【今日の歴史】1901年4月29日の事【日本のスパイ】

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共産主義者、革命家としてリヒャルト・ゾルゲ。そして、諜報部員。出典:shinhito41.exblog.jp
共産主義者、革命家として
リヒャルト・ゾルゲ。
そして、諜報部員。
出典:shinhito41.exblog.jp

ゾルゲ事件

リヒャルト・ゾルゲを頂点とするソ連のスパイ組織
日本国内で諜報活動および謀略活動を行っていたとして、
1941年9月から1942年4月にかけて
その構成員が逮捕された事件。

この組織の中には、近衛内閣のブレーンとして日中戦争を推進した元朝日新聞記者の尾崎秀実もいた。

そして今日、その首謀者の一人が生まれた。。。

尾崎 秀実(おざき ほつみ)出典:ja.wikipedia.org
尾崎 秀実(おざき ほつみ)
出典:三省堂「画報日本近代の歴史12」より

尾崎 秀実(おざき ほつみ)

1901年(明治34年)4月29日 – 1944年(昭和19年)11月7日

日本の評論家・ジャーナリスト・共産主義者。
朝日新聞社記者、内閣嘱託、満鉄調査部嘱託職員を務める。

近衛文麿政権のブレーンとして、政界・言論界に重要な地位を占め、軍部とも独自の関係を持ち、日中戦争(支那事変)から太平洋戦争(大東亜戦争)開戦直前まで政治の最上層部・中枢と接触し国政に影響を与えた。

共産主義者、革命家としてリヒャルト・ゾルゲが主導するソビエト連邦の諜報組織「ゾルゲ諜報団」に参加し、スパイとして活動し、最終的にゾルゲ事件として1941年発覚し、首謀者の1人として裁判を経て死刑に処された。

先に書いておきますが、この事件は主要人物の写真が殆ど無い。
故意に消されている可能性が高いです。
未だに謎が多い事件なので、ご理解ください。
映画も制作公開されましたが、どこまでが真実なのでしょうか?
しかし、あれは一つの解なのかも知れません。

共産主義のシンパ
報知新聞記者の父・秀真(ほつま)の子として東京芝伊皿子町で生まれる。

5ヵ月後、父が台湾総督府の後藤新平の招きを受け、台湾日日新聞社漢文部主筆として赴任したことから、台湾で育つ。
台北中学、一高を経て、東京帝国大学法学部を卒業、大学院で1年学んだ。

シンパとは
ある人物や団体の政治的思想に賛同し信奉者となった人のことをさす言葉。英語のシンパサイザー(Sympathizer)の略。

この前後に共産主義のシンパになるが、運動には携わらなかった。

たとえば、一高時代に森戸事件(wikipedia参照)が起きたが、特に社会運動に参加はしていない。

しかし、1923年の関東大震災で無政府主義者の大杉栄、伊藤野枝、大杉の6歳になる甥が憲兵隊に殺害された事件に触発され、社会主義研究を始める。

この人を大きく変えた事件かな?

テキストはマルクスの『資本論』をはじめ、レーニンの『帝国主義論』『国家と革命』であり、中国問題に着目するようになったのはカール・フォーゲルの『目覚めつつある支那』を読んでからである。

1926年5月東京の朝日新聞社に入社、社会部に籍を置く。

同期入社にはのちにゾルゲ事件で検挙された田中慎次郎がいた。

この頃になると、尾崎「草野源吉」偽名で社会主義の研究会や関東出版組合などに所属する。

ここまでは、思考の偏った普通のエリートじゃん。。。
どこが転機だ?

