ビリー・ザ・キッド死す!
ビリー・ザ・キッド
Billy the Kid
(1859年11月23日 – 1881年7月14日)
アメリカ西部開拓時代のアウトロー、強盗。
弱きを助け強きをくじく義賊として
映画や小説で伝説的に描かれたことで、
西部劇の英雄として人気がある。
略歴
ニューヨークに生まれ西部のニューメキシコ州で育ったと言われる。
本名はウィリアム・ヘンリー・マッカーティ・ジュニア(William Henry McCarty, Jr.)とされるが、偽名としてヘンリー・アントリム(Henry Antrim)、ウィリアム・H・ボニー(William H. Bonney)という名前も知られている。
家族は母のキャサリーンとジョセフという兄(腹違いの弟という説もある)が一人いた。
父親は研究者の間でも諸説あり、よく分かっていない。
有名な二つ名以外の本名としてはウィリアム・H・ボニーの名がもっとも知られており、サインにも使われ州知事に恩赦を求めて本人が書いた手紙等が残っているほか、墓石にも刻まれている。
一般的な粗雑で無法者のイメージとは違ってビリー自身は達筆であり、母親からだと推察されるが良質な教育を受けたことを伺わせる。
南北戦争期でも特に知られたアウトローで、ワイアット・アープ、ジェシー・ジェイムズ等とならんで盛んに西部劇の題材となり、一つの時代を象徴するアイコンとして、アメリカでは現代でも非常に人気の高い人物である。
彼の激しく、短い生涯は作家達に主題を与え、まずはダイム・ノベルと呼ばれる三文小説が、そして劇が、時代が下ると映画がビリーの生涯をさまざまな伝説で彩ることとなる。
アウトローとして
12歳の時に、母親を侮辱した男を殺してアウトローとなったとされ、10代はじめに殺人を犯してから死ぬまでに21人を殺害した(メキシカンやインディアンは含まない)とされる。
実際は21人も殺害していないらしい。
アリゾナやテキサス、さらにメキシコ国境で牛泥棒、強盗や殺人を重ねた。
リンカーン郡でイギリス移民ジョン・タンストールの売店の用心棒となったが、商売敵との縄張り争いが拡大し、リンカーン郡戦争と呼ばれる騒動に発展、過失で4人を射殺し1880年12月に友人でもあった保安官、パット・ギャレットによって仲間と共に逮捕される。
1881年4月18日に刑務所を脱走。
このことが『ニューヨーク・タイムズ』で報じられ、有名となる。
死亡
1881年7月14日、ニューメキシコ州フォートサムナーにてギャレットに射殺される。
その時ビリーは丸腰で、寝室から食べ物を取りに部屋を出たところを闇討ちされたと言われる。
寸前に発した最期の言葉はスペイン語の
誰だ?
¿Quién es?
だとされている。
だが死の状況に不自然な点も多く、後に自分こそがビリー・ザ・キッドだったと名乗り出た人物などもいて、生存説も根強く残されている。
ビリーの墓石は度々洪水で押し流されたり盗難に遭ったりの災禍を経た後、現在の元の墓所と思われる場所に安置し直された。
墓石の前に設置された石碑には、このような墓碑銘が刻まれている。
Truth and History. 21 Men. The Boy Bandit King He Died As He Lived
真実と経歴。21人を殺した。少年悪漢王 彼は彼らしく生きて死んだ
— William H. Bonney “Billy the Kid”
射撃に関して
射撃と騎乗に関しては天賦のものがあったようです。
馬を疾駆させながら杭に止まった鳥を次々に打ち落としたり、空中に投げ上げた空き缶が地上に落ちる前に6発、弾倉が空になるまで撃ち当てることができた。
技術を賞賛する同僚のカウボーイの証言や世話になった家族の前で見事なロデオの腕前を見せた証言が残されている。
多くの目撃者が居た一例を挙げると、
ビリーがサムナー砦に潜伏していた時、ビリーが居たサロンに流れ者のカウボーイのジョー・グランドがやって来た。
ジョーは喧嘩っぱやく自慢の真珠のグリップの拳銃を抜きたがる危険な男だったが、ビリーはまず持ち味の人当たりの良さを発揮してジョーに拳銃を見せてくれるように頼み、残弾を確かめて初弾が空のシリンダーに当るように回しておいた(または弾を抜き取ってしまっていたとも)。
やがて口論になり、ビリーがサロンの入口に向かうとジョーはビリーの背に向けて引き金を引いた。
撃鉄が空のシリンダーを叩く音を聞くと、ビリーは振り返りながら抜き撃ちをし、ジョーの眉間を三発撃ち抜いた。
何事もなかったかのように鼻歌を歌いながら去っていくビリーの後に残された死体を確かめると、ほぼ同じ場所を撃ち抜いた弾痕はコイン一枚分ほどの大きさしかなかったという。
豆知識
西部劇によく出てくるコロコロと転がっている草の固まりは、ロシアアザミやタンブル・ウィード(回転草)、ハリヒジキと呼ばれる草で、オカヒジキ属(Salsola)のヒユ科の植物群の一つである。
アメリカでは1877年にサウスダコタ州バナム郡で発見され、外国産の雑草として米国農務省に報告された。
ロシアの農業者が輸入した種子の中に混ざって偶然に種子が持ち込まれ、それが広まったと考えられている。
乾燥地帯での家畜の飼料になるかも知れないとして、栽培が試みられもした。
でたよ。。。
「かもしれない」輸入。
しかしこの草、アメリカ西部地方で大繁殖中!
燃えやすいため火災の元となったり、小型車並みの大きさのものも存在するらしく、邪魔w
そして、風で移動する間に20~25万個の種を撒き散らすため、繁殖を抑えられない状況らしい。
2011年6月25日、ティンタイプ(湿板写真)という方法で撮影された、ビリーの肖像写真がコロラド州デンバーで競売にかけられ、230万ドル(約1億8500万円)で落札された。
左利きであったという伝説も有名である。
残された写真では左に拳銃を差していたことに拠り、後に映画などでその伝説が定着した。
これは、実際には写真が裏焼きで裏返しになっていただけだという説、ビリーは小柄だったので女物の服を着ていたため、写真は裏焼きではなく、右前のボタンの位置から見て左利きであっているという説があり、議論は続いているらしいw
決着がつきそうにない。。。
いっその事決闘でw
その時代のアメリカ西部の無法者としては口が達者で、異様に親しみやすい態度の持ち主であったという。
修羅場の最中でも常に上機嫌な笑顔を浮かべて哄笑を発しながら人を殺したという。
ビリーを射殺したパット・ギャレットの本に拠れば、新聞ではビリーは反っ歯と言われているが、前歯がリスのように大きくて歯列全体が前にでているので、意識しないと、笑うつもりがないのに笑ったように見える地顔であったという。
私の好きなビリーの西部劇映画にはビリー・ザ・キッド 21才の生涯というものがある。
勿論、昔のビリー・ザ・キッドも好きですが。。。
好きなもの下に貼っておきます。
ヤングガン2はあまり好きではないので、貼りません!w
(一応、「ビリー・ザ・キッド 21才の生涯」公式の動画貼っておきますので、どぞw)
抜粋:http://tiny.cc/sgpk0x(Wikipedia)より