【今日の歴史】1963年3月21日の事【アルカトラズ閉鎖】

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アルカトラズの全景
アルカトラズの全景

アルカトラズ刑務所閉鎖

アルカトラズ島
アメリカ合衆国カリフォルニア州のサンフランシスコ湾内
サンフランシスコ市から2.4kmのところに浮かぶ
面積0.076km²の小島である。

昔は灯台、軍事要塞、軍事監獄、そして1963年まで連邦刑務所として使用され、ザ・ロック監獄島とも呼ばれている。

1972年国立レクリエーション地域となり、1976年及び1986年ランドマークの指定を受けた。

現在、この島は、アメリカ合衆国国立公園局が運営するゴールデンゲート国立レクリエーション地域の歴史地区となっており、一般観光客に公開されている。

観光客は、サンフランシスコのフィッシャーマンズワーフ近くのピア33からフェリーで島に渡ることができる。

カモメを始めとした海鳥の生息地としても知られる。

軍事要塞時代
1775年、スペイン人のフアン・デ・アヤラがこの島を発見し、サンフランシスコ湾の海図を作るときにこの島に “La Isla de los Alcatraces” と名づけた。

スペイン語で「ペリカンの島」という意味である。

これがやがて英語風に短縮されて “Alcatraz” となった。

メキシコによるカリフォルニア統治時代の終わりころ、メキシコ政府から、ジュリアン・ワークマンという帰化メキシコ人に、島に灯台を建設する条件で島の所有名義が譲渡された記録がある。

米墨戦争(1846年 – 1848年)中にアメリカがカリフォルニアの支配権を得ると、ジョン・C・フレモントが、「カリフォルニア総督」としての資格でこの無人島を購入した。

しかし、1850年、ミラード・フィルモア米大統領の命により、メキシコ政府の所有物はアメリカ政府に承継されたとの根拠に基づき、島は軍事目的のために取り上げられた。

アルカトラズ島(1850年)
アルカトラズ島
(1850年)

このため、フレモントによる島の購入は無意味になってしまい、フレモント及びその相続人から政府に対して何度も訴訟が起こされ、法的紛争は1890年代まで続いた。

1848年、シエラネバダ山脈の麓で金が発見されてゴールドラッシュが始まり、サンフランシスコは多くの船が寄港する重要な地となり、灯台が至急必要になった。

1850年の連邦議会予算に、アルカトラズ島を含む太平洋岸の八つの灯台建設が盛り込まれた。

1852年に、島で最初の恒久的建造物となる灯台ができた。

1853年には、ゼラス・B・タワー中尉が、アルカトラズ島をサンフランシスコ湾の守りとするための要塞化工事に着手した。

南北戦争(1861年 – 1865年)の直前までに、86門の大砲が島を巡らすように設置された。
南北戦争中は、アルカトラズ島は南部連合のサンフランシスコ湾への侵入を防ぐ役割を果たした。

南北戦争が終わると、島に設置された旧式の大砲は時代遅れになってしまったため、徐々に撤去された。
それに代わって、防弾壁が島を取り囲むように建てられた。
内部には弾薬庫などが設けられていた。

軍事刑務所として
南北戦争の前後
から、島は監獄としての役割も果たすようになった。

地下の留置場に、島内や周囲の砦から送られた脱走兵、窃盗犯、酔っ払いなどが収容された。

1861年、アルカトラズ島は太平洋省の軍事刑務所として正式に指定された。
南北戦争中には、反逆罪で捕らえられた南部連合派のカリフォルニア市民もここに収監された。

収容者は増加し、1863年ころロウアー・プリズン (Lower Prison) と呼ばれる刑務所棟が建てられ、19世紀末ころまで平均100人を収容していた。

アメリカの西部開発に伴って、アメリカ政府とアメリカン・インディアンとの紛争が多発し、反乱罪などでアルカトラズ島に送られたアメリカン・インディアンも多かった。

落書き
落書き

米西戦争(1898年)の時は、フィリピンへの遠征で熱帯病に罹患した帰還兵がアルカトラズ島の病院に収容されたり、身柄を拘束された兵士が多数収監されたりした。

新たな刑務所棟が必要となり、1900年、閲兵場にアッパー・プリズン (Upper Prison) が建設された。

ロウアー・プリズンは囚人の運動場となったが、1902年火事でロウアー・プリズンは危うく焼けるところであった。

1906年サンフランシスコ地震で街が壊滅し、市内の刑務所に火災の危険が迫ると、そこにいた一般の受刑者176人が急遽アルカトラズ島に移された。

このころから島は本格的な刑務所へ転換することとなり、今までの歩兵に代わり軍看守が配置され、1907年には島は「アルカトラズ島・合衆国軍事刑務所太平洋支所」との指定を受けた。

砦は取り壊され、1912年3階建ての大型監房棟が島中央にでき、合計600の監房、厨房、食堂、病院、運動場、管理事務所などを備えた大刑務所となった
発電所も建設された。

3階建ての監房
3階建ての監房

1915年、島は「合衆国矯正兵舎太平洋支所」と改名され、教育と更生に力点が置かれるようになった。
受刑者は、軍事訓練、矯正教育、職業補導などを受けた上、刑期満了後の多くは軍務に復帰した。