上海へ
1927年10月から翌年まで大阪朝日新聞の支那部に籍を置く。

この大阪赴任中、一高の先輩で日本共産党員の冬野猛夫に会い、影響を受ける。

上海に渡る直前に、一高、東京帝大で同期でドイツ帰りの羽仁五郎から現地の新聞の研究・分析の重要性について教わる。

その後、特派員として1927年11月大阪朝日新聞社上海支局に転勤し、英語とドイツ語に堪能な尾崎は、太田宇之助支局長のもと外交方面を受け持つことになる。

上海滞在中、内山書店に通い、店主の内山完造や、そこに出入りする郭沫若魯迅、中国左翼作家連盟の夏衍と交際する。

また中国共産党とも交流した。

ここかぁ~。。。

昭和3年11月イレーネ・ワイテマイヤーが経営するツァイトガイスト(ドイツ語で「時代精神」の意)書店アグネス・スメドレーに会い、コミンテルン本部機関に加わり諜報活動に間接的に協力するようになる。

さらに、常盤亭という日本料理店において、スメドレーの紹介で、フランクフルター・ツァイトング紙の特派員「ジョンソン」ことリヒャルト・ゾルゲと出会う。

(´・д・`)あ…(察し)。。。

彼を通じてモスクワへ渡った南京政府の動向についてのレポートが高く評価され、南京路にある中華料理店の杏花楼で、ゾルゲから自分はコミンテルンの一員であると告げられ、協力を求められ、承諾する。

\(^o^)/オワタ
でも、スパイから評価されるって、かなりの観察力の持ち主?

実際に尾崎をゾルゲに紹介したのはアメリカ共産党員で当時上海にあった太平洋労働組合書記局(PPTUS)に派遣され、満鉄傘下の国際運輸という運送会社に潜り込んでいた鬼頭銀一である。

鬼頭銀一についてはゾルゲ事件の「謎の人物」とされていました。
米国共産党本部から派遣された日本人共産主義者で1928年にアメリカ共産党日本人部が再建された時の、初代書記です。
文献によってはゾルゲにアグネス・スメドレーが紹介したことになっている物もあります。

昭和6年春に、「日支闘争同盟」の会合に出席した際、満鉄調査部の上海満鉄公処の小松重雄の紹介で、川合貞吉と出会う。

関東軍の動向を探るため、同年6月に川合を満州に派遣する。

諜報活動
1932年2月末
大阪本社から帰国命令を受けて日本に戻り、外報部に勤務。

同年5月末「南龍一」こと宮城与徳が本社に訪ねてきて、彼を介して奈良において6月初旬にゾルゲと再会、彼から諜報活動に従事するよう要請されて、全面的な支援を約束、ゾルゲ諜報団の一員として本格的に活動するようになる。

暗号名は「オットー」である。

ちなみに、ゾルゲは「ラムゼイ」です。

また、鬼頭銀一と神戸や大阪でたびたび会っていた。

1934年10月、東京朝日新聞社に新設された東亜問題調査会勤務となり東京朝日新聞に転じる。

1936年、カリフォルニアのヨセミテで開催された太平洋問題調査会中国問題の専門家として参加西園寺公一と出会い親友となる。

このとき西園寺公一の通訳であった牛場友彦とも面識を得る。

牛場友彦元首相秘書官(左)
西園寺公一(さいおんじ きんかず)(右)
出典
西園寺公一―回顧録「過ぎ去りし、昭和」
NHK特集 御前会議紹介(1)

この会議のパーティーで、オランダ領東インド代表のオランダ人から、アムステルダム・ハンデルス・フラット紙の記者のゾルゲを紹介されて、初めて本名を知ったという。

リヒャルト・ゾルゲ(Richard Sorge)
1895年10月4日 – 1944年11月7日。
ソビエト連邦のスパイ。
1933年(昭和8年)から1941年(昭和16年)にかけてゾルゲ諜報団を組織して日本で諜報活動を行い、ドイツと日本の対ソ参戦の可能性などの調査に従事し、ゾルゲ事件の首謀者として日本を震撼させた人物。

リヒャルト・ゾルゲ有名な写真ソビエト連邦のスパイ。ゾルゲ諜報団を組織して日本で諜報活動。出典:ja.wikipedia.org
リヒャルト・ゾルゲ
有名な写真
ソビエト連邦のスパイ。
ゾルゲ諜報団を組織して
日本で諜報活動。
出典:三省堂「画報日本近代の歴史12」より

