【今日の歴史】1890年7月27日の事【ゴッホの死因と耳切り】

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VanGogh-starry night星月夜
(ほしづきよ,The starry night, オランダ語: De sterrennacht)
出典:Wikimedia Commons(USA.PD)

ゴッホがピストルで自殺を謀る

フィンセント・ウィレム・ファン・ゴッホ
Vincent Willem van Gogh
(1853年3月30日 – 1890年7月29日)
オランダ出身でポスト印象派(後期印象派)の画家
主要作品の多くは1886年以降のフランス居住時代
特にアルル時代(1888年 – 1889年5月)
サン=レミの精神病院での療養時代
(1889年5月 – 1890年5月)
に制作された。

彼の作品は感情の率直な表現大胆な色使いで知られ、ポスト印象派の代表的画家である。
フォーヴィスムやドイツ表現主義など、20世紀の美術にも大きな影響を及ぼした。

概要
7月27日の日曜日の夕方、オーヴェルのラヴー旅館に、怪我を負ったゴッホが帰り着いた。

ラヴー旅館に呼ばれてゴッホの容態を見たガシェ医師は、オーヴェルに滞在中だった医師マズリとともに傷を検討した。

傷は銃創であり、左乳首の下、3、4センチの辺で紫がかったのと青みがかったのと二重の暈に囲まれた暗い赤の傷穴から弾が体内に入り、もう外への出血はなかったという。

両医師は、弾丸が心臓をそれて左の下肋部に達しており、移送も外科手術も無理と考え、絶対安静で見守ることとした。

あ~。
今なら摘出可能だね。。。

ガシェ医師は、この日のうちに弟テオ宛

本日、日曜日、夜の9時、使いの者が見えて、令兄フィンセントがすぐ来てほしいとのこと。
彼のもとに着き、見るとひどく悪い状態でした。
彼は自分で傷を負ったのです。

という手紙を書いた。

翌28日の朝、パリで手紙を受け取ったテオはオーヴェルのフィンセントのもとに急行した。

テオが着いた時点ではフィンセントは話をすることができたが、29日午前1時半フィンセントは息を引き取った(当時37歳)。

7月30日葬儀が行われ、テオのほか、ガシェ医師ベルナール、その仲間シャルル・ラヴァルや、タンギーなど、12名ほどが参列した。

テオは8月1日、パリに戻ってからヨー宛の手紙に

オーヴェルに着いた時、幸い彼は生きていて、事切れるまで私は彼のそばを離れなかった。
……兄と最後に交わした言葉の一つは、『このまま死んでゆけたらいいのだが』だった。

と書いている。

Vincent-van-gogh-echo-pontoisien-august7-1890ゴッホの死を報ずる新聞記事(1890年8月7日)
出典:Wikimedia Commons(USA.PD)

私考だが、「彼は自分で傷を負ったのです」これは本人のみが知りうる事を医師が強調している。
ゴッホ自身は事実を伝えたが、医師が事実を曲げた。
或いは、ゴッホ自身が真実を告げなかった、事実を告げたが公表させたくなかった、とも受け取れる。 
そして、「このまま死んでゆけたらいいのだが」と弟テオと会話を交わしている事。
コレ以上他人に迷惑をかけたくないまたは、事実を闇に持って行けることに対する安堵、とも受け取れる。
私としては、下記の「スティーヴン・ナイフェとグレゴリー・ホワイト・スミス」の説を支持したい。

死因の謎
ゴッホの死因については、一般に自殺であると考えられているが、銃を撃った場所、経緯などは明らかになっていない。

2011年にゴッホの伝記を刊行したスティーヴン・ナイフェグレゴリー・ホワイト・スミスは、

ゴッホと一緒にいた少年らが、持っていた銃を誤射させてゴッホを撃ってしまい、ゴッホは少年らをかばって、このことを言わなかったのではないか。

という新説を唱えた。

ゴッホ美術館は、新説は興味深いが依然疑問が残るとしている。

疑問が残らない説など多分出てこないと、思うのだが。。。
通説自体疑問だらけだw

弟テオ
ゴッホの弟テオ(テオドルス・ファン・ゴッホ)は、同年(1890年)8月フィンセントの回顧展を実現しようと画商ポール・デュラン=リュエル協力を求めたが、これを断られて画廊での展示会は実現せず9月22日から24日までテオの自宅アパルトマンでの展示に終わった。

