池田屋事件がおこる
池田屋事件
幕末の1864年7月8日(元治元年6月5日)に、
京都三条木屋町(三条小橋)の旅館・池田屋
に潜伏していた長州藩・土佐藩などの尊王攘夷派志士を、
京都守護職配下の治安維持組織である
新選組(テロ対策ユニット)が襲撃した事件。
池田屋事変、池田屋騒動ともいわれている。
近藤勇は書面で洛陽動乱(らくようどうらん)と名づけている。
発端
幕末の京都は政局の中心地となり、尊王攘夷(そんのうじょうい)・勤王(きんのう)等の政治思想を持つ諸藩の浪士が潜伏して活動していた。
尊王攘夷と勤王
尊王攘夷(そんのうじょうい)、王を尊び、外敵(今回の場合は外国人)を斥けようとする思想。
江戸時代末期(幕末)の水戸学や国学に影響を受け、維新期に昂揚した政治スローガンである。
尊王は天皇を敬う。攘夷は外国人排斥思想。
勤王(きんのう)、王や天皇に忠義を尽くすこと。
尊王とほぼ同義。
この頃の状況を端的にいえば、孝明天皇は外国嫌いなので鎖国して外国勢を追い払いたい(攘夷)、しかし徳川幕府は開国しようとしている。
何故天皇に逆らって幕府は勝手なことをするんだそんな幕府はいらん倒してしまえ!(尊皇攘夷派、略して尊攘派)。
それらの暴動やテロ行為を未然に防ぐテロ対策ユニットが新選組。
一般的に(佐幕派=幕は幕府、佐はたすけるの意)と思われがちだが、近藤勇自体が尊王佐幕であることでもわかるように新選組自体は治安維持と言う職務を全うしただけだと思われる。
(この時代でいい意味で冷めていた組織かもね)
逆に、熱くなりすぎてしまったのが尊攘派。
京都大火や天皇拉致など途中から尊王ではない事をし始める。
しかしこれらは新選組の倒幕側(尊攘派)を捕らえる為の陰謀だとする説もある。
長州藩は会津藩と薩摩藩による宮中クーデターである八月十八日の政変で失脚し、朝廷では公武合体派が主流となっていた。
尊王攘夷派は勢力挽回を試みており、京都守護職は新選組を用いて市内の警備や捜索を行わせた。
5月下旬頃、新選組諸士調役兼監察の山崎烝・島田魁らによって四条小橋上ル真町で炭薪商を経営する枡屋(古高俊太郎)の存在を突き止め会津藩に報告。
武器や長州藩との書簡等が発見された。
古高を捕らえた新選組は、土方歳三の拷問により古高を自白させた。
自白内容は、
祇園祭の前の風の強い日を狙って御所に火を放ち、その混乱に乗じて中川宮朝彦親王を幽閉し、一橋慶喜・松平容保らを暗殺し、孝明天皇を長州へ連れ去る。
というものであった。
さらに探索によって、長州藩・土佐藩・肥後藩等の尊王派が古高逮捕をうけて襲撃計画の実行・中止について協議する会合が池田屋か四国屋に於いて行われる事を突き止めた。
事件発生
亥の刻(22時頃)すぎ、捜索の末に近藤隊は池田屋で謀議中の尊攘派志士を発見した。
近藤隊は数名で突入し、真夜中の戦闘となった。
20数名の尊攘派に対し当初踏み込んだのは近藤勇・沖田総司・永倉新八・藤堂平助の4名で、残りは屋外を固めた。
屋内に踏み込んだ沖田は奮戦したが、戦闘中に病に倒れ戦線離脱した。
また1階の藤堂は汗で鉢金がずれたところに太刀を浴びせられ、額を斬られ血液が目に入り戦線離脱した。
襲撃を受けた宮部鼎蔵ら志士達は応戦しつつ、現場からの脱出を図った。
裏口を守っていた安藤早太郎・奥沢栄助・新田革左衛門達のところに土佐藩脱藩・望月亀弥太ら浪士が脱出しようと必死で斬りこみ逃亡。
これにより奥沢は死亡し、安藤・新田も1ヶ月後に死亡した。
望月は負傷しつつも長州藩邸付近まで逃げ延びたが、追っ手に追いつかれ自刃した。
新選組側は一時は近藤・永倉の2人となるが土方隊の到着により戦局は新選組に有利に傾き、方針を「斬り捨て」から「捕縛」に変更。
9名討ち取り4名捕縛の戦果を上げた。
会津・桑名藩の応援は戦闘後に到着した。
土方は手柄を横取りされないように、一歩たりとも近づけさせなかったという。
この戦闘で数名の尊攘派は逃走したが、続く翌朝の市中掃討で会津・桑名藩らと連携し20余名を捕縛した。
この市中掃討も激戦となり、会津藩は5名、彦根藩は4名、桑名藩は2名の即死者を出した。
翌日の正午(夜のうちに帰ったのでは闇討ちの恐れがあるため夜が明けるまで待機していた)、新選組は壬生村の屯所に帰還した。
沿道は見物人であふれていたという。
桂小五郎(後の木戸孝允)は、会合への到着が早すぎたので、一旦池田屋を出て対馬藩邸で大島友之允と談話していたため、難を逃れた。
談話中に外の騒ぎで異変に気付いた小五郎は、現場に駆けつけようとしたが大島友之允に制止されたため思い留まったと小五郎の回想録『桂小五郎京都変動ノ際動静』には記されている。
本人の回想とは別に、京都留守居役であった乃美織江は手記に
桂小五郎議は池田屋より屋根を伝い逃れ、対馬屋敷へ帰り候由…
と書き残している。
豆知識
「京都大火計画」「松平容保暗殺」「天皇拉致」などの志士側の陰謀は新選組による捏造(でっち上げ)だとする説もある。
なぜならば、尊王と真逆の行為を行っているため。
池田屋事件についても幕府側の記録にはあるものの志士側の記録には一切なく、『木戸孝允日記』にも、このとき池田屋で計画されていたのは新選組に逮捕監禁されている仲間(古高俊太郎)を救うための会合としか記されていない。
証拠と言えるものは土方に壮絶な拷問を受け、無理矢理自白させられた古高が語ったとされる発言のみで、その古高も早々に処刑されており、客観的な証拠が乏しい。
新選組の実力行使正当化や尊王攘夷派の信用失墜を狙った冤罪の可能性がある。
桂の手記によると、池田屋での会合は古高捕縛後に急遽決定されたものなので、事前に新選組が場所を察知していたとは考えにくい。
永倉は「片っ端から」探索した旨述べており、また事件直前に祇園の井筒屋に新選組が探索を行った記録があるため、実際には会合場所がどこであるかは把握しておらず、多くの場所を探索していたと考えられる。
近藤の書簡によると池田屋に乗込んだのは、近藤、沖田、永倉、藤堂、近藤周平の5名ということになっている。
永倉の手記や、事件後の褒賞者名簿から推定すると、近藤、沖田、永倉、藤堂、奥沢、安藤、新田、谷万太郎、武田観柳斎、浅野薫の10名である。
抜粋:http://tiny.cc/trba0x(wikipedia)より
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