翌1937年4月から近衛文麿側近の後藤隆之助が主宰する政策研究団体である昭和研究会に佐々弘雄(さっさ ひろお)の紹介で参加。

7月、東京朝日を退社し、総理大臣秘書官の牛場友彦の斡旋第1次近衛内閣の内閣嘱託となる。

同時に、近衛主催の政治勉強会「朝食会」に参加、この関係は、第2次近衛内閣、第3次近衛内閣まで続いた。

1939年6月1日満鉄調査部嘱託職員として東京支社に勤務。
ゾルゲ事件で逮捕されるまで、同社に勤務する。

後藤 隆之助(ごとう りゅうのすけ)(1888年12月20日 - 1984年8月21日)出典:blogs.yahoo.co.jp
後藤 隆之助
(ごとう りゅうのすけ)
(1888年12月20日 – 1984年8月21日)
近衛文麿側近でブレーンの一人
出典:なんめり真正ネット保守 活動家のブログ

評論と政治活動
評論家としては中国問題に関して『朝日新聞』『中央公論』『改造』で論陣を張った。

1937年(昭和12年)年7月盧溝橋事件が起こると、『中央公論』9月号で「南京政府論」を発表し、

蒋介石の国民政府は「半植民地的・半封建的支那の支配層、国民ブルジョワ政権」であり、「軍閥政治」である。

として酷評し、これにこだわるべきでないと主張した。

また、9月23日付の『改造』臨時増刊号でも、局地的解決も不拡大方針もまったく意味をなさないとして講和・不拡大方針に反対、日中戦争拡大方針を主張した。

まあ、これがコミンテルン(共産主義政党による国際組織)の狙いでもあったわけだから、日中で話が纏まってしまっては困るわけだ。

盧溝橋事件(ろこうきょうじけん)
中国では一般的に七七事変と呼ばれる。
1937年(昭和12年)7月7日10時に北京(北平)西南方向の盧溝橋で起きた日本軍と中国国民革命軍第二十九軍との衝突事件。

中国側からみた盧溝橋事件の写真出典:history.dwnews.com
中国側からみた
盧溝橋事件の写真
出典:history.dwnews.com

この事件は日中戦争(支那事変)の直接の導火線となった。

11月号では「敗北支那の進路」を発表

「支那に於ける統一は非資本主義的な発展の方向と結びつく」

として中国の共産化を予見した。

こうした主張は、翌1938年(昭和13年)1月16日の第一次近衛声明に影響を与えた。

同年『改造』5月号「長期抗戦の行方」を発表し、日本国民が与えられている唯一の道は戦いに勝つということだけ、他の方法は絶対に考えられない、日本が中国と始めたこの民族戦争の結末をつけるためには、軍事的能力を発揮して、敵指導部の中枢を殲滅するほかないと主張。

また『中央公論』6月号で発表した「長期戦下の諸問題」でも中国との提携が絶対に必要だとの意見に反対し、敵対勢力が存在する限り、これを完全に打倒するしかない、と主張。

講和条約の締結に反対長期戦もやむをえずとして徹底抗戦を説いた。

第1次近衛内閣が成立すると、近衛文麿の側近として軍の首脳部とも緊密な関係を保った。

近衛は尾崎の正体を知った際に驚愕し、

「全く不明の致すところにして何とも申訳無之深く責任を感ずる次第に御座候」

天皇に謝罪している。

近衛文麿(このえ ふみまろ)(1891年10月12日 - 1945年12月16日)ヒトラーと並ぶ、第二次世界大戦における二大ちょび髭の一人時の総理大臣スパイ説も多い。
近衛文麿(このえ ふみまろ)
(1891年10月12日 – 1945年12月16日)
ヒトラーと並ぶ、
第二次世界大戦における二大ちょび髭の一人
時の総理大臣スパイ説も多い。
出典:写真週報 創刊号(Wikimedia Commons)