一方、9月12日頃、テオはめまいがするなどと体調不良を訴え、同月のある日、突然麻痺の発作に襲われて入院した。

10月14日精神病院に移り、そこでは梅毒の最終段階麻痺性痴呆と診断されている。

11月18日、ユトレヒト近郊の診療所に移送され療養を続けたが、1891年1月25日兄の後を追うように亡くなり、ユトレヒトの市営墓地に埋葬された。

なお、フィンセントの当初の墓地(正確な位置は現在では不明である)は15年契約であったため、1905年6月13日ヨーガシェ医師らによって、同じオーヴェルの今の場所に改葬された。

1914年4月ヨー(テオの奥さん、ヨハンナ・ボンゲル、通称ヨー)がテオの遺骨をこの墓地に移し、フィンセントとテオの墓石が並ぶことになった。

Auvers-sur-Oise Cimetière 977オーヴェルにあるフィンセント(左)とテオ(右)の墓
出典:Wikimedia Commons(CC)

耳切りと発作
ゴッホが起こした「耳切り事件」や、その後も引き続いた発作の原因については、次のようなものを含め、数多くの仮説がある。

数え方により100を超えるらしい。。。
当たり前ではあるがw

このうち、癲癇(てんかん)とする説統合失調症とする説最も有力である。

しかし、医学的・精神医学的見解は混沌としており、確定的診断を下すには慎重であるべきとの指摘がされている。

癲癇(てんかん)説
アルルの病院の上層部による診断「全般的せん妄を伴う急性躁病」であったが、若いレー医師だけが「一種の癲癇」と考え、ゴッホもその説明に納得している。

当時、伝統的に認められてきた癲癇とは別に、発作と発作の間に長い安定期間があり比較的普通の生活を送ることができる類型があること、日光、アルコール、精神的動揺などが発作の引き金となり得ることなどが分かってきていた。

ペロン医師も、レー医師の診断を支持した。

統合失調症説
カール・ヤスパース、癲癇のうち強直間代発作における典型的症状である強直痙攣が見られないことから、癲癇説に疑問を呈し、統合失調症か麻痺であるとした上で、2年間も発作に苦しみながら判断能力を失わなかったことから見て統合失調症との判定に傾いている。

梅毒性麻痺説
ゴッホはアントウェルペン滞在中梅毒と診断されて水銀剤治療と座浴療法を受けている。

ランゲ・アイヒバウムは、「急性梅毒性分裂・癲癇様障害」との診断を下している。

メニエール病説
メニエール病とは内耳の病気で、ひどい目まい、吐き気、強い耳鳴り、難聴を伴うものである。

ゴッホは、

目まいに襲われている間、痛みと苦しみの前に自分が臆病者になってしまった思いだ。

と書いており、こうした手紙の詳細な調査からメニエール病の症状に当てはまるとする研究がある。

アブサン中毒説
ゴッホはアントウェルペンないしパリ時代からアブサンを多飲していたが、アブサンには原料のニガヨモギに含まれるツジョンという有毒成分があり、振戦せん妄、癲癇性痙攣、幻聴を主症状とするアルコール中毒を引き起こす。


アブサンとは
アブサン(absinthe)は、フランス、スイス、チェコ、スペインを中心にヨーロッパ各国で作られている薬草系リキュールの一つ。

ニガヨモギ、アニス、ウイキョウなどを中心に複数のハーブ、スパイスが主成分。

1981年にWHOが、ツヨン(幻覚などの向精神作用が引き起こすとされる成分)残存許容量が10ppm以下(ビター系リキュールは35ppm以下)なら承認するとしたため、製造が復活。

禁止国であったスイスでも2005年3月1日に正式に解禁された。

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サン=レミの精神病院に入院中、ゴッホが絵具のチューブの中身を飲み込んだことがあるが、これは絵具の溶剤であるテレビン油がツジョンと性質が似ているためであるという意見も発表されている。

だとすると、ゴッホはかなりの博学者だったのでは?

しかしこれを「耳切り事件」のような行動と結びつけるには難点もある。

急性間欠性ポルフィリン症説
ポルフィリン誘導体の代謝異常により、間欠的な腹痛、悪心、嘔吐を伴い、光過敏症となり、神経症状を引き起こすとされている、奇病である。

この説に対しては遺伝的な説明が不十分との意見もある。

病気と芸術との関係
発作の合間の極めて冷静な状態で制作していたことから、彼の芸術が「狂気」の所産であるとはいえないという意見が多い。

その状態を参考にしたかもしれないけどね。

ただ、このページの事を踏まえてゴッホの絵画を鑑賞すると、また違ったものが見えてくるかも知れないですね。
芸術とは、他人の評価ではなく、自分の中でどう評価するかです。
例え、無銘の絵画や音楽であろうと、自分が芸術だと評価
できればそれは、「あなたが見つけた芸術」なのです。
自分の感性に自身を持って生きて行きましょうね。

抜粋:http://ul.lc/4thk(wikipedia)より

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