【今日の歴史】798年8月17日の事【清水寺は誰が造った?】

【今日の歴史】798年8月17日の事【清水寺は誰が造った?】

坂上田村麻呂が清水寺を建立

798年(延暦17年7月2日)8月17日 - 坂上田村麻呂が清水寺を建立
798年(延暦17年7月2日)8月17日 – 坂上田村麻呂が清水寺を建立

清水寺(きよみずでら)
京都府京都市東山区清水にある寺院。
山号音羽山
本尊千手観音
開基(創立者)は延鎮である。
もとは法相宗に属したが、
現在は独立して北法相宗大本山を名乗る。
西国三十三所観音霊場の第16番札所である。

概要
清水寺は法相宗(南都六宗の一)系の寺院で、広隆寺、鞍馬寺とともに、平安京遷都以前からの歴史をもつ、京都では数少ない寺院の1つである。
また、石山寺(滋賀県大津市)、長谷寺(奈良県桜井市)などと並び、日本でも有数の観音霊場であり、鹿苑寺(金閣寺)、嵐山などと並ぶ京都市内でも有数の観光地で、季節を問わず多くの参詣者が訪れる。
また、修学旅行で多くの学生が訪れる。
古都京都の文化財としてユネスコ世界遺産に登録されている。

清水寺境内案内図
清水寺境内案内図

清水寺の宗旨は、当初は法相宗で、平安時代中期からは真言宗を兼宗していた。
明治時代初期に一時真言宗醍醐派に属するが、明治18年(1885年)に法相宗に復す。
昭和40年(1965年)に当時の住職大西良慶が北法相宗を立宗して法相宗から独立した

創建伝承 清水寺の創建については、『群書類従』所収の藤原明衡撰の『清水寺縁起』、永正17年(1520年)制作の『清水寺縁起絵巻』(東京国立博物館蔵)に見えるほか、『今昔物語集』、『扶桑略記』の延暦17年(798年)記などにも清水寺草創伝承が載せられている。これらによれば、草創縁起は大略次の通りである。

宝亀9年(778年)、大和国興福寺の僧で子島寺で修行していた賢心(後に延鎮と改名)は、夢のお告げで北へ向かい、山城国愛宕郡八坂郷の東山、今の清水寺の地である音羽山に至った。

金色の水流を見出した賢心がその源をたどっていくと、そこにはこの山に篭って滝行を行い、千手観音を念じ続けている行叡居士(ぎょうえいこじ)という白衣の修行者がいた。

年齢200歳になるという行叡居士は賢心に「私はあなたが来るのを長年待っていた。自分はこれから東国へ旅立つので、後を頼む」と言い残し、去っていった。

行叡は観音の化身であったと悟った賢心は、行叡が残していった霊木に千手観音像を刻み、行叡の旧庵に安置した。

これが清水寺の始まりであるという。

その2年後の宝亀11年(780年)、鹿を捕えようとして音羽山に入り込んだ坂上田村麻呂(758年 – 811年)は、修行中の賢心に出会った。

田村麻呂は妻の高子の病気平癒のため、薬になる鹿の生き血を求めてこの山に来たのであるが、延鎮より殺生の罪を説かれ、観音に帰依して観音像を祀るために自邸を本堂として寄進したという。

後に征夷大将軍となり、東国の蝦夷平定を命じられた田村麻呂は、若武者と老僧(観音の使者である毘沙門天と地蔵菩薩の化身)の加勢を得て戦いに勝利し、無事に都に帰ることができた。

延暦17年(798年)、田村麻呂は延鎮(もとの賢心)と協力して本堂を大規模に改築し、観音像の脇侍として地蔵菩薩と毘沙門天の像を造り、ともに祀った、という。

以上の縁起により、清水寺では行叡を元祖、延鎮を開山、田村麻呂を本願と位置づけている。

重要文化財

国宝
本堂 附:厨子3基 文化財保護法第2条に基づき、建物とともに清水寺境内地も1993年9月1日付けで国宝に追加指定されている。

重要文化財

木造千手観音坐像(奥の院本尊)
木造十一面観音立像 – 本堂本尊の十一面千手観音立像とは別個の像である。
木造伝・観音菩薩・勢至菩薩立像(もと阿弥陀堂安置)
木造大日如来坐像(もと真福寺大日堂安置)
木造毘沙門天立像(塔頭慈心院所有)
渡海船額(末吉船図3・角倉船図1)4面
板絵朝比奈草摺曳図(伝・長谷川久蔵筆) 京都市内の社寺に残る大絵馬では最古のもので、寛永6年(1629年)の旧本堂炎上の際、これ1点のみ焼け残ったもの。天正20年(1592年)の奉納銘があり、筆者は長谷川等伯の子・久蔵とされている。
鉄鰐口(もと阿弥陀堂所在)
梵鐘 – 文明10年(1478年)銘

重要文化財の仏像のうち、千手観音坐像は秘仏、その他の像は宝蔵殿に収蔵され非公開である。

本堂本尊の秘仏千手観音像は指定文化財ではない。

坂上 田村麻呂
坂上 田村麻呂

坂上 田村麻呂
坂上 田村麻呂(さかのうえ の たむらまろ)は、平安時代の武官。
名は田村麿とも書く。

正三位、大納言兼右近衛大将兵部卿。

勲二等。

死後従二位を贈られた。

中央で近衛府の武官として立ち、793年に陸奥国の蝦夷に対する戦争で大伴弟麻呂を補佐する副将軍の一人として功績を上げた。

弟麻呂の後任として征夷大将軍になって総指揮をとり、801年に敵対する蝦夷を降した。

802年に胆沢城、803年に志波城を築いた。

810年の薬子の変では平城上皇の脱出を阻止する働きをした。

平安時代を通じて優れた武人として尊崇され、後代に様々な伝説を生み、文の菅原道真と、武の坂上田村麻呂は、文武のシンボル的存在とされた。

坂上氏は渡来人である阿知使主の子孫であり、田村麻呂の祖父の犬養、と苅田麻呂ともに武をもって知られた。

子に大野、広野、浄野、正野、滋野、継野、継雄、広雄、高雄、高岡、高道、春子がいた。

春子は桓武天皇の妃で葛井親王を産んだ。

滋野、継野、継雄、高雄、高岡は「坂上氏系図」にのみ見え、地方に住んで後世の武士のような字(滋野の「安達五郎」など)を名乗ったことになっており、後世付け加えられた可能性がある。

子孫は京都にあって明法博士や検非違使大尉に任命された。

抜粋
http://ul.lc/4v9p(wikipedia)
http://ul.lc/4v9q (wikipedia)より

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