尾崎が参加した昭和研究会は国策の理念的裏づけを行い、大政翼賛会結成を推進して日本の政治形態を一国一党の軍部・官僚による独裁組織に誘導しているが、昭和研究会のメンバーが同会から発展する形で独自に結成した「昭和塾」のメンバーは尾崎ら共産主義者と企画院グループの「革新官僚」によって構成され、理念的裏づけはことごとくマルクス主義を基にしていた。

共産主義者
尾崎の真の姿「完全な共産主義者」であり、その活動は同僚はもちろん妻にさえ隠し、自称「もっとも忠実にして実践的な共産主義者」として、逮捕されるまで正体が知られることはなかった。

コミンテルンの活動家となったきっかけは幼少の頃台湾に住んでいたときに感じた差別
大学時代に起こった「大正十二年夏の第一次共産党検挙事件」「農民運動者の検挙事件」「大杉栄とその妻子の殺害事件(甘粕事件)」などから刺激を受け、社会主義を開拓していくことに英雄主義的な使命を感じたからである。

その後、大学院に進学し、「唯物論研究会」に参加、共産主義の研究に没頭することになり、完全な共産主義者となった。

1928年(昭和3年)から上海に渡り、コミンテルンの一員として諜報活動に参加するようになる。

具体的な活動内容国内での暗躍および諜報である。

逮捕後の取調べでは

「我々のグループの目的・任務は、狭義には世界共産主義革命遂行上の最も重要な支柱であるソ連を日本帝国主義から守ること」

と供述している。

ゾルゲ事件と刑
1941年(昭和16年)10月14日にゾルゲ事件の首謀者の一人として逮捕された。

訊問には積極的に答えたので、28回分の検事・司法警察官訊問調書、また、28回分の予審判事訊問調書などの、膨大な量の資料を遺した。

ヾ(-ε-o)ォィォィ

しかしながら、特高警察により目黒警察署において連日激しい拷問を加えられ、留置場には血みどろで四つん這いでなければ帰れない状態であったらしい。

拘置所で一緒だった伊藤律は、回想録で恰幅の良かった尾崎がやせ衰えていた事、別件の調査で尾崎に面会した予審判事の小林健治総白髪になっていたことに驚いたと記している。

1944年(昭和19年)ロシア革命記念日にあたる11月7日に、国防保安法違反、軍機保護法違反、治安維持法違反により巣鴨拘置所でリヒャルト・ゾルゲと共に絞首刑に処された。

東京豊島区・巣鴨プリズン全景(1948年11月)出典:mainichi.jp
東京豊島区・巣鴨プリズン全景
(1948年11月)
出典:mainichi.jp

ちなみに、跡地は現在こうなっています。

東池袋中央公園(要するにサンシャイン60のある所全部です)出典:ameblo.jp
東池袋中央公園
(要するにサンシャイン60のある所全部です)
出典:あれ!それ!これ!

ソ連のスパイとして働いた功績からソ連政府から勲章と表彰状を受けたとされていたが、近年その存在が確認された。

それを受けて、ロシア政府は親族からの申し出があれば勲章と賞状を授与すると2010年1月発表している。

また尾崎と共に活動し投獄、獄死した宮城与徳の遺族は、勲章と表彰状を受領した。

授与式でベールイ大使は「世界をファシズムから解放するのに貢献した一人」とたたえた。出典:www.47news.jp
ベールイ駐日ロシア大使(右)から授与された
宮城与徳への勲章を見せる、めいの徳山敏子さん
東京都内のロシア大使館(2010/01/13 )
出典:47NEWS

戦後になって、ゾルゲらの活動は反戦平和活動だったと再評価する見方も出ている。

と、フォローしてみたw

また、尾崎 秀実の墓は多磨霊園にある。

抜粋:http://my-tiny.com/furd(wikipedia)より

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