処遇は開放的で、夜間は監房に収容されるが、昼間は各自の仕事、授業、レクリエーションで時間を過ごした。

規律違反の場合は独房に収監されたり鎖につながれたりした。

しかし、立地上、島内への水と食糧の供給にコストがかかったため、1930年代初頭大恐慌もあって、軍は1933年アルカトラズ島の刑務所を閉鎖することとなった。

連邦刑務所時代

3階建ての監房映画やドラマで出てくる場所
3階建ての監房
映画やドラマで出てくる場所

島は軍から連邦司法省刑務所局に移管され、刑務所局は1934年7月1日アルカトラズ連邦刑務所を開設した。

大恐慌や禁酒法により1920年代末から1930年代にかけて組織犯罪が激化し、治安当局は、犯罪に対する強い姿勢を打ち出す必要があり、アルカトラズ島はそのために「社会の敵」である凶悪犯を収容する施設という役割を担った。

1934年4月から、脱走対策を万全にするため、軍事刑務所の設備に手が加えられた。

格子は柔らかい素材から、道具を使っても破壊できないものに取り替えられ、受刑者が逃げ隠れできる可能性のあるトンネル等はすべてセメントで埋められた。

監房を取り巻くように、看守が武器を持って監視できるガン・ギャラリーが、受刑者の手が届かないよう高いところに設けられた。

ガン・ギャラリーは鉄柵で保護され、すべての鍵はその中で管理されていた。

食堂の天井には催涙ガスの噴射装置が取り付けられ、ガン・ギャラリー又は外部の監視場所からの遠隔操作で噴射できるようになっていた。

全部で600近くの監房があったが、どの監房も建物の外壁とは接しないようになっていた

この刑務所に収容されていた人員は、常時およそ260人から275人であり、連邦刑務所全体の収容人員から見れば1%にも満たなかった

受刑者にとっては、必ず1人につき一つの監房が与えられることなど、ここの収容環境は他の連邦刑務所と比べて悪くなかったため、アルカトラズ刑務所への移送を希望する受刑者すらいた。

アルカトラズの監房
アルカトラズの監房

アルカトラズ島に服役した受刑者の中には、有名な者も多い。

ロバート・フランクリン・ストラウドは、殺人罪でカンザス州レブンワースの刑務所に服役中に看守を殺して死刑判決を受けた後、嘆願により1920年終身刑に減刑され、1942年アルカトラズ連邦刑務所に移送され、1959年他所へ移送されるまでの17年間をここで過ごした。

レブンワース刑務所でカナリアを飼ってその病気について研究し、本も書いていたことから「バードマン」(鳥人間)というあだ名で知られたが、同刑務所で、研究の名目で手に入れた道具を酒の密造に使おうとしていたことが発覚するなどしてカナリアの飼育が禁止され、アルカトラズ時代には鳥を飼ってはいなかった。

著名なギャングアル・カポネ(過去記事)ジョージ・“マシンガン”・ケリーなどもここに収容されていた。

ジョージ・“マシンガン”・ケリー
ジョージ・“マシンガン”・ケリー

そのほか、他の刑務所で規則を遵守しない者、暴力的行為を行った者、脱走の危険があると考えられた者などがここに送られた。

刑務所の中では、食糧、衣服、居住、医療の四つは権利として与えられていたが、それ以外のもの仕事、面会、図書室の利用、レクリエーションなどはすべて「特典」であって、努力によって獲得するものとされた。

連邦刑務所時代には、14回の脱獄事件が起き、それに関与した受刑者は36人である(うち2人は2回脱走を試みた者)。

このうち23人は身柄を確保され、6人は射殺され、2人は溺死した。

5人は行方不明であるが、溺死したものと推測されている。

1946年3月に起きた脱獄事件は「アルカトラズの戦闘」として知られる。

6人の受刑者が看守を襲って武器と監房の鍵を手に入れたが、運動場への鍵を見付けることができず脱出に失敗し、当局との銃撃戦の末、2日後に制圧された。

6人のうち3人は死体で発見され、残り3人は裁判にかけられてうち2人はガス室に送られた。

この事件で看守も2人が死亡し、約18人が負傷した。

1962年6月11日フランク・モリスアングリン兄弟が監房から消えるという有名な脱獄事件が発生した。

手製のドリルで通気孔が広げられており、夜の見回り時に気付かれないよう、ベッドには作り物の人間の頭が置かれていた。

壁の後ろのパイプなどを伝って建物から脱出し、島の北東部から泳ぎ出したと見られているが、島外にたどり着いたかは不明である。

1962年の脱獄事件で壁に開けられていた穴
1962年の脱獄事件で
壁に開けられていた穴

この脱獄劇は、後にクリント・イーストウッド主演の映画『アルカトラズからの脱出』に描かれた。

1963年3月21日、財政的理由により連邦刑務所は閉鎖された。

修繕・維持費用だけで300万ドルから500万ドルかかったとされ、それに加え日々の運営費用も他の連邦刑務所と比べ高額であった(1959年当時、1人当たりのコストはアトランタ刑務所で3.00ドルであったのに対しアルカトラズでは10.10ドルに上った)。

これは、食糧や水の輸送供給に費用がかかったためである。

抜粋:http://ul.lc/5fny(wikipedia)より

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