レナ虐殺事件
1912年4月17日(ユリウス暦4月4日)
ロシア帝国のシベリアのレナ川付近でストライキを行っていた
金鉱労働者をロシア帝国軍が射殺した事件。
この事件自体あまり資料が少ない。
この頃のロシアはね(´・д・`)あ…(察し)
ロシアの政治や労働運動に衝撃を与え、革命家ウラジーミル・ウリヤノフがペンネームを「レーニン」(レナ川の人)にするきっかけになった事件とする説もあるが、レーニンはこの事件より前から「レーニン」という偽名を使っている。
概要
事件はバイカル湖の北方、ボダイボの町から離れたレナ川沿岸にあるイギリス系企業レナ金鉱株式会社(通称レンゾロト Lenzoloto)の鉱山多数で起こった。
1853年にイルクーツク商人が設立したレナ金産業会社はレナ川流域に多くの金山を開発してロシアの金の4分の1を生産していたが、20世紀初頭に英露協商が結ばれたことによりロシア帝国は英国資本を受け入れ、レンゾロトも英国の金鉱企業の傘下に置かれた。
当時、レンゾロトの株主にはセルゲイ・ヴィッテ伯爵、ロシア皇太后マリア・フョードロヴナなどロシアの上流階級も多く、彼らには巨額の利益が入ったが、その源になったのは金鉱労働者の過酷な労働であった。
労働者は1日に15時間から16時間働き、労働者1000人ごとに700件以上の割合で後遺症の残るような事故が起きていた。
労働者は、安い給料の中から会社に対する罰金を払わざるを得ない場合もあったほか、給料の一部は会社が経営する商店でしか使えないクーポンの形で払われていた。
こうした劣悪な労働条件に対する不満が高まり、1912年3月13日(ユリウス暦2月29日)にアンドレイエフスキー金鉱で偶発的にストライキが起こった。
ストの直接の原因は、商店の一つが配給した肉が腐っていたことだった。
3月17日(ユリウス暦3月4日)、労働者たちは次のような要求を行った。
一日8時間労働
賃金の30%値上げ
罰金の撤廃
食糧配給の改善
などである。
しかし経営側の回答はそのどれをも満たさなかった。
ストライキ中央委員会はレンゾロト所有の全鉱山にストを拡大し、3月中旬には6,000人がストに入った。
帝国政府はキレンスクとボダイボに軍を送り、4月17日(ユリウス暦4月4日)の夜、ストライキ中央委員会の全メンバーが逮捕された。
翌朝彼らの即時釈放を求めて労働者が集まり、昼からは2,500人ほどが、検察官に経営側の専横への告訴を求めるためナデジディンスキー金鉱へ向かって行進を始めた。
しかし途中で行進は軍と鉢合わせになり、兵士らがトレシチェンコフ大佐の命令で労働者に対し発砲し、多数の犠牲者を出した。
この画像をトップに貼れるわけがない!
なので、友情出演・竜宮レナ
(ひぐらしのなく頃にシリーズより)なのです。
地元紙ズヴェズダーの報道では270人死亡、250人負傷であり、後のソビエト連邦時代にはプロパガンダにこの数字が使われたが、鉱山からのユリウス暦(以下旧暦)4月5日付の報告の一つでは死者150人負傷者100人とある。
これに対しロシアの大衆は怒り、中央政府に事件調査のための委員会を金鉱へ送るよう要求した。
事件後すぐ、経営側は労働者に新たな労働契約を提案したが、労働側の要求からはなおも遠かった。
って、おい!
虐殺の報道は全ロシアでのストライキを呼び、30万人以上が抗議集会に参加した。
4月には700件の政治的ストライキが起こり、旧暦5月1日にはサンクトペテルブルク地域だけで1,000件のストライキが起こった。
レナ川の金鉱のストライキは8月25日(旧暦8月12日)まで続いたが、残った労働者が鉱山を引き払ったことで終結した。
一連の事件でおよそ9,000人の労働者と家族がレナ川の金鉱から去っている。
そりゃそうでしょ。。。
ドゥーマ(議会)のレナ射殺事件調査委員会の委員長はアレクサンドル・ケレンスキーであった。
目立たない議員だったケレンスキーはこの調査で一躍名をあげ、ドゥーマの主導的議員の一人となり、1917年の二月革命の後にはロシア臨時政府に入閣し首相にまで上り詰める。
ケレンスキーは新しい指導者として大衆の期待を一身に受けた。
彼は、多年にわたって官僚保守の勢力に対抗して闘い、大衆を惹きつける熱意と雄弁をもっていた。
多くの人は、彼を精力的な勇気ある政治家であると信じ、彼を支持することが祖国と革命に忠実であると考えた。
しかし、彼の政治力はその弁舌のように強力なものではなかった。
そして、十月革命が起きる。
情勢の不利を悟ったケレンスキーはペトログラードを脱出、彼はこの時女装し、アメリカ国旗がはためく車に乗っていたといわれる。
数週間を隠れ家で過ごした後フランスに亡命した。
KGBは「ピエロ」のコードネームを付けて彼を監視し、一時は「無力化すべし」とまで報告したが、結局彼は何も危害を受けることはなかった。
第二次世界大戦の危機が迫ると、フランスから米国に亡命し、1940年代以降、米国内で大学講師や、研究所の職員などをしながら職を転々と渡り歩いた。
また革命政権時代に反ユダヤ感情渦巻くロシアにおいて、ユダヤ人の人権保護を訴えたことから、ユダヤ系の人間から資金援助や支援を受けていた。
ケレンスキーは1970年6月11日にニューヨークの自宅で死去。
10月革命の当事者としては最後の生き残りの一人であった。
ところが、ニューヨークの在外ロシア正教会およびセルビア正教会からは、ボリシェヴィキによる政権奪取の責任を問われて埋葬を拒否され、彼の遺体は現在ロンドンに埋葬されている。
抜粋
http://tiny.cc/euo5wx(wikipedia)
http://tiny.cc/yvr5wx(wikipedia)より