、2006年6月のクリスタの死と共に30年余にわたる歴史を閉じることになった。

抜粋:http://go.ascii.jp/dwg(wikipedia)より

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